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『――助けて』
風の音に紛れそうなほどの小さな声に杏奈は周囲を見渡したが、誰もいない。気のせいかと思い足を踏み出した途端に、眩い光と衝撃に襲われ身体が宙に浮いた。
(あ、終わったな)
痛みは感じなかったが、回る視界の中によぎった大型トラックを見て頭の片隅でそう考えたことを覚えている。
「アンナ!」
見覚えのない天井に記憶を辿ろうとすれば、突然すぐ近くで男性の声が聞こえてぎくりとした。
「良かった。お前が目を覚ましてくれて、本当に……」
切実さを帯びたエメラルドグリーンの瞳、さらさらのプラチナブロンドの男性に心当たりなどない。だが彼は確かに自分の名前を呼んだのだ。
「え、あの……あなた誰ですか?」
驚愕に瞠られた瞳に、やっぱり綺麗だなと場違いな感想を抱いたのは半ば寝ぼけていたからかもしれない。
医者から問診を受けているうちに徐々に違和感が膨らんでいたが、言い出せる雰囲気ではなく、ひとまず大人しくしておくことにした。
最終的には記憶喪失と判断されて杏奈が小さく息を吐くと、クロードと名乗った男性から気遣わし気な視線を向けられた。
「質問ばかりで疲れただろう。飲み物を用意するから、少し休みなさい」
医者とクロードが部屋から出て行くと、杏奈はすぐに洗面台へと向かった。
(……私、じゃない!)
途中からどうも自分の姿が違うんじゃないかと思っていたが、どこからどう見ても別人だった。腰近くまで伸ばしたハニーブロンドは緩やかに波打っていて、橙色のガーネットのような瞳、少し痩せすぎかなと思うぐらいの細面だが、綺麗な顔立ちの女の子だ。
「どう、なってるの?この子は誰?それに私の身体はどこに……」
ふっと脳裏に浮かんだのは突っ込んでくる大型トラックで、杏奈は引きつった悲鳴を喉の奥で呑み込んだ。
(私、多分死んだんだ……)
あんなスピードのトラックに撥ねられて無事だとは思えなかった。だとしたら、杏奈の魂は偶々同じ名前の女の子に入り込んだということだろうか。
(じゃあ、本物のアンナちゃんはどこにいるの?)
医者やクロードのやり取りから、ベランダから転落したらしいと察したが、状況が分からないため口を噤んでいた。
何故か自分がアンナの身体に入ってしまったが、身体が無事なのだからきっと魂も無事なはずだ。
(待って……もしかして私がアンナちゃんの身体を奪ってしまったということ……?)
事故で死んでしまったのは悲しいし後悔も残るが、他人の身体を奪ってまで生き延びたいとは思わない。それにどうやらここはアンナがいた世界とは別のようなのだ。
「えっと、アンナちゃん?傍にいたら、何か合図して欲しいんだけど……」
反応を待ってみたが、外で囀る鳥の声しか聞こえない。どうしたらいいのかと頭を抱えていると、何かがぶつかる音とアンナの名を呼ぶ声が聞こえた。
何やら物々しい雰囲気にそっとドアを開けると、強張った表情のクロードと目が合う。
途端に眉を下げ大きなため息を吐いたクロードは、そのまま自然な動作で杏奈を抱きしめた。
「……またお前を失ってしまったかと思った」
咄嗟に押し退けようとする杏奈の耳に苦しそうな声が届く。背中に添えられた手が震えているような気がして杏奈は身体の力を抜いた。
アンナを心配している気持ちがひしひしと伝わってきたからだ。記憶がないどころか別人が入っているのだが、拒絶してしまえばきっとこの人は悲しむだろう。
幸いなことにすぐにクロードは杏奈を解放してくれた。
「動揺してすまなかった。君にとって俺は初対面の相手なのに軽率な真似をしてしまったな」
「いえ、大丈夫です。私のほうこそ心配をおかけしてしまってすみません」
お互いに頭を下げると、ソファーへと案内された。いつの間に準備してくれたのか、テーブルの上には紅茶だけでなく焼き菓子やサンドイッチなどの軽食も並んでいる。
二日間目を覚まさなかったと言われた時には実感がなかったが、食べ物を前にした途端に空腹感が刺激された。
勧められて遠慮なく口にすると、どれも美味しくてフォークが止まらない。気が付けばそんな杏奈をクロードは口元に笑みを浮かべて見つめていて、夢中になり過ぎたと反省した。
「俺は君の従兄であり、婚約者なんだ」
「えっ!あ、そうなんですね」
食事が一段落したところで口火を切ったクロードに、アンナは驚いて声を上げてしまった。甲斐甲斐しく世話を焼く様子に兄だと思い込んでしまっていたが、婚約者とは想定外だ。
(……ということは、アンナちゃんはもうすぐ結婚する予定だったのね)
ますます罪悪感が募り表情を曇らせた杏奈に、クロードはぽつりと呟いた。
「……嫌なのか?」
「え、何がですか?」
質問の意味が分からずに首を傾げると、クロードは言葉を付け加えた。
「俺が婚約者だと知って落胆したように見えた」
「そんなことないです!クロードさんみたいな素敵な方を……忘れてしまったのが申し訳なくて」
咄嗟に記憶喪失だと言うことにしてしまったのは、正直に話して良いものかと迷ってしまったからだ。だがその場しのぎの言葉を言い終える前に、ふわりと浮かんだクロードの微笑に杏奈の目が釘付けになる。
(――って、何見惚れているの!彼はアンナちゃんの婚約者でしょう!)
心の中で自分を叱咤しながら、杏奈は誤魔化すように紅茶に口を付けた。そのためそんな杏奈をクロードが複雑な表情で見つめていることには気づかなかった。
風の音に紛れそうなほどの小さな声に杏奈は周囲を見渡したが、誰もいない。気のせいかと思い足を踏み出した途端に、眩い光と衝撃に襲われ身体が宙に浮いた。
(あ、終わったな)
痛みは感じなかったが、回る視界の中によぎった大型トラックを見て頭の片隅でそう考えたことを覚えている。
「アンナ!」
見覚えのない天井に記憶を辿ろうとすれば、突然すぐ近くで男性の声が聞こえてぎくりとした。
「良かった。お前が目を覚ましてくれて、本当に……」
切実さを帯びたエメラルドグリーンの瞳、さらさらのプラチナブロンドの男性に心当たりなどない。だが彼は確かに自分の名前を呼んだのだ。
「え、あの……あなた誰ですか?」
驚愕に瞠られた瞳に、やっぱり綺麗だなと場違いな感想を抱いたのは半ば寝ぼけていたからかもしれない。
医者から問診を受けているうちに徐々に違和感が膨らんでいたが、言い出せる雰囲気ではなく、ひとまず大人しくしておくことにした。
最終的には記憶喪失と判断されて杏奈が小さく息を吐くと、クロードと名乗った男性から気遣わし気な視線を向けられた。
「質問ばかりで疲れただろう。飲み物を用意するから、少し休みなさい」
医者とクロードが部屋から出て行くと、杏奈はすぐに洗面台へと向かった。
(……私、じゃない!)
途中からどうも自分の姿が違うんじゃないかと思っていたが、どこからどう見ても別人だった。腰近くまで伸ばしたハニーブロンドは緩やかに波打っていて、橙色のガーネットのような瞳、少し痩せすぎかなと思うぐらいの細面だが、綺麗な顔立ちの女の子だ。
「どう、なってるの?この子は誰?それに私の身体はどこに……」
ふっと脳裏に浮かんだのは突っ込んでくる大型トラックで、杏奈は引きつった悲鳴を喉の奥で呑み込んだ。
(私、多分死んだんだ……)
あんなスピードのトラックに撥ねられて無事だとは思えなかった。だとしたら、杏奈の魂は偶々同じ名前の女の子に入り込んだということだろうか。
(じゃあ、本物のアンナちゃんはどこにいるの?)
医者やクロードのやり取りから、ベランダから転落したらしいと察したが、状況が分からないため口を噤んでいた。
何故か自分がアンナの身体に入ってしまったが、身体が無事なのだからきっと魂も無事なはずだ。
(待って……もしかして私がアンナちゃんの身体を奪ってしまったということ……?)
事故で死んでしまったのは悲しいし後悔も残るが、他人の身体を奪ってまで生き延びたいとは思わない。それにどうやらここはアンナがいた世界とは別のようなのだ。
「えっと、アンナちゃん?傍にいたら、何か合図して欲しいんだけど……」
反応を待ってみたが、外で囀る鳥の声しか聞こえない。どうしたらいいのかと頭を抱えていると、何かがぶつかる音とアンナの名を呼ぶ声が聞こえた。
何やら物々しい雰囲気にそっとドアを開けると、強張った表情のクロードと目が合う。
途端に眉を下げ大きなため息を吐いたクロードは、そのまま自然な動作で杏奈を抱きしめた。
「……またお前を失ってしまったかと思った」
咄嗟に押し退けようとする杏奈の耳に苦しそうな声が届く。背中に添えられた手が震えているような気がして杏奈は身体の力を抜いた。
アンナを心配している気持ちがひしひしと伝わってきたからだ。記憶がないどころか別人が入っているのだが、拒絶してしまえばきっとこの人は悲しむだろう。
幸いなことにすぐにクロードは杏奈を解放してくれた。
「動揺してすまなかった。君にとって俺は初対面の相手なのに軽率な真似をしてしまったな」
「いえ、大丈夫です。私のほうこそ心配をおかけしてしまってすみません」
お互いに頭を下げると、ソファーへと案内された。いつの間に準備してくれたのか、テーブルの上には紅茶だけでなく焼き菓子やサンドイッチなどの軽食も並んでいる。
二日間目を覚まさなかったと言われた時には実感がなかったが、食べ物を前にした途端に空腹感が刺激された。
勧められて遠慮なく口にすると、どれも美味しくてフォークが止まらない。気が付けばそんな杏奈をクロードは口元に笑みを浮かべて見つめていて、夢中になり過ぎたと反省した。
「俺は君の従兄であり、婚約者なんだ」
「えっ!あ、そうなんですね」
食事が一段落したところで口火を切ったクロードに、アンナは驚いて声を上げてしまった。甲斐甲斐しく世話を焼く様子に兄だと思い込んでしまっていたが、婚約者とは想定外だ。
(……ということは、アンナちゃんはもうすぐ結婚する予定だったのね)
ますます罪悪感が募り表情を曇らせた杏奈に、クロードはぽつりと呟いた。
「……嫌なのか?」
「え、何がですか?」
質問の意味が分からずに首を傾げると、クロードは言葉を付け加えた。
「俺が婚約者だと知って落胆したように見えた」
「そんなことないです!クロードさんみたいな素敵な方を……忘れてしまったのが申し訳なくて」
咄嗟に記憶喪失だと言うことにしてしまったのは、正直に話して良いものかと迷ってしまったからだ。だがその場しのぎの言葉を言い終える前に、ふわりと浮かんだクロードの微笑に杏奈の目が釘付けになる。
(――って、何見惚れているの!彼はアンナちゃんの婚約者でしょう!)
心の中で自分を叱咤しながら、杏奈は誤魔化すように紅茶に口を付けた。そのためそんな杏奈をクロードが複雑な表情で見つめていることには気づかなかった。
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