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本末転倒
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「クロエ様と何かありましたの?」
短い問いかけにも関わらず、アネットはその意味がすぐに理解できなかった。少し困ったような笑みを浮かべるフルールの表情に、何か自分が決定的な間違いを犯したような気がして言葉が出てこない。
「もしご事情がおありでしたら、無理に話さなくても大丈夫ですわ」
「……いえ、事情などありませんわ。その、フルール様はどうしてそう思われましたの?」
アネットに思い当る節はないが、フルールが確信的な質問をしたのなら何かそう思われるだけの理由があるはずだ。
「わたくしだけではなくて、レア様も心配してらっしゃいましたわ。時折お二人のご様子がどこかぎこちないと申しますか、遠慮し合っているように見受けられましたの。差し出がましいようですが、何かお力になれることがあればと思って」
気遣うようなフルールの言葉を嬉しく思うよりも、アネットは壁に頭を打ち付けたくなる。
(私は何をしているの!!)
クロエの様子が違うことに気づかないなんてあり得ない。血の気が引いていくのを感じるアネットにフルールは気遣わしげな表情のまま続けた。
「クロエ様にもお考えがあってのことかもしれませんが――」
フルールの話を聞いたアネットは、反射的に教室を飛び出していた。
(お姉様、お姉様、お姉様!)
一秒でも早くクロエに会いたい、その想いだけで駆けるアネットの様子は、傍から見れば令嬢にあるまじき行為だ。だが今のアネットにはそんなことを気にする余裕もない。
クロエの部屋の前に辿り着き、性急にノックをすると驚いた表情のミリーが出迎えてくれた。
「……お姉様は?」
息を切らしながら短く問うアネットにミリーは困ったような顔で告げた。
「まだお戻りになっておりません。……てっきりアネット様とご一緒とばかり思っておりましたが、何かあったのですか?」
ミリーの問いかけにアネットは答えられなかった。クロエの身に何か特別なことが起こったわけではない。
差し迫った脅威などではなく、アネットを駆り立てている焦燥感は知らされなかったことへのショックと不安から派生していた。
(お姉様もこんな気持ちだったのかしら……)
リシャールとのことも、嫌がらせのことも自力で解決しようとしたアネットだが、クロエはいつも打ち明けて欲しいと言ってくれた。それでもクロエを煩わせたくないという気持ちから躊躇っていたのだが、いざ自分が逆の立場になれば不安で胸が苦しくなる。
込み上げてくる罪悪感と悲しさに目元が熱を帯びてくるのを感じた。それを振り払うようにぎゅっと強く目を閉じてから顔を上げれば、不安そうな表情のミリーと目があってアネットは慌ててぎこちない笑みを浮かべて誤魔化す。
「ごめんなさい。お姉様に会いたくなっただけなの」
クロエが自分の予定をアネットに告げる義務はない。嘘を吐かれたわけではなく、ただ言わなかっただけ。自分だって何もかもクロエに打ち明けているわけではないのに、色々な感情が入り混じって落ち着かない。
(こんな状態でお姉様とお話ししても、きっと良くないわ)
不在で逆に良かったのだと納得したアネットが自室に戻ろうと考えた矢先のことだった。
「アネット、来ていたのね」
大好きなクロエの声を聞きたくないと感じたのは初めてだった。
「それで、何かあったのかしら?」
カップをソーサーに戻してアネットを見つめるクロエはいつも通りに見える。それが何故かとても寂しいような切ないような感覚に胸が詰まった。
「……お姉様は最近よくお茶会にご参加されているとお聞きしました」
迷いながらも告げた言葉はどこか責めるような響きが伴い、アネットは自分の発言にもかかわらずヒヤリとする。それなのにクロエの返答は淡々としたものだった。
「ええ、それがどうかしたの?」
貴族令嬢として、何よりも第二王子の婚約者としてお茶会に参加することは何らおかしいことではない。
教えてくれなかったことに憤りを覚えるのは間違っている。身勝手な感情だと自覚したからこそアネットはそれ以上言葉を続けることができない。
大好きなクロエといるのにどうしていいか分からず指先をぎゅっと握りしめれば、ふっと空気が動いた。
「アネット、わたくしはもう大丈夫よ。だから心配しないで」
その瞳には慈愛の色が浮かび、口元にも微笑みを浮かべているのにアネットは息が止まりそうなほどに衝撃を受けた。
その後どうやって部屋に戻ったかよく覚えていない。
(お姉様の行為は何も間違っていないし、ちゃんと気遣ってくれた)
アネットの不安を宥めるように掛けてくれた言葉には温かく労わるような色があったのに、何故か線を引かれたような気がした。
クロエの将来を考えればアネットが全て先回りしてクロエを守ることなど不可能だ。隣にいたはずの存在が急に手元を離れたような心細さに、まるで子離れできない親のようだとアネットは自嘲の笑みを浮かべる。
「そうよね。お姉様は行儀作法も成績も素晴らしいし、王子妃教育だって受けているもの」
もう幼い少女ではないのだと分かっていても、割り切れない感情にアネットは自分がクロエにどれだけ甘えていたのかと思い知らされた。アネットにとってクロエは大切な唯一の家族であり、長年庇護すべき存在だったのだ。そしてそれこそがアネットの精神的な支えとなっていた。
(推しとの距離が近すぎるのはマナー違反というものよね)
自分の存在がクロエの迷惑になるようでは本末転倒である。もやもやした感情を飲み込んでアネットは自分の行動を振り返り、一人反省会を行うのだった。
いつもより苦く感じる紅茶をクロエは愁いとともに飲み込んだ。
人の気配を感じて顔を上げれば、クロエの前に新しいカップが差し出された。湯気が立ち昇り甘い香りが鼻腔をくすぐり、肩の力が抜けていくように感じる。
「……アネットを傷付けてしまったわ。せっかく心配してくれたのに」
指先を温めるようにカップを両手で包み込み、蜂蜜入りのホットミルクを飲む。クロエがぽつりと心情を吐露すれば、傍に立つミリーは優しい表情でクロエの言葉に耳を傾けてくれる。
「お茶会で嫌なことを言われても平気なの。でもアネットに話せば何があったか気付かれてしまうし、きっとわたくしのために無茶をするわ。あの子にはもっと自分のために時間を使って欲しいのに、嫌な思いをさせてしまうなんてこれでは本末転倒ね……」
「アネット様はクロエ様のことが大好きですからね」
控えめに返ってきたミリーの言葉に自然と口元が緩む。
(大好きな、わたくしの可愛い妹)
お茶会での不愉快な言葉を思い出せば悔しくてたまらない。クロエを直接貶めることが難しいと悟った令嬢たちは、さもクロエに同情しているという風に婉曲な言い回しでアネットを侮辱する発言を繰り返した。
アネットを擁護すればするほど、令嬢たちはクロエを褒め称えながらもアネットを貶める。
毅然とした態度は年長の淑女に通用しても、まだ成人を迎えていない令嬢たちには逆効果なようで、薄っぺらく耳触りの良い言葉の裏には侮るような響きがあった。
もちろん相手にはせず彼女たちの発言や交友関係を把握しつつ、淡々と情報収集を行う。そんな中でも思慮深い令嬢や聡明で才能のある将来有望な令嬢たちを見定めていくのがクロエの務めだ。
「アネットに紹介できる友人が出来たら、ちゃんと話すわ」
そう決めてしまえば、楽しくないお茶会も頑張ろうという気になった。甘いホットミルクと慈愛の表情を浮かべた侍女のお陰で心が落ち着いたようだ。
アネットの無邪気な笑顔を思い浮かべて、クロエは自分の為すべきことに集中することを決めた。
短い問いかけにも関わらず、アネットはその意味がすぐに理解できなかった。少し困ったような笑みを浮かべるフルールの表情に、何か自分が決定的な間違いを犯したような気がして言葉が出てこない。
「もしご事情がおありでしたら、無理に話さなくても大丈夫ですわ」
「……いえ、事情などありませんわ。その、フルール様はどうしてそう思われましたの?」
アネットに思い当る節はないが、フルールが確信的な質問をしたのなら何かそう思われるだけの理由があるはずだ。
「わたくしだけではなくて、レア様も心配してらっしゃいましたわ。時折お二人のご様子がどこかぎこちないと申しますか、遠慮し合っているように見受けられましたの。差し出がましいようですが、何かお力になれることがあればと思って」
気遣うようなフルールの言葉を嬉しく思うよりも、アネットは壁に頭を打ち付けたくなる。
(私は何をしているの!!)
クロエの様子が違うことに気づかないなんてあり得ない。血の気が引いていくのを感じるアネットにフルールは気遣わしげな表情のまま続けた。
「クロエ様にもお考えがあってのことかもしれませんが――」
フルールの話を聞いたアネットは、反射的に教室を飛び出していた。
(お姉様、お姉様、お姉様!)
一秒でも早くクロエに会いたい、その想いだけで駆けるアネットの様子は、傍から見れば令嬢にあるまじき行為だ。だが今のアネットにはそんなことを気にする余裕もない。
クロエの部屋の前に辿り着き、性急にノックをすると驚いた表情のミリーが出迎えてくれた。
「……お姉様は?」
息を切らしながら短く問うアネットにミリーは困ったような顔で告げた。
「まだお戻りになっておりません。……てっきりアネット様とご一緒とばかり思っておりましたが、何かあったのですか?」
ミリーの問いかけにアネットは答えられなかった。クロエの身に何か特別なことが起こったわけではない。
差し迫った脅威などではなく、アネットを駆り立てている焦燥感は知らされなかったことへのショックと不安から派生していた。
(お姉様もこんな気持ちだったのかしら……)
リシャールとのことも、嫌がらせのことも自力で解決しようとしたアネットだが、クロエはいつも打ち明けて欲しいと言ってくれた。それでもクロエを煩わせたくないという気持ちから躊躇っていたのだが、いざ自分が逆の立場になれば不安で胸が苦しくなる。
込み上げてくる罪悪感と悲しさに目元が熱を帯びてくるのを感じた。それを振り払うようにぎゅっと強く目を閉じてから顔を上げれば、不安そうな表情のミリーと目があってアネットは慌ててぎこちない笑みを浮かべて誤魔化す。
「ごめんなさい。お姉様に会いたくなっただけなの」
クロエが自分の予定をアネットに告げる義務はない。嘘を吐かれたわけではなく、ただ言わなかっただけ。自分だって何もかもクロエに打ち明けているわけではないのに、色々な感情が入り混じって落ち着かない。
(こんな状態でお姉様とお話ししても、きっと良くないわ)
不在で逆に良かったのだと納得したアネットが自室に戻ろうと考えた矢先のことだった。
「アネット、来ていたのね」
大好きなクロエの声を聞きたくないと感じたのは初めてだった。
「それで、何かあったのかしら?」
カップをソーサーに戻してアネットを見つめるクロエはいつも通りに見える。それが何故かとても寂しいような切ないような感覚に胸が詰まった。
「……お姉様は最近よくお茶会にご参加されているとお聞きしました」
迷いながらも告げた言葉はどこか責めるような響きが伴い、アネットは自分の発言にもかかわらずヒヤリとする。それなのにクロエの返答は淡々としたものだった。
「ええ、それがどうかしたの?」
貴族令嬢として、何よりも第二王子の婚約者としてお茶会に参加することは何らおかしいことではない。
教えてくれなかったことに憤りを覚えるのは間違っている。身勝手な感情だと自覚したからこそアネットはそれ以上言葉を続けることができない。
大好きなクロエといるのにどうしていいか分からず指先をぎゅっと握りしめれば、ふっと空気が動いた。
「アネット、わたくしはもう大丈夫よ。だから心配しないで」
その瞳には慈愛の色が浮かび、口元にも微笑みを浮かべているのにアネットは息が止まりそうなほどに衝撃を受けた。
その後どうやって部屋に戻ったかよく覚えていない。
(お姉様の行為は何も間違っていないし、ちゃんと気遣ってくれた)
アネットの不安を宥めるように掛けてくれた言葉には温かく労わるような色があったのに、何故か線を引かれたような気がした。
クロエの将来を考えればアネットが全て先回りしてクロエを守ることなど不可能だ。隣にいたはずの存在が急に手元を離れたような心細さに、まるで子離れできない親のようだとアネットは自嘲の笑みを浮かべる。
「そうよね。お姉様は行儀作法も成績も素晴らしいし、王子妃教育だって受けているもの」
もう幼い少女ではないのだと分かっていても、割り切れない感情にアネットは自分がクロエにどれだけ甘えていたのかと思い知らされた。アネットにとってクロエは大切な唯一の家族であり、長年庇護すべき存在だったのだ。そしてそれこそがアネットの精神的な支えとなっていた。
(推しとの距離が近すぎるのはマナー違反というものよね)
自分の存在がクロエの迷惑になるようでは本末転倒である。もやもやした感情を飲み込んでアネットは自分の行動を振り返り、一人反省会を行うのだった。
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人の気配を感じて顔を上げれば、クロエの前に新しいカップが差し出された。湯気が立ち昇り甘い香りが鼻腔をくすぐり、肩の力が抜けていくように感じる。
「……アネットを傷付けてしまったわ。せっかく心配してくれたのに」
指先を温めるようにカップを両手で包み込み、蜂蜜入りのホットミルクを飲む。クロエがぽつりと心情を吐露すれば、傍に立つミリーは優しい表情でクロエの言葉に耳を傾けてくれる。
「お茶会で嫌なことを言われても平気なの。でもアネットに話せば何があったか気付かれてしまうし、きっとわたくしのために無茶をするわ。あの子にはもっと自分のために時間を使って欲しいのに、嫌な思いをさせてしまうなんてこれでは本末転倒ね……」
「アネット様はクロエ様のことが大好きですからね」
控えめに返ってきたミリーの言葉に自然と口元が緩む。
(大好きな、わたくしの可愛い妹)
お茶会での不愉快な言葉を思い出せば悔しくてたまらない。クロエを直接貶めることが難しいと悟った令嬢たちは、さもクロエに同情しているという風に婉曲な言い回しでアネットを侮辱する発言を繰り返した。
アネットを擁護すればするほど、令嬢たちはクロエを褒め称えながらもアネットを貶める。
毅然とした態度は年長の淑女に通用しても、まだ成人を迎えていない令嬢たちには逆効果なようで、薄っぺらく耳触りの良い言葉の裏には侮るような響きがあった。
もちろん相手にはせず彼女たちの発言や交友関係を把握しつつ、淡々と情報収集を行う。そんな中でも思慮深い令嬢や聡明で才能のある将来有望な令嬢たちを見定めていくのがクロエの務めだ。
「アネットに紹介できる友人が出来たら、ちゃんと話すわ」
そう決めてしまえば、楽しくないお茶会も頑張ろうという気になった。甘いホットミルクと慈愛の表情を浮かべた侍女のお陰で心が落ち着いたようだ。
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