上 下
26 / 60

互いの距離

しおりを挟む
「アネットはリシャール様のことをどう思っているの?」

食後のお茶を頂いていると、クロエから不意に訊ねられた。驚いて顔を上げると真剣な表情のクロエと目が合い、居住まいを正して答える。

「以前はただの同級生として認識しておりましたが、今は友人だと思っております」

気づいたばかりの心情を告げると、クロエは小さく嘆息した。

「お姉様、リシャール様には本当に良くしていただいていますわ」

少し前までクロエはリシャールに対して悪感情を抱いていたので、今回のことでリシャールの印象が悪くなってしまったのなら申し訳ない。

「いえ、そうではないの。アネットが望むのなら構わないのよ。……ただ今回のように危ない目に遭うのであれば、リシャール様とは距離を置いたほうが良いのではないかと思ってしまったの」

クロエの言葉にアネットが考えたのは数秒のことだった。

「ではリシャール様に明後日お話ししておきますね」
「アネット!?」

さらりと伝えれば目を丸くしてクロエが驚きの声を上げた。

「殿下も最初おっしゃっていたように、それで嫌がらせが止むのなら誰も傷つきませんもの」

協力してもらったリシャールには申し訳ないし少し寂しい気もするが、それはアネットが飲み込めばいいだけの感傷だ。友人だと思えるぐらいの存在ではあるが、それは学園内だけの関係性であり卒業してしまえば身分も異なる上に、ましてや将来平民になる可能性のあるアネットには遠い存在になる。

(それならば今離れてしまっても問題ないわ)

脳裏に浮かんだリシャールの悲しそうな表情を振り払っていると、落ち着かないように彷徨っていたクロエの瞳がまっすぐにアネットを捉えた。

「アネット、それは違うわ。リシャール様はきっと傷つくし、貴女だって友人だと思っている相手を切り離して平気な子ではないでしょう。……わたくしの不用意な発言で惑わしてしまってごめんなさい」

しゅんとしてしまったクロエにアネットは挽回すべく必死で頭を巡らせる。

「いえ、リシャール様は私のことを友人と思ってくださっているか分かりませんし、どのみち一時的な関係ですから。逆の立場であれば私もお姉様を説得したと思います」
「一時的な関係、とはどういうことかしら?」

うっかり言葉にしてしまった言葉にクロエが敏感に反応する。ミリーは既に下がっていてクロエと二人きりだ。
少し緊張しながらもアネットは侯爵家に留まるつもりがないこと、卒業後は平民としてどこかで職を得ようと考えていることなどを打ち明けた。

「……アネットと会えなくなるのね」

ぽつりと漏れたクロエの第一声が、貴族令嬢としての義務を放棄するアネットへの叱責でなかったことにアネットは安堵する。アネットの考え方は普通の貴族であれば眉をひそめるものに違いない。

「お父様には育ててもらって教育を施してくれたことに感謝の気持ちもありますが、それでもお父様の望むとおりの人生を思い描くことができないのです。そのために掛かった費用は一生かけても支払いたいとは思っています」

散財はしなかったが、侯爵家で与えられたものは決して安価ではなく恐らくかなりの額になる。だからと言ってそれすらも放棄してしまうような無責任な人間になりたくなかった。

前世で生きた年齢に満たないとはいえ、貴族の常識や生き方をアネットは知っている。政略結婚が当たり前の世界で相思相愛の結婚する者など一割にも満たないだろう。
アネットにとって、それはひどく寂しく疲弊するものに思えた。誰かに愛されたいと切実に願うわけではないが、そのような未来よりも一人で生きる力が欲しい。
そんなアネットにクロエは真剣な表情のまま、アネットの頬に両手を添えた。

「リシャール様を手放さないでちょうだい」
懇願するような口調にアネットは戸惑った。

「アネットはわたくしに多くの大切なものを与えてくれたわ。だからこそわたくしは貴女に何一つ諦めて欲しくないの。学園に通う間しか一緒にいられないのなら、わたくしの用いる全てを使って貴女を守るわ」

それはまるで厳粛な誓いのように澄み切った泉のような清らかさがあった。クロエの想いがアネットの心にじわりと沁み込んでいく。

「――お姉様、ありがとうございます」
伝えたいことはたくさんあるのに、それ以上言葉にすることが出来ない。クロエはそんなアネットを甘やかすように優しく頭を撫でて微笑んだのだった。




「アネット嬢と距離を置いたほうがよいかもしれないね」

セルジュの表情を見た時からそう言われるのではないかという予感があったので、驚きはしなかった。そしてそれは自分でも考えていたことである。

「分かっている。今回のことは完全に俺の手落ちだ」

そう返すとセルジュは意外そうな表情をリシャールに向ける。

「君は諦めないのかと思ったよ」

ベニエを分けてくれた優しい少女が特別な存在だという自覚はなかった。だがそれでも彼女の姉に向ける表情を羨ましく思い、関心のない態度を取られているうちにこれが初恋というものだとやっと気づいたのだ。
これまでの非礼を許してもらえはしたものの、あまり関わりたくないと言われた後も未練がましく目を離さないでいたおかげで、嫌がらせに気づくことができたのは僥倖だった。

悪意や度を超えた好意からくる執着が激しく心を消耗させることをリシャールはよく理解している。あのままアネットが一人で抱え込まずに済んだことに安堵し、彼女を護ることに密かに充足感を覚えたこともあったが、今回の失態では自分の浅はかさを悔やむばかりだ。

(俺がもっと気を配っていれば……)
いつもはカーネリアンのように輝く橙色の瞳が、光を失ったかのように虚ろに見開かれているのを見た時にはぞっとした。

保健室に連れていくために彼女の手を引けば、僅かに震えているのを感じて、どれだけ怖い思いをしたのだろうと胸が締め付けられた。
赤紫に腫れた膝は痛々しく、動揺を隠して事の経緯を訊ねれば淡々と話してくれたが、握りしめた両手はアネットの感じた恐怖や痛みを表わしている。

『リボン、盗られちゃった…。……せっかく、くれたのに……大切にしてたのに……ごめんなさい…っ』

その言葉だけで充分だった。
自分があげたリボンを大切にしてくれていたことが、それを失って涙を零してくれたことで、リシャールは二度とこの少女を傷付けないと決めたのだ。

「俺が離れることで彼女が傷つかないのならそれでいい。…もう二度とあんな風に泣かせたくないんだ」

だけど二度と関わらないのならその前に彼女に渡したいものがある。

「アネット嬢に代わりのリボンを渡したら、もう関わらない。だからそれまでは見逃してくれ」

セルジュが関わるなと命じればリシャールはそれに従わざるを得ない。
優しい従兄はリシャールに命令することなどほとんどないが、大切な婚約者に関することについては別だ。

「ただの提案であって命令ではないよ。クロエが心配しているのを見てつい苛立ってしまったけど、アネット嬢の言動もまたクロエのためだと分かっているから怒っていない」

自分と同じくクロエもまた感情を表に出すことは少ないのだが、セルジュとアネットにはその微妙な差異が分かるらしい。二人といる時と他の者と話している時では雰囲気が少々異なるように感じているが、それが分かる者は少ないだろう。

「犯人はちゃんと特定するからお前は動かないでくれ。……ただアネット嬢にも気を配ってくれると助かる。俺は近くで守れないから」
「勿論だよ。彼女はクロエの大切な妹だからね」

その言葉に胸を撫でおろしたリシャールは、懇意にしている服飾店への手配とカフェへの予約を従者に告げる。

(最後なのだから彼女の笑顔がたくさん見られるといいな)

幸せそうにベニエを頬張っていた少女の笑顔が瞼に浮かび、リシャールは切なさを含んだ笑みを浮かべ、明後日に備えることにした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】無意識 悪役公爵令嬢は成長途中でございます!幼女篇

愚者 (フール)
恋愛
プリムローズは、筆頭公爵の末娘。 上の姉と兄とは歳が離れていて、両親は上の子供達が手がかからなくなる。 すると父は仕事で母は社交に忙しく、末娘を放置。 そんな末娘に変化が起きる。 ある時、王宮で王妃様の第2子懐妊を祝うパーティーが行われる。 領地で隠居していた、祖父母が出席のためにやって来た。 パーティー後に悲劇が、プリムローズのたった一言で運命が変わる。 彼女は5年後に父からの催促で戻るが、家族との関係はどうなるのか? かなり普通のご令嬢とは違う育て方をされ、ズレた感覚の持ち主に。 個性的な周りの人物と出会いつつ、笑いありシリアスありの物語。 ゆっくり進行ですが、まったり読んで下さい。 ★初めての投稿小説になります。  お読み頂けたら、嬉しく思います。 全91話 完結作品

悪役令嬢はお断りです

あみにあ
恋愛
あの日、初めて王子を見た瞬間、私は全てを思い出した。 この世界が前世で大好きだった小説と類似している事実を————。 その小説は王子と侍女との切ない恋物語。 そして私はというと……小説に登場する悪役令嬢だった。 侍女に執拗な虐めを繰り返し、最後は断罪されてしまう哀れな令嬢。 このまま進めば断罪コースは確定。 寒い牢屋で孤独に過ごすなんて、そんなの嫌だ。 何とかしないと。 でもせっかく大好きだった小説のストーリー……王子から離れ見られないのは悲しい。 そう思い飛び出した言葉が、王子の護衛騎士へ志願することだった。 剣も持ったことのない温室育ちの令嬢が 女の騎士がいないこの世界で、初の女騎士になるべく奮闘していきます。 そんな小説の世界に転生した令嬢の恋物語。 ●表紙イラスト:San+様(Twitterアカウント@San_plus_) ●毎日21時更新(サクサク進みます) ●全四部構成:133話完結+おまけ(2021年4月2日 21時完結)  (第一章16話完結/第二章44話完結/第三章78話完結/第四章133話で完結)。

公爵令嬢 メアリの逆襲 ~魔の森に作った湯船が 王子 で溢れて困ってます~

薄味メロン
恋愛
 HOTランキング 1位 (2019.9.18)  お気に入り4000人突破しました。  次世代の王妃と言われていたメアリは、その日、すべての地位を奪われた。  だが、誰も知らなかった。 「荷物よし。魔力よし。決意、よし!」 「出発するわ! 目指すは源泉掛け流し!」  メアリが、追放の準備を整えていたことに。

オバサンが転生しましたが何も持ってないので何もできません!

みさちぃ
恋愛
50歳近くのおばさんが異世界転生した! 転生したら普通チートじゃない?何もありませんがっ!! 前世で苦しい思いをしたのでもう一人で生きて行こうかと思います。 とにかく目指すは自由気ままなスローライフ。 森で調合師して暮らすこと! ひとまず読み漁った小説に沿って悪役令嬢から国外追放を目指しますが… 無理そうです…… 更に隣で笑う幼なじみが気になります… 完結済みです。 なろう様にも掲載しています。 副題に*がついているものはアルファポリス様のみになります。 エピローグで完結です。 番外編になります。 ※完結設定してしまい新しい話が追加できませんので、以後番外編載せる場合は別に設けるかなろう様のみになります。

婚約破棄された検品令嬢ですが、冷酷辺境伯の子を身籠りました。 でも本当はお優しい方で毎日幸せです

青空あかな
恋愛
旧題:「荷物検査など誰でもできる」と婚約破棄された検品令嬢ですが、極悪非道な辺境伯の子を身籠りました。でも本当はお優しい方で毎日心が癒されています チェック男爵家長女のキュリティは、貴重な闇魔法の解呪師として王宮で荷物検査の仕事をしていた。 しかし、ある日突然婚約破棄されてしまう。 婚約者である伯爵家嫡男から、キュリティの義妹が好きになったと言われたのだ。 さらには、婚約者の権力によって検査係の仕事まで義妹に奪われる。 失意の中、キュリティは辺境へ向かうと、極悪非道と噂される辺境伯が魔法実験を行っていた。 目立たず通り過ぎようとしたが、魔法事故が起きて辺境伯の子を身ごもってしまう。 二人は形式上の夫婦となるが、辺境伯は存外優しい人でキュリティは温かい日々に心を癒されていく。 一方、義妹は仕事でミスばかり。 闇魔法を解呪することはおろか見破ることさえできない。 挙句の果てには、闇魔法に呪われた荷物を王宮内に入れてしまう――。 ※おかげさまでHOTランキング1位になりました! ありがとうございます! ※ノベマ!様で短編版を掲載中でございます。

神託のせいで修道女やめて嫁ぐことになりました〜聡明なる王子様は実のところ超溺愛してくるお方です〜

ルーシャオ
恋愛
父親に疎まれ、修道女にされて人里離れた修道院に押し込まれていたエレーニ。 しかしある日、神託によりステュクス王国王子アサナシオスの妻に選ばれた。 とはいえやる気はなく、強制されて嫌々嫁ぐ——が、エレーニの惨状を見てアサナシオスは溺愛しはじめた。 そのころ、神託を降した張本人が動き出す。

推しのトラウマメイカーを全力で回避したら未来が変わってしまったので、責任もって彼を育てハッピーエンドを目指します!

海老飛りいと
恋愛
異世界転生したら乙女ゲームのスチルに一瞬映るモブキャラ(たぶん悪役)で、推しキャラに性的トラウマを与えたトラウマメイカー役だった。 今まさにその現場に当人としていることを思い出したので、推しを救いだしたらルートが改変? 彼の未来が変わってしまったようなので、責任をとってハッピーエンドになるようにがんばる! な、モブキャラの大人女性×ショタヒーローからはじまるちょっとえっちなギャグラブコメディです。 ライトな下品、ご都合あり。ラッキースケベ程度のエロ。恋愛表現あり。年の差と立場と前世の記憶でじれじれだけどなんだかんだで結果的にはラブラブになります。 完結しました。

死を願われた薄幸ハリボテ令嬢は逆行して溺愛される

葵 遥菜
恋愛
「死んでくれればいいのに」  十七歳になる年。リリアーヌ・ジェセニアは大好きだった婚約者クラウス・ベリサリオ公爵令息にそう言われて見捨てられた。そうしてたぶん一度目の人生を終えた。  だから、二度目のチャンスを与えられたと気づいた時、リリアーヌが真っ先に考えたのはクラウスのことだった。  今度こそ必ず、彼のことは好きにならない。  そして必ず病気に打ち勝つ方法を見つけ、愛し愛される存在を見つけて幸せに寿命をまっとうするのだ。二度と『死んでくれればいいのに』なんて言われない人生を歩むために。  突如として始まったやり直しの人生は、何もかもが順調だった。しかし、予定よりも早く死に向かう兆候が現れ始めてーー。  リリアーヌは死の運命から逃れることができるのか? そして愛し愛される人と結ばれることはできるのか?  そもそも、一体なぜ彼女は時を遡り、人生をやり直すことができたのだろうかーー?  わけあって薄幸のハリボテ令嬢となったリリアーヌが、逆行して幸せになるまでの物語です。

処理中です...