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守る理由

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その日からクロエは食事に姿を現さなくなった。体調不良や忙しさなどを理由に部屋で食事を摂るようになったのだ。
三人で摂る食事は重苦しい雰囲気で、時折義母が口を開けば嫌味や小言をしか言わない。クロエの存在がどれだけ貴重だったか改めて感じた。
美しい外見と凛とした佇まいは澄んだ早朝の空気を思い起こさせたし、守るべき対象が傍にいれば強くあろうと堂々とした態度を保つことが出来た。

カチャ、とスプーンが皿に当たる音がしてアネットは我に返った。食器の音を立ててしまうのはマナー違反だ。
案の定デルフィーヌが即座に反応する。

「やっぱりまだまだマナーが身についていないようね。恥ずかしいこと」
勝ち誇ったような表情が気に食わないが、自分に非があるので素直に頭を下げる。

「ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません」
「いい加減弁えて頂戴。旦那様、いつまで甘やかすおつもりですか?この娘がいるからクロエが部屋に閉じこもってしまっているのですよ」

薄々感じていたことだが、はっきりと言葉にされると辛いものがある。夕食には、翌日には現れるかもしれないと期待して、どんなに居心地が悪くてもダイニングで食事を摂っていた。

「慣れさせろ。社交界に出れば気に入らないからと言って相手を選んで食事を摂ることなど出来ない。アネット、次同じようなことがあれば来なくていい」

カミーユはそれだけ告げて食事を再開する。デルフィーヌは納得がいかないようだったが、アネットへの指示については満足したようで、それ以上何も言わなかった。

「アネット様、最近間違いが多いですね。もっと勉学に身を入れて頂かなければ困ります」

家庭教師から指摘されて、アネットはますます落ち込んだ。何をやっても上手くいかず、負のサイクルに囚われているのは分かっていても、浮上できない。
そんなアネットの様子を見た家庭教師は励ますように言葉を付け加えた。

「頑張っていらっしゃるのは分かりますよ。短期間でクロエ様と同じぐらいの知識を身につけたのですから。ですがもっと――」
「……今、何と仰いましたか?」

驚きのあまり途中で遮るように口を挟んでしまったが、家庭教師は気分を害した様子もなく教えてくれた。

「アネット様の学習内容はクロエ様とほぼ同じですよ。こちらに来るまで教育を受けていないのに素晴らしいことです。元々の素養もあるのでしょうが、宿題なども熱心に取り組んでおられた結果でしょうね。――ああ、夫人やクロエ様には内密に」

つい、口が滑ってしまったらしい。家庭教師の口の軽さが心配になったが、思ったよりも早く目標を達成していたようだ。

(でも今となってはお姉様と一緒に勉強なんて、夢のまた夢だわ)
アネットは自嘲的な笑みを浮かべた。


気分転換に散歩に出ようと部屋を出ると、バタバタと廊下を走る音が聞こえた。どんなに急いでいても屋内で走るような真似をする使用人などいないはずだ。訝しんだアネットの視線の先に見覚えのある中年の侍女の姿があった。

(あれはお姉様付の侍女だったはず…)
不穏な空気を感じたアネットはそのまま侍女の後を追いかけることにした。

侍女が入っていったのはクロエの部屋だった。場所だけは知っていたが、部屋に入ったことはもちろん、近づいたこともない。よほど慌てていたのか、僅かに開いた扉からは物が床に落ちる鈍い音がした。
そっと様子を窺うと、怒りの形相を浮かべたデルフィーヌとうなだれたクロエ、そして先ほどの侍女は必死に頭を下げながら嘆願している。

「邪魔よ!娘の躾に口を挟まないでちょうだい!」
「滅相もございません!ただクロエお嬢様は本当に努力しておいでです。睡眠時間を削ってまで、勉強に励んでおられます。ですから――」

「結果が伴わなければ意味がないわ!あんな平民の小娘と同じレベルだなんて、怠けている証拠でしょう」
憎々し気な表情を浮かべたデルフィーヌの手が大きく振り上げられる。その手にはいつかと同じように扇子があった。

(お姉様!!!)
クロエの悲しそうな顔がよぎり、考える間もなく駆け出していた。大きく目を見開いたクロエの顔がすぐ近くに見えた時、頭に衝撃が走った。


強い衝撃にバランスを崩して思わず目の前にいたクロエにしがみつくと、びくりと華奢な身体が揺れた。

「お姉様、ごめんなさい。お怪我は――」
クロエの安否を確認しようとしたアネットだが、甲高い声に遮られた。

「勝手に部屋に入るなんて、本当に礼儀知らずだこと!さっさと出て行きなさい」

ぐっと唇を噛みしめて毅然とした顔つきのクロエは平然として見えるが、そうでないことをアネットは知っている。触れた部分から微かに震えているのが伝わってきたからだ。
クロエを背後に庇うように義母に向きなおると、僅かに怯んだような表情に変わる。

(ああ、切ったのね)
ズキズキと痛むこめかみに手を添えると、ぬるりとした感触があり指先が赤く染まった。扇子の角が当たったのが出血しやすい部分だったようで、痛みはあるが見た目ほど大した怪我ではないはずだ。
だけどクロエに苦痛を与えようとしていたことは明らかで、アネットは罵倒したい気持ちを抑えながらデルフィーヌに言った。

「申し訳ございません。侯爵家にあるまじき声が聞こえたので、思わず駆けつけてしまいました」

デルフィーヌの眉が跳ね上がり、怒りが再燃したのが分かる。だけどこのまま出て行けば義母はまたクロエを折檻するかもしれない。アネットは自分の怪我を利用して、デルフィーヌに釘を差すことにした。

「ところで、お義母様はまさかお姉様を傷付けようとしていたわけではありませんよね?お姉様は第二王子殿下の婚約者ですもの。将来の王子妃に傷が残るようなことがあれば、いくら身内と言っても厳しい処分が下されるのではありませんか?」

言葉に詰まったデルフィーヌは動揺を隠すように扇子を開きかけたが、こびりついた血に気が付いたらしい。
汚らわしい物に触れたかのように床に打ち捨てると、そのまま部屋から出て行った。

「傷薬をお持ちします」
慌てた様子で中年メイドが去ると、部屋の中に沈黙が広がった。

こっそり辺りを見渡して姿見を見つけたアネットは、傷の具合を確認する。出血は止まったようだがべったりと染まった額は、子供には少々刺激が強いかもしれないと思った。クロエはずっとアネットから顔を背けたままだったからだ。

「お見苦しいものをお見せしてすみません。部屋に戻りますので、メイドには手当不要とお伝えくださいますか?」
「……待ちなさい」

引き結んだ口元から返答が期待できないことを察したアネットだったが、その背中に小さな声が掛かった。

「どうして……私を庇ったの?」
「お姉様が大好きだからです」

大好きな人が傷つくところなんて見たくない。今度こそ守りたいという想いから咄嗟に取った行動だった。

「そんなの嘘!私は、貴女なんて嫌いよ!」
怪我よりも心がずきりと痛む。瞳の奥が熱くなるが、ぐっと堪える。

「嫌な思いをさせてしまって、ごめんなさい。……失礼いたします」
それ以上留まることができずにアネットは自分の部屋へと駆け出した。
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