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怒りと決意

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「アネット様、申し訳ございません」

謝る料理長に何と答えたか覚えていない。ただ早く一人にならなければならないということだけしか考えられず、足早に部屋へと向かう。
冷静になろうとすればするほど、全身が熱く心臓が痛いほどに脈打っている。

ようやくのことで部屋に辿り着き、クッションを掴むとアネットはクローゼットの中に閉じこもった。
そしてクッションで口元を強く押さえると、力の限り絶叫した。

「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなああああ!!!」
怒り過ぎて耳鳴りがして、視界が歪む。

(あの毒親が!!!!)
平民の食べ物だと馬鹿にされたこと、皆で作ったマカロンを台無しにされたことに苛立ちはあったが、そんなことクロエがされたことに比べれば何でもなかった。

毒でもないのに、ましてやそれ以上口にしかけていたわけでもなくただ持ったままだというだけなのだ。扇子で容赦なく打擲されて滑らかな陶器のような手は、たちまち赤みを帯びた。その痛々しさに思い出すだけで胸が痛む。

地面に落ちたマカロンをクロエが悲しそうに見つめていたのをアネットはしっかりと目撃していた。無意識に左手を叩かれた右手に添えていたが、痛みに泣くこともなく表情をなくしたクロエを抱きしめてやりたかった。それなのに何も出来なかった自分にも腹が立つ。

感情を表に出すことは淑女として好ましくないとしても、クロエのそれは徹底しすぎていた。
躊躇いのないデルフィーヌの行動とクロエの態度から、常習的に躾と称して暴力を振るわれているのだとアネットは確信している。
悪さをして拳骨を落とされる子供など以前暮らしていた場所ではよくあることだったが、それ自体悪いことだとアネットは思わない。体罰も時と場合によっては絶対悪ではないが、クロエへのそれは明らかに行き過ぎであり虐待だと言えるだろう。

父は子供に興味がなく、健やかに成長して婚姻に支障がなければいいのかもしれないが、幼い子供を放置している状況はやはり育児放棄と同じことだ。
そんな環境で育てばいずれ心を壊すか、母親のように歪んだ性格になってしまう。
そう考えた時、アネットの頭には閃きが走り、欠けたピースがぴたりとはまったような感覚に陥った。


「お姉様は悪役令嬢……?」
ここが過去でもなく見知らぬ異世界であることは大陸図を見て分かったことだ。かつて自分がいた世界ではありえない地形と覚えのない地名。
形容できないほどの美女になることが予想されるクロエは王子殿下の婚約者である。
異世界転生、王子の婚約者とくれば、欠かせないのは悪役令嬢だろう。
前世で読んだマンガの内容が頭をよぎる。

(……事実は小説より奇なりというけど、そんな物語みたいなことが?――いや物語の中に転生してしまったと考える方が自然なのかも)

仮にこの世界が物語であろうがなかろうが、この際大した問題ではないのだ。今の状況であればクロエは心を閉ざしてしまうか、歪んだ性格の持ち主になってしまう可能性が高い。

性格の悪さは育った環境のせいだけでなく、元々そういう性質を持った人もいるだろう。このままクロエの生活環境が改善されなけれれば、間違いなく自己中心的で我儘な悪役令嬢になってしまう、そんな確信めいた予感があった。
物語の悪役令嬢だって、語られていないだけで悲惨な子供時代があったのかもしれない。

急速に頭が冷えていくとともに思考がクリアになっていく。完全に心を閉ざしていない今ならまだ間に合う。クロエの心を守り、幸せな未来に軌道修正が出来るはずだ。

「お姉様は私が守るわ」
悪役令嬢なんかにさせないし、誰にも傷付けさせたりしない。自分が前世の記憶を持って生まれ変わったのはこのためだったのではないだろうか。
目標が定まってからアネットの行動は早かった。ジョゼが部屋に来るなり、至急シリルを部屋に呼ぶように頼んだ。

「お呼びでしょうか、アネット様」
「ええ、お父様が次に邸で食事を摂るのはいつかしら?」

アネットの様子に違和感を覚えたのか、眉をひそめたのは一瞬で有能な家令はすぐさま表情を消して必要な情報を告げる。

「5日後になります」
5日もあれば十分だ。ケチのつけようがないぐらい、徹底的に完璧なテーブルマナーを身に付けて見せよう。

「その時は私も参加するわ」
質問でもなく確固たる口調で答えるアネットにシリルは恭しく一礼した。



(これは面接試験のようなものよ)

ジョゼに身支度を整えられたアネットは、鏡の中の自分を見て笑顔を作る。子供のような無邪気な笑みではなく、目元を和らげ口角を上げる淑女の微笑みだ。

「アネット様、そろそろお時間です」
この数日、アネットの様子に戸惑いながらも見守ってくれていたジョゼの言葉に頷いて、アネットは敵地へと向かった。

「お父様、おはようございます」
お辞儀の角度や指先に至るまで神経を張り巡らせて、優雅なカーテシーを披露すると一瞬の間があった。

「……掛けなさい」
どうやら第一関門は突破したらしい。

カミーユの言葉に安堵しながらも、緊張を緩めないよう気を引き締める。本番はこれからなのだ。
カミーユから向かって右側を一つ空けた席に腰を下ろす。時間をおかずデルフィーヌがクロエとともにダイニングに現れると、嫌悪感を露わにして眉を顰める。

「お義母様、お姉様、おはようございます」

座ったままアネットは柔らかい笑みを浮かべて挨拶をした。デルフィーヌが不機嫌になっていくのがはっきりと分かるが、アネットは侯爵家の娘として正しい行動を取ったに過ぎない。

(立ち上がって挨拶するなど格下の相手のすること。年長者に対する敬意は必要だけど、家族の間でそのような挨拶は不要だもの)

アネットのことを平民の娘としか見ないデルフィーヌには許容できないだろう。だが当主であるカミーユが咎めないのに、デルフィーヌは声高にアネットを非難できない。
ざまぁ成功だと内心ほくそえんでいたが、クロエが隣に座ると嬉しさと緊張でそれどころではなくなった。
対面であればさり気なく視線を向けることが出来たが、隣だと不自然になってしまうし無作法だと思われるだろう。

(せっかくお姉様と一緒にいるのに!!でもこれから一緒にいるためには今が頑張り時だわ)

朝食が運ばれてきて、アネットは自分を落ち着かせるためこっそりと深呼吸をした。これもクロエを守るためなのだと自分に言い聞かせて、頭の中でマナーのおさらいをする。

まずアネットが目標としたのは、クロエとの接触頻度を増やすことである。会えなければクロエの様子を知ることもできないし、守ることなど到底無理だ。
行動範囲を広げ交流の機会を増やすためには、父や周囲の大人たちにアネットの価値を認めさせなければならない。
アネットの価値、それは立派な淑女となることである。

ルヴィエ侯爵家に優秀な婿を迎えいれるには侯爵の身分だけでなく、婚姻を結ぶアネット自身の価値も重要となる。付加価値にも不満材料にもなり得るのだから、父がアネットに価値を見出せば多少の我儘が許される可能性は高い。

気合を入れて目の前の朝食に取り掛かることにした。
自分の一挙一動に視線が注がれているのが分かる。父は確認のため、義母は難癖をつけるためだろう。普通なら緊張を強いられるところだろうが、ジョアンヌの指導が徹底していたので、その程度では揺らぐことはない。

食べにくいサラダや転がりやすい小さな丸い豆も背筋を伸ばしたまま、危うげなく口に運ぶ。楽しい食事ではなかったが、食べ終えた時には無事やり遂げたという達成感に満足した気持ちになった。

「これからはダイニングで食事を摂るように」
カミーユはそれだけ言うとさっさと席を立った。

とりあえず食事の時間はクロエとともにいることが出来るが、食事中ずっと無言だったのが今日だけだと思いたい。貴族であっても食事中は交流の場として集うはずなのだが、黙々と食べることだけに集中するのなら一緒に食事を摂る必要はないのだ。

忌々しそうな表情を隠さず、デルフィーヌが席を立つとクロエもそれに倣う。せっかくなので話をしたいが、クロエは望んでいない気がする。だから一言だけ声を掛けようと思った。
体調はどうなのか、辛いことはないのかなど聞きたいことはたくさんあるが、同情されるのは侮辱と取られるかもしれないし、質問しても答えてもらえる時間も見込みもない。焦りながらも素直な気持ちを伝えようと思って、アネットは失敗した。

「お姉様、大好きです」
突然の告白めいた言葉にクロエが困惑したように首を傾げたが、すぐに思い直したかのように表情を消して何事もなかったかのようにダイニングから出て行った。残されたアネットにじわじわと羞恥が湧き上がってくる。

(ううっ、やらかしたあああああ!恥ずかしすぎる!!)

何の前振りもなく好きだと言われてクロエはさぞ困ったことだろう。
自分は味方だとさりげなく伝えたかったのに、事前準備がないまま口にしてしまったのだ。大丈夫だと思っていたのに、少なからず緊張が解けて気の緩んでいたせいだろう。

クッションを抱えて自室で悶えるアネットであった。

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