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13.町の混乱
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「この者は旅の物書きです。僕はここに来るまで故郷より外に出たことがないので、いろんな土地の話を聞かせてもらいました」
嘘はまったくついていない。きっと顔にも出ていないはずだ。俺の話を静かに聞いていたバレアナ姫は、昼食のステーキに小刻みにナイフを入れた。
「それなら私にもお話を聞かせてくださればよかったのに」
「そうも思ったのですが、この者は長い間、風呂にも入っていないようでしたから」
「私がそれを気にするとでも」
あ、マズい。姫の表情は変わらないが、マズいところを踏んだのはわかった。いかん、顔に動揺が出てしまう。と思ったとき。
「不躾ながら申し上げます」
俺の後ろに立っていたリンガルが落ち着いた声を発した。
「ワタクシは下賤の身でございますが、恥を知らぬ訳ではございません。着ているものはみすぼらしくとも、心までみすぼらしい訳でもございません。この場に出て来られましたのも、王子殿下のお気遣いにより、さきほど体を洗うことをお許しいただけたればこそ。さもなくば、皆様の前に姿を見せることに恥辱を感じましたことでしょう。大変に僭越ながら、王子殿下へのお怒りはお鎮めくださればと」
深々と頭を下げるリンガルに、バレアナ姫はナイフを止め、小さくため息をついた。
「怒ってなどおりません」
と、静かな声で。それが物凄く怖いのだが。
「ただ、曲がりなりにも夫婦として一つ屋根の下に暮らしているのです。無用な気遣いや隠し事は、ときとして人を傷つけることを理解していただきませんと」
あれ、もしかして傷ついてたのか。バレアナ姫は言う。
「顔に出ていますよ」
「いやいやいや、それは誤解で」
しかしバレアナ姫はツンと横を向いてしまった。怒ってんじゃん。何だよ、えらい可愛いとこあるじゃねえか、まったく。
と、そこに食堂の扉が開き、執事のアルハンが入って来た。
「姫殿下、王子殿下、ただいまグローマル親王殿下よりの早馬がまいりました」
俺の体は一瞬、雷にでも打たれたかのように緊張する。アルハンは続けた。
「今夜、ご帰宅されるそうでございます。なお、ご夕食は先に済ませておくようにと」
「そうですか、わかりました」
姫は特に感情のこもらぬ言葉を返し、これにアルハンは一礼すると食堂から出て行った。
俺の頭は混乱していた。グローマル殿下が帰って来る。つまり何事も起きなかった、ということなのだろうか。すべては俺の杞憂であり思い込みであったと。
いや、それならそれでありがたい。平穏無事ですべてがこれまで通りなら、何も困ることはないしな。そのはずなのに、何故だ。体の奥が冷たくなって行くこの感覚は。
いかん、これでは顔に出てしまう。バレアナ姫に気付かれてはいけない。だが焦る俺を余所に、姫は食事を終えると立ち上がった。
「では私は部屋におります。もし何か用がありましたら、声をかけてください」
何か用がありましたら、か。言わなきゃならんことがあるだろう、と言いたげにも聞こえる。俺はその思いが顔に出ていないことを祈りながら、食堂から出て行く姫を見送った。
ザンバの乗ったロバのシウバは町の外縁、石畳の道がぬかるんだ泥道に変わるところまで来ていた。目の前に群れているのは町の若者たち。その先頭で白馬に乗るのは貴族の息子だろう。
その集団と向かい合うように泥の原野の向こうには、おそらく近隣の町や村から来たのではないかと見られる大人や子供が、手に手にクワや棒きれを持って徒党を組んでいる。最前列の男が叫んだ。
「リルデバルデの殿様に会わせろ!」
これに応える貴族の息子。
「そのような必要はない! 貴様たちの代表者を出せ!」
しかし相手からはこんな声が返って来る。
「代表なんかいねえ!」
「役立たずの貴族なんぞ引っ込んでろ!」
「やっぱりこいつら、戦しようと企んでやがるぞ!」
この声に貴族の息子はいきり立つ。
「貴様らこそ謀反を企む者どもの手下であろう! 痴れ者どもが!」
絶望的にかみ合わない双方の言葉。ザンバは間に立つことも考えたが、数が多すぎる。それに、もしも本当にアルバがこの騒動に関わっているのなら。
(用意周到なアレのこと、迂闊に仲裁などすれば、かえって煽り立てることにもなりかねん)
ここは一旦屋敷に戻って報告をすべきか。ザンバがシウバを回頭させたとき。町の若者たちの集団の中から一人の少女が歩み寄ってきた。
「お屋敷の方ですか」
そう話しかける少女にザンバは眉を寄せてうなずく。
「おまえは」
少女は意を決したかのようにこう言った。
「レイニアと申します。ライナリィ・ラインナル孤児院の者です。王子殿下にお伝えしたいことがあるのですが」
嘘はまったくついていない。きっと顔にも出ていないはずだ。俺の話を静かに聞いていたバレアナ姫は、昼食のステーキに小刻みにナイフを入れた。
「それなら私にもお話を聞かせてくださればよかったのに」
「そうも思ったのですが、この者は長い間、風呂にも入っていないようでしたから」
「私がそれを気にするとでも」
あ、マズい。姫の表情は変わらないが、マズいところを踏んだのはわかった。いかん、顔に動揺が出てしまう。と思ったとき。
「不躾ながら申し上げます」
俺の後ろに立っていたリンガルが落ち着いた声を発した。
「ワタクシは下賤の身でございますが、恥を知らぬ訳ではございません。着ているものはみすぼらしくとも、心までみすぼらしい訳でもございません。この場に出て来られましたのも、王子殿下のお気遣いにより、さきほど体を洗うことをお許しいただけたればこそ。さもなくば、皆様の前に姿を見せることに恥辱を感じましたことでしょう。大変に僭越ながら、王子殿下へのお怒りはお鎮めくださればと」
深々と頭を下げるリンガルに、バレアナ姫はナイフを止め、小さくため息をついた。
「怒ってなどおりません」
と、静かな声で。それが物凄く怖いのだが。
「ただ、曲がりなりにも夫婦として一つ屋根の下に暮らしているのです。無用な気遣いや隠し事は、ときとして人を傷つけることを理解していただきませんと」
あれ、もしかして傷ついてたのか。バレアナ姫は言う。
「顔に出ていますよ」
「いやいやいや、それは誤解で」
しかしバレアナ姫はツンと横を向いてしまった。怒ってんじゃん。何だよ、えらい可愛いとこあるじゃねえか、まったく。
と、そこに食堂の扉が開き、執事のアルハンが入って来た。
「姫殿下、王子殿下、ただいまグローマル親王殿下よりの早馬がまいりました」
俺の体は一瞬、雷にでも打たれたかのように緊張する。アルハンは続けた。
「今夜、ご帰宅されるそうでございます。なお、ご夕食は先に済ませておくようにと」
「そうですか、わかりました」
姫は特に感情のこもらぬ言葉を返し、これにアルハンは一礼すると食堂から出て行った。
俺の頭は混乱していた。グローマル殿下が帰って来る。つまり何事も起きなかった、ということなのだろうか。すべては俺の杞憂であり思い込みであったと。
いや、それならそれでありがたい。平穏無事ですべてがこれまで通りなら、何も困ることはないしな。そのはずなのに、何故だ。体の奥が冷たくなって行くこの感覚は。
いかん、これでは顔に出てしまう。バレアナ姫に気付かれてはいけない。だが焦る俺を余所に、姫は食事を終えると立ち上がった。
「では私は部屋におります。もし何か用がありましたら、声をかけてください」
何か用がありましたら、か。言わなきゃならんことがあるだろう、と言いたげにも聞こえる。俺はその思いが顔に出ていないことを祈りながら、食堂から出て行く姫を見送った。
ザンバの乗ったロバのシウバは町の外縁、石畳の道がぬかるんだ泥道に変わるところまで来ていた。目の前に群れているのは町の若者たち。その先頭で白馬に乗るのは貴族の息子だろう。
その集団と向かい合うように泥の原野の向こうには、おそらく近隣の町や村から来たのではないかと見られる大人や子供が、手に手にクワや棒きれを持って徒党を組んでいる。最前列の男が叫んだ。
「リルデバルデの殿様に会わせろ!」
これに応える貴族の息子。
「そのような必要はない! 貴様たちの代表者を出せ!」
しかし相手からはこんな声が返って来る。
「代表なんかいねえ!」
「役立たずの貴族なんぞ引っ込んでろ!」
「やっぱりこいつら、戦しようと企んでやがるぞ!」
この声に貴族の息子はいきり立つ。
「貴様らこそ謀反を企む者どもの手下であろう! 痴れ者どもが!」
絶望的にかみ合わない双方の言葉。ザンバは間に立つことも考えたが、数が多すぎる。それに、もしも本当にアルバがこの騒動に関わっているのなら。
(用意周到なアレのこと、迂闊に仲裁などすれば、かえって煽り立てることにもなりかねん)
ここは一旦屋敷に戻って報告をすべきか。ザンバがシウバを回頭させたとき。町の若者たちの集団の中から一人の少女が歩み寄ってきた。
「お屋敷の方ですか」
そう話しかける少女にザンバは眉を寄せてうなずく。
「おまえは」
少女は意を決したかのようにこう言った。
「レイニアと申します。ライナリィ・ラインナル孤児院の者です。王子殿下にお伝えしたいことがあるのですが」
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