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7.損して得取れ
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何とか飢え死にする前には朝食にありつけた。とは言えまたワイラ妃殿下のテーブルマナー講座が始まるのだろうな、と覚悟していたのだが、妃殿下は無言だった。どうもグローマル殿下を気にしているらしい。
この屋敷の主人は難しい顔をして、食事にもほとんど手を付けていない。さっきの馬が引っかかってはいたものの、気軽にたずねていい雰囲気でもない。ここはおとなしく沈黙しておくか。
そのとき、食事を終えたバレアナ姫が立ち上がり、俺を見やった。
「今日は何か予定がありますか」
そんなもん、ある訳がない。
「いえ、特に何も」
「では後で買い物に付き合っていただけますか」
「はあ、構いませんけど」
買い物? 王族の姫が自分で? そうたずねたい気持ちはあったが、さすがに空気が重くてそんな軽口を叩く気分にもならない。
「後ほど使いをやります」
姫はそれだけ言うと、さっさと食堂を出て行ってしまった。残された俺は、しんと静まり返った重苦しい食卓で、気まずく食事を続けるしかなかった。
腹がくちた俺が寝室で横になっていると、下女のマレットが膨らんだ革袋を持ってきた。
「本日のお出かけのお小遣い、銀貨五十枚でございます。外出着は収納室に用意してございますが、お着替えをお手伝い致しましょうか、若旦那様」
俺は黙って革袋の口を開けて中身を確認し、銀貨五枚を取ってマレットに渡した。
「朝、馬が来てたよな」
マレットはそれを受け取ると、ニッと笑ってみせた。
「何だ、気がついてたの」
「面倒なことでも起きてんのか」
「面倒かどうかはまだわからないよ。ガスラウ親王は知ってるよね」
「ガスラウ? ああ、軍閥と癒着がどうのこうので有名な」
「昨夜、殺されたんだってさ」
それが面倒なことじゃなきゃ何なんだ。俺のその考えが顔に出ていたのだろう、マレットはプッと吹き出した。
「アンタ、全部顔に出るんだね」
「うるせえよ。それより殺されたってことは暗殺なのか」
「さあね。詳しいことは旦那様に渡された文書に書いてあるんだろうけど、そこまでは見られないから」
俺はまた銀貨を五枚取り出した。マレットは眉をひそめる。
「何よ。アタシとヤりたい訳?」
「わかってんだろうが」
「えーっ、文書の中身読めっていうの? やめてよそんな面倒臭い」
「じゃあ銀貨十枚だ」
「う……」
マレットは迷っていた。迷って迷って迷って、最終的に銀貨に手を伸ばす。勝った。
「んじゃ、買い物から帰って来るまでに」
「無理無理無理! そんなの無理!」
「だったら明日の朝までに、だな」
「人使い荒いのな、アンタ」
マレットはやれやれという風にため息をつくと、服のあちこちに銀貨を隠す。
「そんなにポケットだらけなのか、その服」
「アタシの服は特別だから。それよりそろそろ着替えないと姫様待たせることになるけど、どうすんの」
どうすんのって言われてもなあ。
「外出用の服って、一人で着替えられないものなのか」
「たぶん無理だと思うよ。結婚式んときも着替えなかったんでしょ」
「結婚式に着ていくような服なのか? 買い物に行くだけなのに?」
「王族ってそういうもんだからね。着替えの手伝いは仕事のうちだから金は取らないけど」
ニンマリ笑うマレットに、今度は俺がため息をつく番だった。
胸元の白いビラビラがうざったい。膝の上には角張った固い帽子が置いてある。馬車の中でかぶるのは間抜けなように思えたのだ。白い手袋から黒い革の靴まで、寸法はピッタリだったが、身につけているだけで肩が凝ってくる。なるほど一人で着替えていたら、どれもしわくちゃになっていただろう。
向かいの席に座るバレアナ姫は、黒にも見える濃い緑のドレス。この人はいったい黒が好きなのか嫌いなのか。
「何か質問でも」
どうせまた俺の顔に疑問符でも書いてあったに違いない。バレアナ姫は例によって例の如く、平然と俺にたずねた。ちょうどいい、この際だから聞いておこう。
「昨日から気になってはいたんですが、世間では王族の人ってみんな宮殿に暮らしているような印象があるんですよ。でも影屋敷は宮殿みたいに大きいですけど、宮殿じゃないですよね。衛兵がいる訳でもないし、心配じゃないんですか」
しかしこの質問に意外性は感じなかったのだろう、バレアナ姫は表情を変えることなく静かに答えた。
「この町はただの平和な町に見えますが、そこかしこに武器庫があります。もし逆賊が徒党を組んで進撃してくるようなことがあれば、ここに屋敷を構える貴族たちが先頭に立ち、平民を加えた混成軍で迎え撃つことになっているのです」
なるほど、だから宮殿は必要ないということか。うーん。理屈としては理解できるんだけど、それ本当に大丈夫なの?
俺がまだイマイチ納得していないと見て取ったのだろう、バレアナ姫は話を続けた。
「昔は私たちも宮殿に暮らしていたのです。衛兵に守られて。ですが先の戦争のとき、その衛兵が敵を引き込み、宮殿に火を放ちました。そのとき父は思い知ったのでしょう、形式に拘泥していては守れる物も守れないのだと。だから宮殿を更地にし、屋敷を建て、その周りに豊かな町を築き、貴族と平民に平時の安心と安定を与えました」
「この町に守るべき理由を作ることで、結果的に守備に当たる人員を増やした、ってことですか。いわゆる『損して得取れ』ってヤツですね」
バレアナ姫の目に、ほんの少し興味が湧いた。
「そういう言葉があるのですか」
「ええ、庶民の言葉ですが。でも世の本質を突くいい言葉だと思いますよ。グローマル殿下はそれを理解されているのでしょうね」
しかし姫は急に興味をなくしたのか、窓の外に目をやった。
「見えてきました。あの店です」
俺も窓の外を見た。あの店って……お菓子屋?
この屋敷の主人は難しい顔をして、食事にもほとんど手を付けていない。さっきの馬が引っかかってはいたものの、気軽にたずねていい雰囲気でもない。ここはおとなしく沈黙しておくか。
そのとき、食事を終えたバレアナ姫が立ち上がり、俺を見やった。
「今日は何か予定がありますか」
そんなもん、ある訳がない。
「いえ、特に何も」
「では後で買い物に付き合っていただけますか」
「はあ、構いませんけど」
買い物? 王族の姫が自分で? そうたずねたい気持ちはあったが、さすがに空気が重くてそんな軽口を叩く気分にもならない。
「後ほど使いをやります」
姫はそれだけ言うと、さっさと食堂を出て行ってしまった。残された俺は、しんと静まり返った重苦しい食卓で、気まずく食事を続けるしかなかった。
腹がくちた俺が寝室で横になっていると、下女のマレットが膨らんだ革袋を持ってきた。
「本日のお出かけのお小遣い、銀貨五十枚でございます。外出着は収納室に用意してございますが、お着替えをお手伝い致しましょうか、若旦那様」
俺は黙って革袋の口を開けて中身を確認し、銀貨五枚を取ってマレットに渡した。
「朝、馬が来てたよな」
マレットはそれを受け取ると、ニッと笑ってみせた。
「何だ、気がついてたの」
「面倒なことでも起きてんのか」
「面倒かどうかはまだわからないよ。ガスラウ親王は知ってるよね」
「ガスラウ? ああ、軍閥と癒着がどうのこうので有名な」
「昨夜、殺されたんだってさ」
それが面倒なことじゃなきゃ何なんだ。俺のその考えが顔に出ていたのだろう、マレットはプッと吹き出した。
「アンタ、全部顔に出るんだね」
「うるせえよ。それより殺されたってことは暗殺なのか」
「さあね。詳しいことは旦那様に渡された文書に書いてあるんだろうけど、そこまでは見られないから」
俺はまた銀貨を五枚取り出した。マレットは眉をひそめる。
「何よ。アタシとヤりたい訳?」
「わかってんだろうが」
「えーっ、文書の中身読めっていうの? やめてよそんな面倒臭い」
「じゃあ銀貨十枚だ」
「う……」
マレットは迷っていた。迷って迷って迷って、最終的に銀貨に手を伸ばす。勝った。
「んじゃ、買い物から帰って来るまでに」
「無理無理無理! そんなの無理!」
「だったら明日の朝までに、だな」
「人使い荒いのな、アンタ」
マレットはやれやれという風にため息をつくと、服のあちこちに銀貨を隠す。
「そんなにポケットだらけなのか、その服」
「アタシの服は特別だから。それよりそろそろ着替えないと姫様待たせることになるけど、どうすんの」
どうすんのって言われてもなあ。
「外出用の服って、一人で着替えられないものなのか」
「たぶん無理だと思うよ。結婚式んときも着替えなかったんでしょ」
「結婚式に着ていくような服なのか? 買い物に行くだけなのに?」
「王族ってそういうもんだからね。着替えの手伝いは仕事のうちだから金は取らないけど」
ニンマリ笑うマレットに、今度は俺がため息をつく番だった。
胸元の白いビラビラがうざったい。膝の上には角張った固い帽子が置いてある。馬車の中でかぶるのは間抜けなように思えたのだ。白い手袋から黒い革の靴まで、寸法はピッタリだったが、身につけているだけで肩が凝ってくる。なるほど一人で着替えていたら、どれもしわくちゃになっていただろう。
向かいの席に座るバレアナ姫は、黒にも見える濃い緑のドレス。この人はいったい黒が好きなのか嫌いなのか。
「何か質問でも」
どうせまた俺の顔に疑問符でも書いてあったに違いない。バレアナ姫は例によって例の如く、平然と俺にたずねた。ちょうどいい、この際だから聞いておこう。
「昨日から気になってはいたんですが、世間では王族の人ってみんな宮殿に暮らしているような印象があるんですよ。でも影屋敷は宮殿みたいに大きいですけど、宮殿じゃないですよね。衛兵がいる訳でもないし、心配じゃないんですか」
しかしこの質問に意外性は感じなかったのだろう、バレアナ姫は表情を変えることなく静かに答えた。
「この町はただの平和な町に見えますが、そこかしこに武器庫があります。もし逆賊が徒党を組んで進撃してくるようなことがあれば、ここに屋敷を構える貴族たちが先頭に立ち、平民を加えた混成軍で迎え撃つことになっているのです」
なるほど、だから宮殿は必要ないということか。うーん。理屈としては理解できるんだけど、それ本当に大丈夫なの?
俺がまだイマイチ納得していないと見て取ったのだろう、バレアナ姫は話を続けた。
「昔は私たちも宮殿に暮らしていたのです。衛兵に守られて。ですが先の戦争のとき、その衛兵が敵を引き込み、宮殿に火を放ちました。そのとき父は思い知ったのでしょう、形式に拘泥していては守れる物も守れないのだと。だから宮殿を更地にし、屋敷を建て、その周りに豊かな町を築き、貴族と平民に平時の安心と安定を与えました」
「この町に守るべき理由を作ることで、結果的に守備に当たる人員を増やした、ってことですか。いわゆる『損して得取れ』ってヤツですね」
バレアナ姫の目に、ほんの少し興味が湧いた。
「そういう言葉があるのですか」
「ええ、庶民の言葉ですが。でも世の本質を突くいい言葉だと思いますよ。グローマル殿下はそれを理解されているのでしょうね」
しかし姫は急に興味をなくしたのか、窓の外に目をやった。
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