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87 圧倒する魔人
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音が消えた。世界に満ちる静謐。自分の声も、呼吸も鼓動も聞こえない。ただひたすらな静寂の中、天空から無音で落下する肉塊。風を切る音すらない。故に誰も気付かない。
体重に落下速度が加えられたハンマーの如き拳が、獣人ズマの頭に振り下ろされる。殴る音はしない。モロにくらったズマは意識が飛ぶ。当然、倒れ込む音もしない。
銀色のサイボーグは3Jの前まで後退した。その視界の中でヌ=ルマナが立ち上がる。その隣に立つのは、腰の曲がった老人。ケレケレに囓られた顔の右半分はまだ元に戻ってはいないが、長い耳たぶは左右にぶら下がっていた。『宇宙の耳』ハルハンガイ。
3Jはジンライの隣に立った。そして右手でハンドサインを出す。
『男』『任せる』
ジンライは一瞬当惑したが、すぐにうなずいた。
ヌ=ルマナが前に出る。ジンライも前に出ると、ヌ=ルマナの横を通り過ぎた。互いに振り返りもせずに飛ぶ。
ヌ=ルマナの六本の戦斧が3Jに襲いかかった。それを阻む電磁シールド。飛んだ火花が照らし出す、ヌ=ルマナの大きな両目と3Jの一つの目。無論そこには音がない。
空の上から駆け下りる光の矢。ヌ=ルマナは戦斧を一本手放し、手を空に向けるだけで受け流した。さすがに至近距離に3Jが居る以上、いかなパンドラとてフルパワーのビーム砲撃などあり得ない。ただ、意識は上に向いた。
3Jは杖でヌ=ルマナの目を突いた。しかし易々とつかみ止められる。そこですぐ杖を引くと仕込み杖の鞘から刃が抜け出る。そのまま体を回転させて、ヌ=ルマナに斬りかかった。だが相手は鞘を捨てて飛び下がる。仕込み杖を恐れた訳ではない。
さっきまでヌ=ルマナが居た場所に、何かが蠢いている。蠢く影は瞬時に人の姿を取った。リキキマの執事、ハイムである。ハイムは3Jに一礼すると、背後に下がった。
ヌ=ルマナの顔が小さく歪む。舌打ちでもしたような表情。だが、音は聞こえない。
炎の竜巻が建物を舐め取って行く。灼熱のエリア・エージャン、火災旋風に囲まれた獣王ガルアムは頭上に達した太陽の如き火球に向かって両手を挙げた。オオカミの頭部から放たれる野獣の咆吼。火球の動きが止まった。強烈な念動力が炎を圧縮する。ただ押し潰すだけではなく、ひねりを加えて捩じ切ろうとした。
火球は命ある物のように抗い、表面は苦しげに波立ち渦を巻いた。火災旋風がガルアムにまとわりつき、焼き尽くそうとする。しかし獣王の体には火傷一つ残らない。そして躊躇も容赦もない。二度目の咆吼と共に、一気に火球を捩じ切ると、左右に分断した。
火球の炎は消え、火災旋風は消失した。周囲を包む静寂と夜の闇、そして残り香の如き熱気。圧倒的と言って良い実力差。それは魔人とモドキの差と言えた。
漂う煙の中にガルアムは見つけた。胴体を捩じ切られた女の姿を。しかし眉一つ動かさない。後ろを振り返る。人々が避難し終え閑散としたビル街に、ただ一人物陰からこちらを見る男が居た。背を向けて去ろうとするその背後。風のようにガルアムの巨体が音もなく立ち、男をつかみ上げる。けれど彼は騒ぐでもなく、悲鳴を上げる訳でもない。
「ダラニ・ダラ」
そう声をかけると、手にした男もろともガルアムの姿が消えた。
エリア・アラビアの市街地にそびえる氷山が鳴動した。するとそれに呼び寄せられたのか、氷結した地面の上を滑るように海の水が押し寄せて来る。辺りはたちまち膝の高さまで水に覆われ、瞬時に凍った。ケレケレの足下もまた。
「ふむ、これで動きを封じたつもりか」
氷山は再び動き出す。目の前の子供を押し潰さんばかりに。
ケレケレは口を開く。大きく大きく開き、ばくん、と足下の氷を地面ごと、ごっそりえぐり取った。自由になった足からパラパラと氷の破片が落ちる。前に進み、ひょいと飛び上がった。
軽々と氷山の頭上に至ったケレケレは、口を開く。大きく大きく開き、さらに大きく開いた。氷山を覆い隠すほどに。
ばくん。
音を立てて口が閉じる。氷山が見えなくなった。ケレケレがその口をモグモグと動かすと、ゴリゴリ氷の砕ける音がした。そして。不意に何かをペッと吐き出す。それはケレケレよりも大きな体の人間。若い男のようだった。ケレケレが男の顔に耳を近付ける。かすかな呼吸音。
「生きているか。おまえは運がいいな」
遠巻きに眺めているエリア・アラビアの住民たちに、ケレケレは手を振った。
「おーい、こいつを頼む」
戸惑いながら近寄ってくる人々。その流れに逆らうようにケレケレは歩いた。人の流れが途切れ、ケレケレの足が止まったとき。その前に呆然と立ち尽くしていたのは、髪の短い少女。ケレケレが手を差し出す。
「では、一緒に行くとしよう」
少女は無表情にその手を取った。
「ダラニ・ダラ」
ケレケレの言葉と共に、二人は姿を消した。
土砂が雪崩のように走る、深夜のアフリカ、エリア・バレー。
「ほーいほい」
魔人ウッドマン・ジャックがつぶやくと、流れる土砂の中から何本も木が生えた。その根元を草が覆い尽くして行く。土砂の速度は急速に緩やかになり、やがて止まった。
まるで釘打ち銃で打ち込まれたかのように、土砂から次々に木が突き出す。風の速さで草が生い茂り、蔓が伸びる。エリア・バレーの市街地は、一瞬でジャングルとなった。
ジャングルの向こうでは、地面の隆起と崩落がまだ続いている。しかし木々に阻まれ、土砂はもう流れてこない。ジャックは広がる草原を歩いて行く。東に、キリマンジャロの方向に。
そこに地震。大地が大きく縦に揺れた。ジャングルの彼方に盛り上がって行く地面。凄まじい速さの隆起。その中から低いうめき声と共に姿を現わしたのは、土と岩とで出来た巨大な人型。伝説のゴーレムを思わせるその姿を見て、ジャックは笑った。
「ぬほほほほほっ、ご本尊のお出ましなのだね」
ゴーレムはジャングルの木々をなぎ倒し蹴り飛ばしながら、こちらに向かって来る。しかしジャックは歩みを止めない。パイプをふかしながら、楽しげにこう言った。
「ぽん!」
ぽん、と黄色い花が咲いた。ゴーレムのこめかみに、たくさんの花弁が幾重にも重なる丸い花。ぽんぽんぽん、と続けて花が咲いた。ゴーレムの頭に。そして首筋に、肩に、胸に、腰に腕に脚に、次々に無数の黄色い花がゴーレムの表面を埋め尽くして行く。花の数が増えるたび、ゴーレムの足が重くなる。やがて全身を真っ黄色に染めた人型は、ウッドマン・ジャックの眼前にまで至り、震えながら動きを止めた。
いま黄色い花の根が、ゴーレムの全身を縛り付けている。悲しげな唸り声を上げながら、両膝をつき、それでも前に進もうというのか、ジャックに向かって手を伸ばした。
ピシリ。岩の砕ける硬い音。花の根が深部に達したのだ。全身に亀裂を生じさせ、ゴーレムは手の先から崩壊した。
ただの石塊と土砂へと姿を変えたかつての人型の中から、人間の手がのぞいていた。その指先に触れて、ジャックはうなずく。
「これは無理だね。可哀想だとは思うのだけれど」
魔人は街を振り返った。
「さて、ではダラニ・ダラ」
その声と共にジャックは消えた。
高層ビルの屋上、死人のような顔で下界を見下ろす青年の背後に気配が動いた。しかし青年は振り返りはしない。後ろから肩に大きな手を置くのは、ウッドマン・ジャック。
「いやあ忘れるところだったのだね。危ない危ない」
そして二人はエリア・バレーから消えた。
オーストラリア大陸東部に位置するエリア・エインガナの人々は、目を丸くして見上げていた。ただでさえ黒雲で暗い空を、さらに暗くする巨大な影。それが先般エリア・レイクスに現われた天秤であると気付いた者が何人居たか。
天秤と、それを取り出した魔人リキキマは、低く分厚い黒雲を突き抜け上に出た。太陽はまだ真上には来ていない、午前の蒼天。しかし目の前には、そびえ立つ黒雲の壁、サイクロンの中心があった。吹き荒れる風が集まり飲み込まれて行くその場所へと天秤は突入した。
濃密な水蒸気と呼吸を妨げる強風、宙を走る稲妻と吼える雷鳴をくぐり抜け、リキキマは雲も風もない『目』に到達した。少し遅れて天秤が、背後の雲の中から姿を現わす。
「さあ行け!」
リキキマの声に応じて巨大な天秤は『目』を駆け抜け、その片方の皿を反対側の雲の中に突っ込んだ。文字通り、丸い『目』の真ん中を天秤が貫通したのだ。風を受けて右回りに回り始める天秤。だがそれをリキキマが止めた。
「逆だ」
天秤が悲鳴を上げるように軋む。しかしゆっくりと回転が止まったかと思うと、少しずつ少しずつ、左回りに回転し始めた。風を切る音が響く。天秤の速度が上がる。やがて二つの皿が真横に振れるほどのスピードで回り、最終的にはサイクロンの最大風速を超える速さとなった。
それは『目』の拡大を意味し、すなわち勢力の衰弱を招く。これが自然に出来たサイクロンなら、単にそれだけの事である。だがこのサイクロンは人の意思の下に生まれた物。姿形を崩された事に慌て、強引に元に戻そうとした。その力の流れをリキキマが読み取る。
風の流れ、雲の流れ、すべての動きの中心に『核』が存在する。中心が真ん中にあるとは限らない。天秤の回転にかき乱される雲の少し下に、リキキマは見つけた。
手のひらをそこに向ける。すると手が投網のように広がり、『核』のある空域を包み込んだ。そして次の瞬間、握り潰される。それで終わり。
あっという間にサイクロンは消失し、黒雲や竜巻は文字通り雲散霧消した。けれど天秤はまだ回っている。
「もういいぞ。いつまで回る気だ」
天秤はまた軋み、何とか止まろうとしていたが、まだ少し時間がかかりそうだ。
「いまのうちにやっとくか」
リキキマはため息をつきながら下を見た。エリア・エインガナが広がっている。
エインガナでは人々が大空で回転する巨大な天秤を見上げていた。そんな中、空から目を離し、逃げるようにビルの影へと入って行く黒いスーツの男。カオスの構成メンバーの一人、テンプルである。
「……次だ」
そうつぶやきながら、テンプルは足を速めた。その足が何か液体を踏んだ。姿が見えたのはそこまで。まるで飲み込まれたかのように、彼の体は一瞬で液体の中に沈んでしまった。
「次なんかあるか」
そんな声がどこからか聞こえた。
体重に落下速度が加えられたハンマーの如き拳が、獣人ズマの頭に振り下ろされる。殴る音はしない。モロにくらったズマは意識が飛ぶ。当然、倒れ込む音もしない。
銀色のサイボーグは3Jの前まで後退した。その視界の中でヌ=ルマナが立ち上がる。その隣に立つのは、腰の曲がった老人。ケレケレに囓られた顔の右半分はまだ元に戻ってはいないが、長い耳たぶは左右にぶら下がっていた。『宇宙の耳』ハルハンガイ。
3Jはジンライの隣に立った。そして右手でハンドサインを出す。
『男』『任せる』
ジンライは一瞬当惑したが、すぐにうなずいた。
ヌ=ルマナが前に出る。ジンライも前に出ると、ヌ=ルマナの横を通り過ぎた。互いに振り返りもせずに飛ぶ。
ヌ=ルマナの六本の戦斧が3Jに襲いかかった。それを阻む電磁シールド。飛んだ火花が照らし出す、ヌ=ルマナの大きな両目と3Jの一つの目。無論そこには音がない。
空の上から駆け下りる光の矢。ヌ=ルマナは戦斧を一本手放し、手を空に向けるだけで受け流した。さすがに至近距離に3Jが居る以上、いかなパンドラとてフルパワーのビーム砲撃などあり得ない。ただ、意識は上に向いた。
3Jは杖でヌ=ルマナの目を突いた。しかし易々とつかみ止められる。そこですぐ杖を引くと仕込み杖の鞘から刃が抜け出る。そのまま体を回転させて、ヌ=ルマナに斬りかかった。だが相手は鞘を捨てて飛び下がる。仕込み杖を恐れた訳ではない。
さっきまでヌ=ルマナが居た場所に、何かが蠢いている。蠢く影は瞬時に人の姿を取った。リキキマの執事、ハイムである。ハイムは3Jに一礼すると、背後に下がった。
ヌ=ルマナの顔が小さく歪む。舌打ちでもしたような表情。だが、音は聞こえない。
炎の竜巻が建物を舐め取って行く。灼熱のエリア・エージャン、火災旋風に囲まれた獣王ガルアムは頭上に達した太陽の如き火球に向かって両手を挙げた。オオカミの頭部から放たれる野獣の咆吼。火球の動きが止まった。強烈な念動力が炎を圧縮する。ただ押し潰すだけではなく、ひねりを加えて捩じ切ろうとした。
火球は命ある物のように抗い、表面は苦しげに波立ち渦を巻いた。火災旋風がガルアムにまとわりつき、焼き尽くそうとする。しかし獣王の体には火傷一つ残らない。そして躊躇も容赦もない。二度目の咆吼と共に、一気に火球を捩じ切ると、左右に分断した。
火球の炎は消え、火災旋風は消失した。周囲を包む静寂と夜の闇、そして残り香の如き熱気。圧倒的と言って良い実力差。それは魔人とモドキの差と言えた。
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そう声をかけると、手にした男もろともガルアムの姿が消えた。
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軽々と氷山の頭上に至ったケレケレは、口を開く。大きく大きく開き、さらに大きく開いた。氷山を覆い隠すほどに。
ばくん。
音を立てて口が閉じる。氷山が見えなくなった。ケレケレがその口をモグモグと動かすと、ゴリゴリ氷の砕ける音がした。そして。不意に何かをペッと吐き出す。それはケレケレよりも大きな体の人間。若い男のようだった。ケレケレが男の顔に耳を近付ける。かすかな呼吸音。
「生きているか。おまえは運がいいな」
遠巻きに眺めているエリア・アラビアの住民たちに、ケレケレは手を振った。
「おーい、こいつを頼む」
戸惑いながら近寄ってくる人々。その流れに逆らうようにケレケレは歩いた。人の流れが途切れ、ケレケレの足が止まったとき。その前に呆然と立ち尽くしていたのは、髪の短い少女。ケレケレが手を差し出す。
「では、一緒に行くとしよう」
少女は無表情にその手を取った。
「ダラニ・ダラ」
ケレケレの言葉と共に、二人は姿を消した。
土砂が雪崩のように走る、深夜のアフリカ、エリア・バレー。
「ほーいほい」
魔人ウッドマン・ジャックがつぶやくと、流れる土砂の中から何本も木が生えた。その根元を草が覆い尽くして行く。土砂の速度は急速に緩やかになり、やがて止まった。
まるで釘打ち銃で打ち込まれたかのように、土砂から次々に木が突き出す。風の速さで草が生い茂り、蔓が伸びる。エリア・バレーの市街地は、一瞬でジャングルとなった。
ジャングルの向こうでは、地面の隆起と崩落がまだ続いている。しかし木々に阻まれ、土砂はもう流れてこない。ジャックは広がる草原を歩いて行く。東に、キリマンジャロの方向に。
そこに地震。大地が大きく縦に揺れた。ジャングルの彼方に盛り上がって行く地面。凄まじい速さの隆起。その中から低いうめき声と共に姿を現わしたのは、土と岩とで出来た巨大な人型。伝説のゴーレムを思わせるその姿を見て、ジャックは笑った。
「ぬほほほほほっ、ご本尊のお出ましなのだね」
ゴーレムはジャングルの木々をなぎ倒し蹴り飛ばしながら、こちらに向かって来る。しかしジャックは歩みを止めない。パイプをふかしながら、楽しげにこう言った。
「ぽん!」
ぽん、と黄色い花が咲いた。ゴーレムのこめかみに、たくさんの花弁が幾重にも重なる丸い花。ぽんぽんぽん、と続けて花が咲いた。ゴーレムの頭に。そして首筋に、肩に、胸に、腰に腕に脚に、次々に無数の黄色い花がゴーレムの表面を埋め尽くして行く。花の数が増えるたび、ゴーレムの足が重くなる。やがて全身を真っ黄色に染めた人型は、ウッドマン・ジャックの眼前にまで至り、震えながら動きを止めた。
いま黄色い花の根が、ゴーレムの全身を縛り付けている。悲しげな唸り声を上げながら、両膝をつき、それでも前に進もうというのか、ジャックに向かって手を伸ばした。
ピシリ。岩の砕ける硬い音。花の根が深部に達したのだ。全身に亀裂を生じさせ、ゴーレムは手の先から崩壊した。
ただの石塊と土砂へと姿を変えたかつての人型の中から、人間の手がのぞいていた。その指先に触れて、ジャックはうなずく。
「これは無理だね。可哀想だとは思うのだけれど」
魔人は街を振り返った。
「さて、ではダラニ・ダラ」
その声と共にジャックは消えた。
高層ビルの屋上、死人のような顔で下界を見下ろす青年の背後に気配が動いた。しかし青年は振り返りはしない。後ろから肩に大きな手を置くのは、ウッドマン・ジャック。
「いやあ忘れるところだったのだね。危ない危ない」
そして二人はエリア・バレーから消えた。
オーストラリア大陸東部に位置するエリア・エインガナの人々は、目を丸くして見上げていた。ただでさえ黒雲で暗い空を、さらに暗くする巨大な影。それが先般エリア・レイクスに現われた天秤であると気付いた者が何人居たか。
天秤と、それを取り出した魔人リキキマは、低く分厚い黒雲を突き抜け上に出た。太陽はまだ真上には来ていない、午前の蒼天。しかし目の前には、そびえ立つ黒雲の壁、サイクロンの中心があった。吹き荒れる風が集まり飲み込まれて行くその場所へと天秤は突入した。
濃密な水蒸気と呼吸を妨げる強風、宙を走る稲妻と吼える雷鳴をくぐり抜け、リキキマは雲も風もない『目』に到達した。少し遅れて天秤が、背後の雲の中から姿を現わす。
「さあ行け!」
リキキマの声に応じて巨大な天秤は『目』を駆け抜け、その片方の皿を反対側の雲の中に突っ込んだ。文字通り、丸い『目』の真ん中を天秤が貫通したのだ。風を受けて右回りに回り始める天秤。だがそれをリキキマが止めた。
「逆だ」
天秤が悲鳴を上げるように軋む。しかしゆっくりと回転が止まったかと思うと、少しずつ少しずつ、左回りに回転し始めた。風を切る音が響く。天秤の速度が上がる。やがて二つの皿が真横に振れるほどのスピードで回り、最終的にはサイクロンの最大風速を超える速さとなった。
それは『目』の拡大を意味し、すなわち勢力の衰弱を招く。これが自然に出来たサイクロンなら、単にそれだけの事である。だがこのサイクロンは人の意思の下に生まれた物。姿形を崩された事に慌て、強引に元に戻そうとした。その力の流れをリキキマが読み取る。
風の流れ、雲の流れ、すべての動きの中心に『核』が存在する。中心が真ん中にあるとは限らない。天秤の回転にかき乱される雲の少し下に、リキキマは見つけた。
手のひらをそこに向ける。すると手が投網のように広がり、『核』のある空域を包み込んだ。そして次の瞬間、握り潰される。それで終わり。
あっという間にサイクロンは消失し、黒雲や竜巻は文字通り雲散霧消した。けれど天秤はまだ回っている。
「もういいぞ。いつまで回る気だ」
天秤はまた軋み、何とか止まろうとしていたが、まだ少し時間がかかりそうだ。
「いまのうちにやっとくか」
リキキマはため息をつきながら下を見た。エリア・エインガナが広がっている。
エインガナでは人々が大空で回転する巨大な天秤を見上げていた。そんな中、空から目を離し、逃げるようにビルの影へと入って行く黒いスーツの男。カオスの構成メンバーの一人、テンプルである。
「……次だ」
そうつぶやきながら、テンプルは足を速めた。その足が何か液体を踏んだ。姿が見えたのはそこまで。まるで飲み込まれたかのように、彼の体は一瞬で液体の中に沈んでしまった。
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