2 / 8
幽谷の浴場
しおりを挟む
長雨の時期には太陽が少し懐かしかったりもしたものだが、秋晴れが三日も続くともううんざりだ。駐車場を掃除するだけのために日焼け止めを塗るのが面倒臭い。『小鳥ホテル 頂』の玄関の薄茶色いガラス扉はもちろん抗紫外線ガラスだが、どこまで信用して良いやらわからないので、なるべく光の当たる場所には近づかない。どうせ昼間は人通りもないのだからロールカーテンを下ろしていても構わない気もするのだけれど、誰か見てるかもしれない、誰か通りかかるかもしれない、そのとき暗いイメージを感じる佇まいにはしたくない。ただの見栄かもしれないが、そんな思いが外の光を僕に拒ませない。合理的じゃないよなあ、と思いながら僕はガラス扉を内側から拭いた。その手元がふいに暗くなる。外に人影が立っていた。宇宙服のような紫外線低減スーツ。見慣れたその汎用デザインの人影は、遠慮がちにガラス扉を引くと、風除室に入ってきた。そしてヘルメットを取ると、ひとつ息をついた。
「ふう、暑い」
「なんだ、たきおんか」
「その呼び方やめて。いいかげん恥ずかしい」
そう言うとたきおんは、いや、吉備滝緒は口を尖らせた。切れ長の目が見つめている。なるほど、もう20代も半ばの大人の女である。『たきおん』は恥ずかしいかもしれない。しかし、口を尖らせてにらむ様子は、子供のころからまるで変わっていない。
「で、市役所の人が何か用なの」
「別に用はないわよ。ちょっと出先から帰る途中で前を通ったから、その、元気かな、って思っただけで」
そう、世の中の大半の仕事が労働開始時間を夕方以降にシフトした現在にあっても、市役所は朝8時から夕方5時までの勤務なのだ。頑固というか融通がきかないというか。だが結果的には多くの利用者が仕事前に用事を済ませる事ができるようになって、市民からは好評だという。滝緒はそんな市役所の市民生活課の職員である。
「僕は元気だよ。いろいろと相変わらずだけどね」
風除室のドアを開いて玄関ホールに滝緒を招き入れた。空調の効いたホールは空気がひんやりとしている。滝緒は後ろにまとめた髪をほどくと、またひとつ息をついた。そして目を閉じ、耳を澄ます。
「まだ鳥たくさん飼ってるんだね」
「うん、まあね」
「預かってるのもいるの」
「今は文鳥が1羽だけ」
「やっぱり儲かってないんだね」
「そういうのも含めて相変わらずだよ」
僕の笑う顔を見て、滝緒もつられたように笑った。そのとき。風除室の扉が勢いよく開かれた。
「いやー悪いな、邪魔をするぞ」満面の笑みを浮かべた五十雀巌が立っていた。だがその笑顔が一瞬で曇る。「……なんだ、たきおんかよ」
「たきおん言うな!」
滝緒は怒鳴ると、僕をにらみつけた。
「あんた、まだこんなのと付き合ってるの」
「いや、それを僕に言われても」
「あーあ、菊弥が珍しく女連れ込んでると思ったから邪魔してやろうかと思ったら、よりにもよって、たきおんとは」
巌は頭を振って嘆いて見せた。
「いや、おまえそれは性格悪すぎるだろ」
けれど僕の言葉など、誰も聞いていない。
「巌、あんたまさか菊弥に変なこと教えたりしてないでしょうね」
「変なことって何だよ。俺がそんなヒマそうに見えるのかね」
「見える」
「あーあ、可哀想に。人を見る目が無い奴だ」
滝緒は僕に振り返った。
「菊弥、こいつ今何してるの」
「へっぽこ陰陽師」
「呪禁道士だ」
巌は言い直したが、もちろん滝緒の耳には入らない。
「まだそんな事してんの。いい加減働きなさいよ」
「働いてはいる。金にならんだけだ」
「それは働いてるって言いません」
「成果主義なんてのは愚鈍な奴の考えることだぞ」
「あんたみたいなのを賢明って言うんなら愚鈍で結構です」
「うどんみたいな顔しやがって」
「あんかけそばに言われる筋合いはありません」
滝緒は口が立つ。さしもの巌もやりにくそうだ。僕がそう思ったとき、ガラス扉の向こう、駐車場に車が一台入ってくるのが見えた。もちろん、まだ陽が高い。営業開始時間までは随分ある。誰だろう、車には見覚えがあるようなないような。僕は車にあまり興味がない。だから車種の違いなどよくわからないのだ。セダンかミニバンかワンボックスか程度はわかるが、あとは色の違いがせいぜいである。入ってきたのは白い車。駐車場に静かにバックで停まると、ドアが開いた。降りてきたのは。
「あ」
僕が漏らした声に、なぜかこのときだけは巌も滝緒も食いついた。そして僕の視線を追い、駐車場に目を向けた。
白い車から降り立ったのは、サマーセーターにジーンズを履いた、30代半ばの女性。黒い日傘をさした。一瞬遅れて名前を思い出す。白萩原絵里さん。
「誰だ」
と巌。
「お客さん?」
と滝緒。
「うん、いま預かってる文鳥の飼い主さん。だけど」
だけど、なぜこんな時間に。いや、そもそも宿泊予定はあと2泊ある。迎えに来たとしても早すぎる。と思っていると、車の助手席が開いた。そこから降り立ったのは、青いワンピースの少女。見間違いではない。あのアオちゃんの飼い主、大峰さんである。大峰さんも青い日傘をさし、そして二人は玄関に向かってきた。
二人の女性は玄関前で傘を閉じ、扉を開け、風除室に入ると、白萩原さんがそこで僕に向かって深々と一礼をした。僕は風除室の扉を開け招いたが、白萩原さんは入りにくそうにしばらく躊躇した。その背を押したのは、大峰さん。
「このたびはご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ございません」
沈痛な面持ちで詫びの言葉を口にする白萩原さんに、僕ら三人は顔を見合わせた。
「白萩原さん、どういう事でしょう」
自分はいま間抜けな顔してるんだろうなあ、と思いながら、僕は白萩原さんに尋ねた。
「はい、モナカを引き取りに参りました」
モナカとは、預かっているシナモン文鳥の名前である。
「でも、えっと」
「営業時間外なのは承知いたしております」
「それは別にいいんですけど、あと2泊残ってますよね、料金も頂いてますし」
「はい。ですが、矢も楯もたまらず」
随分と古い言い回しをするんだな、と一瞬思ったが、そんな事を突っ込んでいる場合ではない。
「わかりました。じゃモナカちゃん連れてきますね」
滝緒と巌を白萩原さんたちと一緒に残しておくのも気が引けたが、やむを得ない。ときとしてイレギュラーはあるものだ。僕は客室に入った。モナカのケージと、餌の入った紙袋、そしてレジから2泊分の料金3千円を取り出して、玄関ホールに戻った。
白萩原さんの顔に満面の笑みが浮かんだ、と思ったとたん、その両目からは大粒の涙があふれ出てきた。そして僕から奪うようにケージを受け取ると、ケージを抱きしめ、顔を押しつけた。
「ああ、モナカ。ごめんね。ごめんね。本当にごめんなさい」
ケージの中のモナカはきょとんとしている。でも久しぶりに飼い主に会えて嬉しそうだ。
「では、あの、これ3千円の返金です」
紙袋と一緒に差し出した千円札3枚を、大峰さんの手が止めた。そして紙袋だけを受け取ると、
「それは迷惑料として受け取ってくださいとのことです」
そう言って微笑んだ。
「迷惑料って言われましても」
困惑している僕に向かって、白萩原さんはまた深く一礼した。
「本当に、本当にありがとうございました。この御恩は忘れません」
「御恩?」
何のことだ。お金を取って文鳥を預かった、それだけなのに。
「それでは今日のところはお家に戻って安静にされてください」
大峰さんから紙袋を受け取り、白萩原さんは深くうなずくと、ケージを大事そうに抱え、車へと向かった。それを見送る僕と滝緒と巌の顔。大峰さんはまるで楽しいことを話すかのように笑った。
「あの方は、ここに文鳥を捨てに来たのです」
一同の目が大峰さんに集まる。そして再び外へ向く。白い車が駐車場から出て行くのが見えた。
「何で、そんな事を」
責めるような僕の問いに、大峰さんは一度うなずいた。
「末期の胃ガンだったからです。里親を探す余裕すらないほどに」
その言葉に僕は愕然とした。しかし。
「いや、そりゃおかしいだろ」
それは巌。そう、確かにおかしい。
「末期の胃ガンだったから、助からないから、ここに文鳥を捨てに来たっていうのは、まあわからん話じゃない。けどな、だったら何で引き取りに来た。それにさっき見た限りじゃ、とても末期ガン患者には見えなかったぞ。多少やつれちゃいるが、健康そのものって感じだった」
「そうでしょうね」大峰さんは笑う。「だって治ってしまったのですから」
「治った?何が。まさか」
「はい、そのまさかです」
唖然とする巌を、滝緒を、そして僕を見まわしながら、大峰さんは平然と答えた。
「末期の胃ガンが治ってしまいました。彼女の命は救われたのです。だから文鳥を引き取りに来たのです。何もおかしな事ではありません」
「そんな。末期だったんでしょ」
思わず滝緒も口を出す。
「ええ、うちの病院で検査を受けたのですから間違いありません」大峰さんは微笑む。それはどこか神々しささえ感じられる笑顔だった。「うちの病院で検査を受けて末期ガンと診断され、そしてうちの病院で再検査を受けて、ガンが完治したと診断されたのです」
「それ誤診じゃねえのか」
到底受け入れられない、巌の顔はそう言っている。
「おっしゃりたい事はわかります。けれど、誤診ではありませんよ。そうですね、丁度いいですから、詳しい事をお話ししましょう」
いったい何が丁度いいのだろう。大峰さんの言葉に少し引っかかったが、話の続きを聞いた僕は、すぐにそんな事など忘れてしまった。
白萩原絵里さんは、ある会社でプロダクトマネージャーをしています。入社して十年以上頑張って、ようやく就いた責任者の立場です。思い入れもひとしおでした。ですから、多少の体調不良などでは休めませんでした。彼女には身寄りがありません。文鳥のモナカはただ一人の家族でした。日々ストレスと闘いながら、モナカと過ごす時間だけが、彼女にとって安らげる瞬間でした。そんな生活が数年続き、あるときみぞおちの辺りに違和感があるのに気づきました。なのに彼女は病院には行きませんでした。仕事を休めと言われることを恐れたのです。やがて違和感は痛みへと変わりました。それでも彼女は病院へは行きません。どうせ原因はストレスだろう、ストレスならモナカと遊べば消えてなくなる。そう思っていたのです。しかしある日、仕事中に彼女は吐血し、うちの病院へと運ばれてきました。しかし、そのときにはもう手遅れでした。胃に張り付いたガンは巨大になり、あちこちに転移していました。手の施しようがありません。そう医師から告げられたとき、彼女が最初に考えたのが、モナカの行く末です。そしてあちらこちらを調べ、たどり着いたのが、この『小鳥ホテル 頂』でした。モナカをここに託そう、彼女はそう決め、普通の客を装い、モナカをここに預けました。これでもう思い残すことはない、そう思った彼女はそのまま、車で山へと向かいました。ご存知かと思いますが、この辺りの山には小さな温泉街があり、かつては修験道の修行場がありました。切り立った断崖もあります。残されたわずかな時間を痛みと苦しみに埋め尽くされるくらいなら、いっそひと思いに。白萩原さんはそう考えていました。けれどそう簡単には行きませんでした。道に迷ってしまったのです。普通ならあり得ないことです。なぜなら温泉街へは、まっすぐ一本道なのですから。でも彼女は迷ってしまいました。そして何時間も山の中を走り回った挙句、ようやく一軒の古びた旅館の前にたどり着きました。旅館の前には老婆が立っていたといいます。「泊まっていかんかね。良い温泉があるよ」老婆のその言葉に誘われるように、彼女はその旅館に入って行きました。通された部屋は6畳ほどの、何の変哲もない部屋だったそうです。「温泉に入っておいで。食事の支度をしておくからね」老婆にそう言われ、彼女は大浴場に向かいました。そして驚きました。大浴場の広いこと広いこと。充満する湯気のせいもあるとはいえ、入り口から向こうの端が見えないほどに広いのです。その広い浴場に、幾つもの小さな浴槽が並んでいました。よく見ると、その浴槽には一つずつ、別々の効能書きがありました。つまり、「リウマチに効く湯」「風邪に効く湯」「腰痛に効く湯」と銘板に書かれているのです。面白いものだな、彼女はそう思い、並ぶ浴槽の銘板を見て行きました。すると、そこにあったのです。「ガンに効く湯」が。彼女は目を疑いました。そしてもう一度銘板を見て、笑ったそうです。温泉に入ってガンが治るなど、あるはずがない。自分がガンで死ぬ最後の旅路の宿で、こんなものに出くわすとは、何の因果だろう。そうは思いましたが、それでもちょっと気になります。まあいい、一度だけ試してみようか。彼女はその浴槽に浸かりました。十分ほど浸かっていたでしょうか。彼女は気づきました。みぞおちの痛みが消えていることに。お風呂からあがって部屋に戻ると、食事の用意がしてありました。食事といっても、焼き魚に豆腐の味噌汁にご飯だけ、質素というか素朴と言うか、とにかくお世辞にも華やかな食事ではありませんでしたが、恐ろしいほどに美味しかったといいます。吐き気もありませんでした。白萩原さんは薬を持ってきていませんでしたが、彼女の身体が痛むことはありませんでした。その夜は久しぶりに熟睡したそうです。そして翌朝目が覚めると、彼女は車の中にいました。そこは温泉街のコインパーキング。彼女の泊まったはずの旅館など、どこにもありませんでした。でも夢や幻ではないはずです。なぜなら彼女の身体からは痛みがすっかり消え去っていたのですから。彼女は帰宅し、うちの病院に再検査を依頼しました。その結果が出たのが昨日。ガンは完治していました。そして彼女は迷った挙句、今日モナカを引き取りに来たのです。
空は夕暮れ。世の人々が動き始める頃、一台の車が『小鳥ホテル 頂』の駐車場に入ってきた。青い大型のセダン。大峰さんの迎えの車である。
「それでは皆様、またいつか」
軽く一礼をすると、青いワンピースは背を向け、玄関から去って行った。残された僕と巌と滝緒の3人は、互いに納得の行かない顔を向け合い、しかし何を言うでもなく、黙り込んでしまった。
沈黙を破ったのは、巌。
「しょーがねえ。俺も帰るとするか」そして滝緒に目をやる。「で、たきおんは市役所に戻らなくていいのか」
「あーっ!忘れてた!」
滝緒は慌ててヘルメットをかぶると、ふいに僕の顔を見つめた。
「それじゃ、また、また来るから」
「ああ、いつでもおいでよ」
「また来るから、くれぐれも変なこと考えないように」
「変なことって何だよ」
「変なことは変なことよ。いいね、絶対だからね」
滝緒はそう言って背を向けると、巌の尻を一発蹴り上げて外に飛び出して行った。
「ガキかよ、あいつは」
尻を抑えながら、巌も出て行った。
「さて、と」
僕は小さくため息をついた。玄関はどうしよう。開店時間まではあと2時間ほどだが、今日は予約が入っていない。どうせ飛び入りも来ないだろうし、鍵を閉めておくか。玄関と風除室の扉を施錠し、玄関ホールの照明を消して、僕は鳥部屋のドアを開けた。
「聞いてたかい」
「はい、聞いてました」
セキセイインコのリリイが緑色の羽を広げた。
セキセイインコはオーストラリア原産の小型のインコで、最もペットとして普及しているインコである。他のインコに比べて繁殖が容易で、雛から育てるにしても比較的丈夫で飼いやすい事がその理由としては挙げられる。全長は20センチ強あるが、半分は尾の長さである。飼育されているセキセイインコには多彩な羽の色があるが、リリイは頭が黄色く、身体は原種に近い緑色であった。
「それでは第135回定例会議を始めます。今回の議長はわたくしリリイが務めます。議題は青いお嬢さんの持ち込んだ謎の温泉についての話。異議はありませんか」
「異議なし」
伝蔵とパスタとミヨシが応えた。
「異議はないけど、餌と水替えてくれへんかな」
トド吉が羽を挙げた。
「了解了解」
僕は皆の餌と水を替え始めた。リリイはモモイロインコのミヨシに話を向ける。
「では単刀直入に、今回の話はあり得ることなの」
「温泉に浸かっただけで末期ガンが治るなんて、地球ではオカルト話でしかないわね。我々の技術があれば可能だけど」
「我々の技術は地球人にそのまま使える?」
リリイは十姉妹のトド吉に話を振った。
「そのまんまは無理やで。けどワイらレベルの技術水準がなかったら、末期ガンの完治なんてそもそも無理やないか」
「そうね。地球人のガンはそういう病気よね」
ミヨシもうなずいた。
「何か伝承にヒントはある?」
リリイはパスタに尋ねた。ヨウムのパスタは少し首をひねった。
「病に効く泉や温泉の話は、それこそ古今東西枚挙に暇がないです。ただ浴槽があって、銘板に効能書きがあるというのは、イタリアのポッツオーリにかつてあったと伝わる浴場の伝説に似ています。これはあのヴェルギリウスが作ったとされるものなのですが」
ブルーボタンインコの伝蔵が咳払いをした。パスタははっと我に返った。
「あ、すみません。ヴェルギリウスというのは伝説の大魔導士で、あ、いえ、実在のヴェルギリウスは古代ローマの詩人なんですが」
「要するに」伝蔵はパスタの言葉を遮った。「魔法の風呂という事なのだな」
「そ、そうです」
パスタはしゅんとしてしまった。そんな責めるような言い方しなくても、とも思ったが、彼らには彼らの文化があり、お約束もある。口出しはしないが吉である。
「つまりは技術的には不可能レベルの、魔法でもなければ実現し得ない出来事が起きた、と称する者がいるという訳だ。見過ごして良いものか。どうする議長」
伝蔵の言葉に、リリイは丸い目をぱちくりさせた。考えているのだ。
「詳細が知りたいですね。また聞きだけでは判断に困ります」
その視線は僕を見ていた。え、何だそれ。
「僕はいやだぞ、こんな気持ち悪い話」
「それほど気持ち悪い話だとも思えませんが」
「いや気持ち悪いって。お化けとか妖怪とか、またそういう感じの話になりそうじゃないか。ていうか、そもそも君らの仕事だろ」
「大丈夫です、バックアップはしますので」
「全然大丈夫じゃない!」
そうは言ってみたが、僕の言う事など誰も聞いてはくれないんだろうな、そう思った。しかし。
「じゃあ仕方ないですね」リリイはあっさり矛を収めた。「パスタ、行ってくれますか」
パスタは驚いたのか、ちょっと羽を膨らませた。
「あ、はい。あの、私一人でですか」
リリイはうなずいて見せた。
「だって菊弥さんがいやだと言うのだもの。バックアップの人数はこれ以上割けないし、頑張ってみてよ」
「はあ」
「一人じゃ怖い事もあるかもしれないけど、私たちがついてるし」
「はあ」
「一人じゃ危ない事もあるかもしれないけど、以下同文」
「はあ、まあ仕方ないですね」
パスタがちらりと横目で僕を見た。その目は何かを訴えている。それを無視できるほどの胆力は、残念ながら持ち合わせていなかった。
「……わかったよ」我ながら意志が弱いな、と思う。「行けばいいんだろ」
「あら、行ってくださるんですか、それは助かります。ではパスタと一緒に、明日の朝から出発してください。営業開始時間までには帰って来られるように」
リリイはうきうきでお膳立てを始めた。ああ、せめて今夜はよく眠れますように。
黄金の髪に白い肌、厳しい眼差しに固く結ばれた口元。大人の男性だというのはわかるが、年齢まではわからない。40代にも60代にも見える。灰色のローブをまとい、彼方で燃える火を見つめている。小高い丘の上、火が燃えているのは森の中。いったい何が燃やされているのだろう。嫌な臭いがする。何の臭いだ。そのとき、男の視線が僕を見た。その口から洩れる言葉。どこの言葉だろう。まるで聞き取れない。しかし、頭の中に声が響いた。
【君は私が見えるのかね】
僕はうなずいた。男は嬉しそうに微笑んだ。
【そうか。どうやら君もこの世界の住人ではないようだね】
何のことだろう。意味がわからない。わからないと言えば、火。あれは何が燃えているのだろう。そう思ったとたん、男の顔は悲しみに曇った。
【あれは忌まわしいものだ。忌まわしいものが燃やされている】
そしてまた、火を見つめた。
【この世界はもうだめだ。『神』に毒されてしまっている。どこかに『神』を知らぬ大地はないものだろうか】
神を知らぬ大地。
【そう、唯一絶対神への信仰に毒されていない土地。そんな地がどこかに残されているだろうか】
それってまるで。そう思ったとき、男の目は驚きに満ち、その節くれだった両手は僕の肩をつかんだ。
【君は知っているのか、それを。教えてくれないか、私に。神を知らぬ大地を】
教えてくれ、教えてくれ、男は何度も繰り返す。教えてくれ、教えてくれ菊弥。菊弥。
「……菊弥さん、菊弥さん」
それはパスタの声。僕は目を開けた。明るい。すでに照明が点いている。
「あれ、いま何時」
「4時半です。起きる時間ですよ」
そうだ、今日は朝から出かけなければならないのだ。僕は身を起こした。斜め上に。真上には起こせない。ベッドの上には棚がかぶさっているからだ。その棚の上にはリリイと伝蔵とミヨシのケージがある。そう、僕の寝室は鳥部屋なのである。
「おいおい大丈夫か。きっちり目さめてるか」
そう言うトド吉に苦笑を返す。
「あんまり大丈夫じゃないけどね。ま、なんとかなるでしょ」
とりあえず顔を洗って食事だ。それでなんとか目をさまさなければ。そう言えば夢を見ていたような気がする。だがどんな夢だったのかは思い出せない。まあ問題ないだろう。夢を覚えていなくて困った事など、これまでなかったのだから。
午前6時。外は暗い。玄関ホールの内側から外を眺めていると、入り口から無人タクシーが入ってくるのが見えた。顔を洗ってトーストとブラックコーヒーで食事をして、鳥部屋の連中の餌と水を替えて、客室には誰もいないけど簡単に掃除機をかけて、レジのお金を確認して、ちょっと一息ついてからパスタをプラスチック製のキャリーケージに移して、顔や手に日焼け止めを塗り込んで、それで大体1時間半。タクシーは昨夜のうちに手配しておいたから、あとは待つだけであった。
朝の空気は冷たい。バイオカラスの声が遠くに響いている。タクシーが玄関前に横付けにされる。僕はキャリーケージを左手に、外に向かった。玄関のガラス扉を外側から施錠し、タクシーに近づくと、後部座席のドアが自動で開く。先にパスタのキャリーケージを乗せ、そして自分も乗り込んだ。ドアが閉まろうとした、そのとき。静かな早朝の街に、けたたましく足音が響いた。下駄の乾いた足音。まさか。タクシーの外に目をやると、丁度いま入り口から黒い着物姿の男が、黒い番傘を手に走ってきたところであった。黒装束の下駄の男は、タクシーの前で急ブレーキをかけると、助手席のドアを引き開け、乗り込んできた。
「よう、奇遇じゃねえか」
息も乱さず巌は笑った。どんな奇遇だ。
「まあおめえのことだから、知らん顔はしねえだろうと思ってたがな」
それは誤解だ。僕は知らん顔をしたかったのだ。今タクシーに乗っているのは本意ではない、と言いたかったが、どう説明したら良いのやら。僕が何も言えずに困っていると、タクシーのコンソールから合成音声が流れた。
「ご予約の人数をオーバーしています。人数を変更いたしますか」
「変更だ」僕の返事も聞かず、巌はタクシーの人工知能に命じた。「2人だ。2人に変更しろ」
「承りました。2名様に変更いたします」
「こらあっ!」
突然響いたその声に、僕と巌は顔を見合わせた。タクシーの外に立っていたのは、白いツバ広のヘルメットをかぶり、白い半袖のジャケットに半ズボンを身にまとった、いわゆる「探検隊」の格好をした滝緒だった。
「あんたたち、こんな朝っぱらからどこに行く気なのよ」
「何だその格好は」
思わずそう漏らした巌をキッとにらむと、滝緒は僕と反対側から後部座席に乗り込んできた。
「サファリルックよ。ヘミングウェイも知らないの。だいたい格好のことであんたにとやかく言われる筋合いはありません」
「いや、でも半袖で大丈夫なの」
着物の巌はもちろん、僕も長袖のシャツに長ズボンである。紫外線にさらす場所は可能な限り少なくしなければならないというのは、現代の常識だ。しかし滝緒は平然と僕に笑顔を向けた。
「日焼け止めは塗ってあるわよ。心配しないで」
「けどさ」
「ご予約の人数をオーバーしています。人数を変更いたしますか」
合成音声の問いかけに、滝緒は即答した。
「3人に変更」
「承りました。3名様に変更いたします」
「おめえも行く気なんじゃねえか」
呆れたような巌に、滝緒はヘルメットを脱ぐと答えた。
「あんたたち2人で何かやらせたら、またどうせ危ないことするでしょうが。巌は良くても菊弥はそうは行かないの」
「そうやって甘やかすから、こいつはふにゃふにゃなんだよ」
「菊弥はふにゃふにゃじゃありません。あんたがガサツなだけ」
「えーっと、あの、さあ」
おずおずと上げた僕の声に、巌と滝緒の視線がこちらを向いた。
「何だよ」
「何か疑問でもあるの」
疑問だらけである。何から聞けばいいのか僕が迷っていると、タクシーのコンソールが合成音声を発した。
「予定の時刻を過ぎています。発車しますか」
「……いいや、出して」
「かしこまりました」
タクシーは僕ら3人とパスタを乗せて、滑るように発進した。
「そう言やあよ」巌は助手席から振り返ると、キャリーケージを指さした。「それ、鳥か」
「あ、ああ。うん、まあ」
「そんなもん連れてきてどうするんだ。役に立つのか」
僕は慌てた。キャリーケージの中からカチンという音が聞こえた気がした。
「べ、別にいいだろ。必要だから連れて行くんだよ」
「必要っつったって、鳥だろ?何に使うんだ。あ、やっぱり話し相手か」
「違う、そうじゃなくて、その」
困った。何と説明すればいいのやら。
「別にいいでしょ、あんたよりは役に立つわよ」
滝緒が助け舟を出してくれた。そしてケージの中を覗き込んだ。
「これヨウムよね」
「うん。知ってるんだ」
「ヨウム?オウムじゃねえのか」
巌が真面目にそう尋ねた。実はこれがヨウムについての最も多い質問の一つである。
「馬っ鹿ねえ、ヨウムはオウムじゃなくてインコでしょうが。そんな事も知らないの」
しかし滝緒がそれを知っていることの方が、僕には驚きだった。滝緒が鳥を飼ってるとは聞いていない。なのにどこからそんな知識を仕入れてくるのか。
「でも今ヨウムなんて規制が厳しいでしょう。輸入もほとんどないのによく飼えたわね」
「高齢で飼えなくなった人がいてね。その人から譲ってもらったんだ」
「へえ、そういうパターンがあるのね」
もちろん嘘である。だがこういうとき用のストーリーはあらかじめ用意してある。それが役に立つことはあまりないのだが。
「何でもいいけどよ、逃がして泣きべそかくんじゃねえぞ」
巌がそう言うと同時に、ケエエエッ!パスタが吠えた。
「おい、何か怒ってるぞ」
「おまえが怒らせたんだろうが」
「俺は何もしてねえだろう」
まったく、自覚のない馬鹿ほど始末の悪いものはない。
「この子は人間の話す言葉が理解できるんだよ。おまえよりは利口だ」
「ホントかねえ」
ケエエエッ!首をかしげる巌に、再びパスタが吠えかかった。
「あんた、完全に嫌われたわね」
滝緒は嬉しそうに笑った。
「結構結構。別に困りゃしないからな」
巌は手をひらひらと振ると、前を向いた。外はほんのり明るくなり、フロントガラス一面に山脈が映えている。まだ紅葉するには時期が早い。連なる山々は一面青々としているだろう。その山に向かって、道路はまっすぐに進んで行く。天気は快晴、紫外線より怖いものが出てくる気配はなかった。
タクシーが停車したのは、温泉街の入り口手前のバスロータリーの端。支払いは巌がカードで済ませてくれた。ちょっと不本意だったが、まあここに来ること自体が不本意だったのだし、素直に甘えておくことにした。というか、昔から何かにつけ、巌が支払ってくれることは多かった。巌の実家は金持ちなのだ。「金の切れ目が縁の切れ目よ」滝緒はよくそう言ってたっけ。
「そう言えばさ」温泉街に向かって歩きながら、僕は滝緒に尋ねた。「何で今日は紫外線低減スーツ着てないの」
滝緒は切れ長の目を大きく見開くと、びっくりしたような顔で僕を見た。
「だってあれは公務用だもの。私用は厳禁なのよ」
「で、その公務は今日はどうしたんだよ」
巌が番傘を振ると、傘は一瞬で開いた、
「休みを取ったに決まってるでしょう。有休いっぱい残ってるんだから」
まるで自慢するかのように、滝緒は胸を張った。
「昨日の今日で有休なんて取れるのかよ」
巌は番傘をさすと、何故か一回くるりと回した。
「私は取れるの。人徳ってやつね」
「マジかよ。いい加減な職場だなおい」
その瞬間、滝緒の渾身の蹴りが巌の尻を襲った。
「い、痛えじゃねえか、てめえ!」
「他人の職場を侮辱した罰です」
そして滝緒は先頭を切って温泉街の入り口のアーチを潜った。
バイオカラスが電柱の上で鳴いている。温泉街に人の気配はなかった。それはそうだろう、時刻はまだ7時前だった。
「さて、来たは良いが、ここからどうするよ」
巌は僕を振り返った。
「コンビニを探しましょう。コンビニなら人は居るし、変な旅館のうわさとか店員が知ってるかもしれない」
そう言った滝緒に、しかし巌が鼻を鳴らした。
「おめえ、コンビニの店員を情報屋か何かと勘違いしてんじゃねえの。そんなの知ってる訳ねえだろ。刑事ドラマの観すぎだ」
滝緒のこめかみのあたりに、ピキッと血管が浮き出た。
「じゃ、どうすんのよ!」
「だからどうするんだ、って俺が聞いただろうがよ!」
「とにかく、街を抜けよう」
僕の言葉に、滝緒と巌はきょとんとした顔を向けた。
「昨日大峰さんの話したことが本当なら、旅館は温泉街から離れた山の中にあるはずだ。ここに居ても仕方ないよ」
「……そ、そうよね。そうよ、私もそう思う」
滝緒は同意してくれた。巌はどうだろうか。
「きったねえな、おめえ」
「じゃ、あんた1人で行動すればいいでしょ。私は菊弥と行くから」
「わーったよ、ハイハイわかりました。行くよ。行けばいいんだろ」そしてジロリと僕をにらんだ。「おめえは度胸もねえくせに、変なとこだけ冷静だな」
「こないだは巌の方が冷静だったじゃないか」
「え、何、こないだって」
割り込んできた滝緒のヘルメットを軽く叩くと、巌は歩き出した。
「何でもねーよ。ほら、行くぞ」
道を挟んで両側にはコンクリート製のビジネスホテルのような四角い建物が並んでいる。温泉街とは言っても、景観重視で建築制限があったり、古風な日本建築が並んでいるというわけではないらしい。人の気配はない。しかしそれは、人間が存在しないことを意味している訳ではない。建物の外に出てくる人が居ないだけで、建物の中にはたくさんの人が居るに違いないのだ。建物のあちらこちらにある窓から湧き出す湯気が、それを物語っていた。そんなにぎやかな静寂の中を僕ら3人は、いや、3人と1羽は、歩いて行った。温泉街の道は脇に入る路地は多いものの、通りはまっすぐに街を横切り、15分ほどで街の反対側に到着した。反対側にもバスロータリーがあり、そしてその脇に、コンビニがあった。
「コンビニ、コンビニ」
滝緒が指をさす。
「ったく、わかんねえ奴だな」
巌は腹立たしげに滝緒を睨みつけた。
「山の頂上に向かう道なら、コンビニの人も知ってるんじゃないかな」
僕の口から出た言葉に、巌は眉を寄せ、不満を表したが、滝緒は大きくうなずいた。
「そう、それ。きっと知ってる」
言うが早いか、笑顔でコンビニに向かって駆け出した。巌はやや呆れ顔だ。
「おめえはよう」
「いいじゃないか。とりあえず飲み物でも調達して行こう」
滝緒はコンビニのドアの前で僕らを待っている。
「菊弥、早く」
そう僕を呼ぶと、コンビニの中に入って行った。巌がムッとした。
「あの野郎、人を無視しやがって」
「野郎はおかしいだろう。女の子だぞ」
「いいんだよ、細けえなあ、おめえは」
よほど頭に来たのだろうか、巌は速足でコンビニに向かった。その足がコンビニのドアの前に達したとき、僕は呼び掛ける声に立ち止まった。
「菊弥さん」
キャリーケージの中から聞こえるのは、いつもより低い声。僕はキャリーケージを持ち上げて、中を覗き込んだ。
「ごめん、やっとしゃべれたね。大丈夫?怒ってないかな」
「怒ってます」ヨウムのパスタは即答した。「あの2人は非常に不愉快です。特に男の方。でもそれは置いておきます。菊弥さん、今から山の頂上に向かいましょう」
「え」
巌もコンビニの店内に入ってしまった。今、僕とパスタはコンビニの駐車場で2人きりだった。
「道ならば我々が既に調べてあります。案内します」
「でも2人が」
「残して行きます。足手まといが増えても我々の負担が増加するだけで利がありません。それに」
「それに?」
「……差し出がましいようですが、あの五十雀巌という人物、彼との付き合いはやめるべきです」
「君もたきおんみたいなことを言うんだね。て言うか、別に好きで付き合ってる訳じゃないんだけどな。腐れ縁と言うか」
「呪禁道士、彼は自らをそう呼んでいますね」
呼んでいた。確かに巌は己のことを呪禁道士と呼んでいた。
「それがどうかしたの」
「呪禁道士という言葉は、存在しません」パスタの声が、静かに響いた。「呪禁という言葉は存在します。正しくは呪禁と書いて『じゅごん』と読みますが、それは道教に由来する、いわゆる魔法的な力と言われています。そして呪禁を行う者を呼ぶ呪禁師という言葉も存在します。しかし、呪禁を『道』として昇華させた呪禁道などというものは、存在していません。道には古来学問の分類という意味と、哲学という意味がありますが、どちらの意味でも呪禁道などというものは、どこにも存在していないのです。だから呪禁道を行う呪禁道士という言葉も、この世には存在していません」
一瞬、僕は言葉に詰まった。それはつまり。
「つまり、巌は僕に嘘をついている、ってこと」
「嘘をついている、という表現が的確であるかどうかはわかりません。騙すつもりはないのかもしれません。しかし彼は現代のこの惑星、この国の社会において、正体を隠さなければならない存在、すなわちアウトローであることは間違いないでしょう。親しい友人とするのは、お勧めできません」
パスタは言い切った。それが僕を思いやっての言葉だということは、痛いほど感じた。しかし。僕は言葉を探した。何とか言い返そうとしていた。
「いや、しかしなあ」
そんな言葉しか出て来なかったけれど。思えば巌と出会ったのは小学校に上がる前、それから20年近くずっと顔を合わせてきた。けれど巌の何を知っている、と言われたら、確かに、僕は何も知らない。
「あの2人はここに残して行きます。心配しなくても、タクシーを呼べば家には戻れますよ」
いやそれはわかってる、さすがにそんな心配はしていない、僕がパスタにそう言おうとした、そのときである。
「菊弥というのか」
どこか馬鹿にしたような声が、下から聞こえた。駐車場の真ん中に、子供が一人しゃがみこんでいる。オーバーオールを着た、5、6歳の、もじゃもじゃ頭にニューヨークヤンキースのキャップをかぶった、男の子とも女の子ともつかない、ムク犬のような子供が地面を覗き込んでいた。視線を追うと、アリの群れが、キリギリスの死体に群がっている。
「なあ菊弥」子供は言った。「何をしにきた」
「下がって!」パスタの声が鋭く響く。「この子、人間じゃありません」
背中にザワリと毛が逆立つ感覚。人間じゃない。では、何だ。
「いかにも、わしは人間ではない。だがおぬしらにとって、それがそんなに重要なことかの」
その言葉は暗にこう言っている。知っているぞ、と。
「君は、誰なんだ」
口にしてから、間違ったか、と思った。何者なんだ、と問うべきだったろうか。
「誰とな」子供は顔を上げた。長くもじゃもじゃした髪で目は見えない。でも小さな鼻にそばかすが見えた。「誰、か。そうよな。わしの名前はつぐみ、とらかわつぐみ。とらかわのとらは、しゃしんしこのとらだ」
呪文か何かか。何を言っているのかさっぱりわからない。特に『しゃしんしこ』って何。四字熟語っぽいが、漢字がさっぱり当てはまらない。そしてさらに困ったことに、名前を聞いてもなお男の子か女の子かがはっきりしない。つぐみちゃん、と呼ぶべきか、つぐみ君、と呼ぶべきか。仕方ない。
「君の目的は何」
そう言うしかなかった。しかし、つぐみは首を傾げた。
「目的があるのはおまえたちの方であろ。なあ菊弥、何をしにきた」
言われてみればその通り。
「あ、えっと」
「摩訶不思議な湯宿の噂を聞いてやってきたのであろうが、いったい何を知りたい。その湯宿は何か悪いことでもしたのか」
「いや、別にそういう訳ではないけれど」
僕に聞かれても困る。そもそも僕はここに来たくなどなかったのに、なんやかんやと成り行きで、来ざるを得なくなったのだから。
「まあ強いて言うなら」僕は不承不承こたえた。「その温泉宿が、何らかの犯罪に関わっているかもしれない、みたいな感じで」
「ほう、確信もなしに罪を探りに来たのか。まるで木っ端役人の発想だな」
「なんですって!」キャリーケージの中でパスタが叫んだ。「子供だと思っていたらいい気になって、もう一度言ってみなさい」
「ああ、ちょっと、パスタ、待って」
「なに落ち着いてるんですか!菊弥さんが言われてるんですよ」
「うん、いや確かにそうなんだけども」
確かに、僕がそこまで言われなければならない筋合いはない。ないのだが、ここでパスタに怒られても、話がややこしくなるだけである。だがそんな僕たちの様子を見て、つぐみは突然大笑いをした。そしてこう言った。
「感心感心。短気は損気。その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを、聖者たちは称賛する」
「……へ?」
なに言ってんだこいつ。僕がその思いを顔に出しかけたとき。
「なあ菊弥」つぐみはコンビニを指さした。「友達を助けなくていいのか」
その言葉に、僕はコンビニを見た。ガラスを通して店内が見える。胸が騒いだ。何もおかしな所はない。店の中に巌と滝緒がいないこと以外は。
足が勝手に動いた。僕はコンビニに向かって駆け出していた。
「ノート城の岩があるぞ」
背後から聞こえたその声に一瞬僕は振り返ったが、つぐみの姿はどこにもなかった。
コンビニのガラス扉は自動ドアではなかった。僕は迷わず取っ手に手をかけた。
「待って、菊弥さん。ストップ!ストップ!ストップ!」
パスタの懸命の呼びかけに、ドアを半分引いたところで僕は止まった。
「今度は何!」
思わず声を荒げた僕の頭の中に、声が響いた。
【警報!警報!】
それはモモイロインコのミヨシの声。
【気をつけなさい。そのコンビニの中、空間が湾曲してるわよ】
僕は半分開いたドアからコンビニの店内を覗き込んだ。普通のコンビニだ。おでんの出汁の匂いが漂ってくる。
「空間が湾曲してるって、どういうこと」
【そのコンビニに入ったが最後、別のどこかへ飛ばされるってことよ】
「どこに飛ばされるの」
【行ってみないとわかんないわねえ】
「宇宙空間とかブラックホールとか」
【それはさすがにないわ。気圧も重力も変化してないんだから、つながってる空間も同じような気圧で同じような重力がある場所よ】
「だったら、行っても大丈夫じゃないの」
【安全かどうかの保障はできないわよ】
「バックアップしてくれるんだよね」
【それはするけどさあ】
「じゃ、行く」
僕はドアを引き開けて、店内へと一歩踏み入れた。世界は暗転した。
まるでスイッチが切れたかのように真っ暗になったので、自分が気を失ったのではないかと思ったが、意識はしっかりしていた。僕は暗闇の中で立っていた。左手にはキャリーケージの重みがある。
「パスタ、大丈夫?」
「私は大丈夫です。菊弥さんは異常ありませんか」
その声にホッと胸をなでおろす。
「異常なし、だと思うよ。こうも暗いとよくわからないけど」
と、僕の目の前にまばゆい光が現れた。ビー玉ほどの大きさで、強すぎない光で周囲を照らしている。パスタが言った。
「プラズマで火球を作りました。ペンライト代わりにはなるでしょう」
「爆発したりしないの」
「可燃性ガスの反応はありません。酸素濃度の変化も誤差の範囲内ですし、ご心配にはおよびません」
「それならいいけど」
僕は改めて、周囲を見回した。火球の光が空間を照らす。どこかの通路らしい。床は磨かれたように光を反射し、天井は低く、左右の壁の幅は狭い。閉所恐怖症なら絶叫していたところだ。
僕は頭の中に意識を集めた。
(つながってるのかな)
【つながってるわよ】
頭の中にミヨシの声が響く。
「よかった。僕らは今どこにいるの」
【何の中にいるのかっていう意味ならまだ不明。座標的な意味なら、さっきの温泉街のすぐ近くよ。空間がほぼ閉じているから正確な座標出すにはちょっと時間かかるけど】
僕は暗闇の中を歩き始めた。火球は僕の50センチほど前をふわふわと漂っている。
「座標だけじゃどうしようもないよ。巌とたきおんがどこにいるかわからないと」
【あら、座標は大事よ。座標がわからないとバックアップもできないんだから】
「そりゃそうなんだろうけどさ」
僕は左手にパスタの入ったキャリーケージを持ち、右手で壁に触れながら前に進んだ。だが進めども進めども、景色は一向に変わらない。小さなプラズマ火球が照らし出す、直径数メートルの空間だけが僕の認識できる世界。まるで深海に沈む巨大な船の中に閉じ込められているかのような感覚になってくる。
【長居は精神的に良くない場所ね】
「僕だって長居はしたくないよ」
「菊弥さん、あれ!」
パスタの声に、僕は前方に注意を向けた。光だ。闇の中に光が差し込んでいる。僕は駆けた。足がもつれそうになったが、気にせず走った。
光は、壁の穴から差し込んでいた。左の壁に長方形の穴が開いている。高さは僕の胸あたり。僕は腰をかがめて穴を覗き込んだ。
白くもうもうとしたものが立ち込めている。煙か、と一瞬思ったが、その間違いにはすぐに気づいた。湯気だ。その湯気の中、目を凝らすと左下方向に四角い縁が並んでいるのが見えた。浴槽、そう思った瞬間、大峰さんの言葉が脳裏をかすめた。白萩原さんが泊まったという旅館の大浴場、それがここではないのか。
と、湯気の中に影が浮かんだ。その影は人の形をなし、こちらへと近づいてくる。やがて壁の穴から2メートルくらいの距離にまで近づいたとき、突如その影の正体が見えた。白い肌、豊かな胸、くびれた腰、すらりと伸びた脚、タオルで前を隠してはいるが、一糸まとわぬ滝緒の裸体だった。
僕は愕然とした。目を閉じれば良かったのだろうけど、顔面に血が上ってくるのに比例するように、眼球を動かす筋肉は、硬く固まって行く。滝緒の裸体から目が離れなかった。
「菊弥さん、何が見えるんですか。菊弥さん!」
パスタの声が僕を正気に戻した。僕は腹に力を込め、四角い穴に口を当てた。
「たきおん!僕だ!菊弥だ!」
そして再び穴を覗き込む。しかし、滝緒は僕の声になど気づかぬように、浴槽に書かれた銘板を読んでいた。僕はまた穴に口を当てた。
「たきおん!ここだ!聞こえないのか、たきおん!」
「やかましいね」
その声は、通路の奥から響いてきた。ぺたりぺたりという草履の足音、闇の中からプラズマ火球の光の中に姿を現したのは、僕の胸くらいの背丈の、白髪頭をひっつめ髪にした、鼻の大きな和服姿の老婆。
「女湯のぞくんなら、静かにのぞきな。騒ぎながらのぞくような変態は、あたしが叩き出すよ」
この老婆だ。僕は直観した。白萩原さんを宿に導いた、きっとあの老婆であるに違いない。
「これは人間です」
パスタの冷静な声が響く。
「ほう、賢そうな鳥を連れてるじゃないか」老婆はにんまりと笑った。「焼き鳥もおつなもんだ」
僕はパスタのキャリーケージを背後に隠した。
「僕の友達をどうするつもりですか」
「この娘のことかい。だったら心配はいらないよ。病気を治したらすぐに温泉街まで運んでやるさ」
白萩原さんにしたように、ということか。
「巌は、もう一人男がいたはずです、あいつはどうなったんですか」
「ああ、あれはダメだ」
「ダメ?」
「ダメだね。ああ言えばこう言う。疑り深くて屁理屈ばかりこねる。そして無駄に肝が太い。ああいうのは世の中に置いといても回りを不幸にするだけだ。だからあたしが処分しておいてやるよ」
「処分、て」
「おまえはアレよりまともみたいだし、3人の中じゃ一番弱そうだしね、見逃してあげよう。そのかわり、ここの事は一生黙っておいで。ここを探ろうなんて二度と思わないことだ」
「なぜそれを知っている」
「あたしたちは何でもお見通しさ。何でもね」
「つまり」僕は言った。「仲間がいるんだな」
その一言で、老婆の顔に張り付いていた笑顔は消えた。
「何だいこの子は。可愛い顔して嫌な性格してるね。人の厚意を無にする気かい」
「何でもお見通しじゃなかったのかな」
「やれやれ、やっぱり類は友を呼ぶのかねえ。仕方ない」老婆の眼が、暗闇に輝いた。「おまえから消えな」
老婆は口をすぼめた。そのとき、僕の右手が勝手に前に突き出る。輝く赤い光。いや、炎だ。老婆は口から炎を吐き出した。それは長い帯となって宙を飛んだ。しかし、僕の右手に触れる寸前、空中に四散した。
【座標確認。重力制御フィールド展開】
頭の中にミヨシの声が響く。
「ギリギリじゃないか!」
【あら、これでも急いだのよ。ほらね、座標って大事でしょ】
「それは後でいいから!」
炎は僕の右手から発せられる重力制御フィールドによってさえぎられている。だが四散した炎が天井や壁を焼いていた。通路内の温度は急激に上がって行く。じきに耐えられない温度になるのは目に見えていた。
「これからどうすればいい」
【どうしたいの】
「武器とかないと、どうしようもないよ」
【武器ならそこにあるじゃない】
「どこに」
【ほら、その小さな丸いの】
プラズマ火球のことか。確かにプラズマ火球は炎に包まれながらも、なお明るい光をたもち、重力制御フィールドの向こう側に浮き続けている。
「こんなの、どうすんの」
【実体のないプラズマでも、その空間ごと超音速で飛ばせば、それなりの破壊力にはなるわ】
「飛ばすって、どうやって」
【念じなさい。コントロールを坊やの脳に切り替えるから】
それだけかよ、念じるってどうやるんだ、そう言いたかったがそんな時間はない。もう息を吸うだけでのどが痛い。これ以上は耐えられない。僕は集中した。炎を吐き出す老婆の真ん中、胸の辺りに意識を集めた。
「飛べ!」
パン、小さく乾いた音。命じた僕の言葉にしたがって、プラズマ火球は一直線に空を裂いた。炎が上下水平に分かれる。そして火球は、老婆の胸を貫いた。その直後、老婆の胸の穴から炎が漏れ出し、その上半身を焼いた。
「おやおや、炎袋を破ったようだね。これじゃあ、もうしばらく炎は吹けない」
上半身を炎に包まれながら、老婆は平然とそう言った。
「もしかして、人間じゃないのか」
「そんなはずはありません」
僕の言葉にパスタは反論した。
「だけど、こんな人間なんて」
こんな人間なんて、いるはずがない。
「それが、いるんだよ」
老婆は呵々と笑った。次の瞬間、炎がすべて消えうせた。そして僕をにらみつける。
「一思いに殺してやろうと思ったが、やめた。おまえには死ぬより辛い罰を与えてやろう」
そう言うと、老婆は右手で壁に触れた。すると壁が自動ドアのように動き、滝緒のいる大浴場への道を開いた。
「そこで自分の友達が絞め殺されるのを、指をくわえて見ておいで」
老婆は大浴場に走り込んだ。僕も後を追おうとしたが、壁は素早く閉じてしまった。叩いても、押しても引いても壁はぴくりとも動かない。
「早く開けて!」
【ちょっと待って。何かの認証が必要なのだと思うけど】
僕は右手を壁に当てた。焦ってはいるが、壁が開かないのではどうしようもない。ミヨシの返答を待つ。しかし。
【んんん?】
「どうしたの」
【認証システムが】
「システムが」
【見つからない】
「どういうことだよ!」
【わかんないわよ、調べた限りではその壁には開閉システムなんて組み込まれてない、ただの岩石なの】
そのとき、キャリーケージの中のパスタが「あっ!」と声を上げた。
「今度は何」
のぞき込んだ僕に向かってパスタは叫んだ。
「ノート城の岩!」
「何それ」
「いいから、壁をもう一度横に引いてみてください」
「いや、だから引いても動かな」
「ただし、力を込めないで引いてください。そっと、優しく、蜘蛛の糸を静かに持ち上げるように」
意味がわからない。しかし、いまは考えている時間も惜しい。僕は言われた通りそっと壁に触れ、その手を横にスライドさせた。なるべく力を込めないように。鳥の羽根が落ちるように静かに。岩の壁は音もなく開いた。
滝緒の悲鳴が空間を切り裂く。僕は大浴場に走り込んだ。滝緒の髪をつかんで浴槽から引きずり出そうとしていた老婆は、走り寄る僕を見て信じられないという顔をした。
「重力制御フィールド展開!」僕は両手でキャリーケージのハンドルを握った。フィールドがキャリーケージを包む。「パスタ、ごめん!」
うなりを上げてキャリーケージが走る。右斜め下から左上へと。プラスチック製のキャリーケージはこの瞬間、鋼鉄以上の硬さを持って、老婆の顔側面へと襲い掛かった。手に伝わる衝撃。骨を砕く鈍い音。宙を舞う老婆の身体。だが。老婆の身体は落ちてこなかった。宙に浮いたまま、しばし気を失ったかのように漂った後、ふいに身体を起こした。
「やるじゃないか、小僧」
不敵に微笑む老婆は、ほとんどダメージを受けていないように見えた。
「世間知らずのガキが迂闊にも我らの計画に鼻先を突っ込んできたかと思っていたら、まさかこれほどまでに強い能力を持ったやつだったとはね、誤算だったよ」
誤算はそれだけじゃないぞ。僕は心の中でそうつぶやいた。僕の使っている力は能力じゃない。僕は謎の宇宙人の謎のシステムが作り出す謎の力場を解放するための、いわばアウトプット端末でしかないのだ。しかしそれは老婆には聞こえない。老婆はひとり納得したような顔をすると、小さくうなずいた。
「まあいいだろう。ここも役目は果たした」
役目。何の役目だ。
「おまえとここで殺し合ってもいいんだがね、あたしにはまだ仕事が残ってる。決着をつけるのはまた今度にしよう」
老婆は左右の手を突き出した。
「まあせいぜい死なないことだね」
そう言うと両手を合わせて打ち鳴らした。その音が大浴場にこだました瞬間、老婆の姿は消えた。
【空間転移確認】
ミヨシの声は驚いた様子もなかった。
「座標は追えてるの」
【ダメね。細かい転移を繰り返してる。随分と用心深いこと】
「そう」僕はキャリーケージの中をのぞき込んだ。「パスタは大丈夫?」
パスタは中で目を回していた。
「あーんまり大丈夫じゃありませーん」
「そ、そうみたいだね、ごめん」
でも何とか無事みたいだ。さて、問題はこれからだ。背中に痛いほどの視線を感じる。いったいどうしたものか。
「菊弥」滝緒の声は震えていた。「今のお婆さん、何だったの」
「いや、それは僕に聞かれても」
僕は背を向けたまま答えた。さすがに後ろは振り返れない。
「本当にわからないの」
「わからないよ。それより服を取って来ないと」
僕が一歩踏み出したとたん、滝緒は浴槽を飛びだし、僕の背中にしがみついた。
「ちょ、な、な、何を」
「一人にしないで!怖いんだから!」
そのとき。滝緒の声がきっかけとなったのだろうか、地鳴りのような音が低く響いた。同時にミヨシの声が聞こえる。
【崩れるわよ、気をつけて!】
「え、ええっ?」
訳も分からず、僕は思わず振り返り、滝緒を押し倒すと、その上に覆いかぶさった。滝緒の身を守らねば、それしか頭にはなかった。その僕の頭上に落ちてくる気配が。
ふぁさっ。
壁が崩れたはずだった。天井が落ちてきたはずだった。しかし僕の背中と後頭部につもったそれは、かさかさと軽い音を立てながら、はらはらと静かに落ちてきた。大量の枯れ葉。そこには大浴場はなかった。浴槽も銘板もなかった。木々の立ち並ぶ雑木林の一角で、僕と滝緒は木の葉に埋まっていた。呆然とする僕の顔に、下から伸びてきた指が触れた。
「ねえ、菊弥」
「あ」僕は飛び起きた。文字通り言葉通り、空に飛び上がる勢いで起きた。「ああっ!いや、待って、あの、これはその」
「触ったわよね」
「違う、触って、なくはないけど、そう、不可抗力で、だから」
滝緒はタオルで前を隠しながら、上半身を起こした。
「いいわよ、怒ったりしないから」
「あ、ああ、うん」
「菊弥のこと信じてるから」
「うん、ありがとう」
「責任取ってくれるもんね」
「うん……え?」
「今うんって言ったよね」
「え、何が、え」
「よっしゃあ!」
滝緒はガッツポーズをとると立ち上がり、鼻歌交じりにうろうろし始めた。どうやら服を探しているようだ。
「責任、責任~♪」
「いやいや、ねえ、たきおん」
困惑する僕を尻目に、滝緒は足先で落ち葉をかき分けた。
「何が起こったかはわからないけど、それは後でいいや。今はとにかく家に戻りましょう。いろいろ決めなきゃいけないし」
「え、決めるって何を」
「まずは式場ね……あれ?」
滝緒は何かを見つけたようだ。数秒考えた。そして、突然かかとで踏みつぶした。
「うがあああっ!」
何かが叫びながら落ち葉を噴き上げ立ち上がった。それは。股間を抑える全裸の巌だった。
「何しやがんだこのクソアマぁっ!」
だがその顔面に、滝緒の拳がめり込んだ。
「おまえは見るな」
「り、理不尽な……」
倒れ込む巌、服を探す滝緒、そして僕はパスタのキャリーケージを拾い上げた。
「ねえ、責任って何だろ」
「知りません」
パスタはぷいと横を向いてしまった。
神聖ローマ帝国の時代、今のフランスからスイスにかけての地方にアルル王国と呼ばれる国がありました。そのアルル王国のアンブラン大司教管区にノートと呼ばれる城があったとされ、その城の中に、大きな岩があったと伝えられています。この岩は不思議な岩で、全身で力を込めて押してもまったく動かないのに、小指の先で軽く押すと動いたと言われています。あ、誰かお店に来たみたいですね。いいですいいです、私の話は以上で終わりですので、どうぞお店の方に。
「あのとき私は、コンビニに入ったつもりが気がついたら脱衣場に居て、あ、ここが話に聞いた大浴場なんじゃないか、ってピンときたのよ。そしたら脱衣かごの中にタオルとせっけんが置いてあって、ああ、これでお風呂に入れるな、って思ったら無性に入りたくなっちゃって。で、まあいいや、って入っちゃったの。銘板にはいろいろ書いてあったわよ。肩こり、腰痛、リウマチ、インフルエンザもあったわ。そう、それで、ガンに効く湯も本当にあったの」
「それで、たきおんは何の湯に入ってたの」
僕の言葉に、滝緒は恥ずかしそうに雑誌で顔を隠した。より正確に言うなら、結婚情報誌を広げて顔を隠したのだ。
「……便秘に効く湯」
「あー」
「あーじゃない、本当に大変なんだからね」
真っ赤な顔をした滝緒を面白そうに見つめながら、巌は鼻を鳴らした。
「んで、出たのかよウン」
その顔面に突き立つ分厚い結婚情報誌。小鳥ホテルの玄関ホールに大の字で横たわる巌は、今日も黒ずくめの格好をしている。あの大浴場での戦いから一夜明けたその日の夕方、僕らは再び集まっていた。
「紙って硬えな」
「至近距離だしね」
巌は体を起こすと滝緒をにらみつけた。しかし滝緒はどこ吹く風。
「巌もあのお婆さんに会ったんだよね」
ああ言えばこう言う。疑り深くて屁理屈ばかりこねる。そして無駄に肝が太い。老婆はそんなことを言っていたっけ。
「会ったつっても、ちょっと世間話しただけだぞ」
ちょっと世間話をしただけであの評価なのか。まあ、わからないでもないが。
「役目は果たした。確かにそう言ってたんだ。役目って何だろう」
「さあな。婆さん俺との会話じゃ、んなこと言ってなかったからな」
「今日、観光課の同期に聞いたんだけどね」滝緒は結婚情報誌を拾った。「どうやらあの温泉宿の噂、あちこちに広がってるらしいのよ。ときどき問い合わせが来るんだって。テレビ局からも取材したいって話があったらしいんだけど、市役所じゃ把握してないからって断ったって」
しかし巌は不満顔だ。
「何だよ、宣伝ってか?温泉街が村おこしでタヌキでも雇ったってのか。馬鹿馬鹿しい」
「温泉街なんだから街おこしじゃないのか」
「おめえは細けえんだよ。そこ食いつくとこじゃねえだろ」
「タヌキに食いつけと?」
「木の葉で人をだますって言やあ、昔からタヌキって相場が決まってるだろうがよ」
今度は滝緒が首を傾げた。
「うーん、タヌキってイメージじゃないよね。どっちかっていうと魔女かな」
僕は虚を突かれた。その僕の顔に、滝緒は目を丸くした。
「何よ。何か変なこと言った?」
「いや、その逆」
何で今まで気がつかなかったんだろう。確かにあの老婆は帽子をかぶっていなかった。ローブも着てはいなかったし、ホウキにも乗っていなかった。だが魔女だ。あれは森の魔女だったんだ。何かがストンと胸に落ちた。妖精がいるのなら、森の魔女がいて何の不思議があるだろう。そして妖精がいて魔女がいるなら。あれは何だ。
「なあ巌」僕は尋ねた。「しゃしんしこって知ってるか」
「何だ藪から棒に」
「いや、お前なら知ってるかと思ってさ。どんな字書くんだ」
「捨てる身で飼う虎って書いて捨身飼虎だ。仏教の説話にある話でな、釈迦が釈迦として生まれる前、前世である国の太子として生きていた時に飢えた虎の親子に会った。子は七頭もいるのに食うものがない。それを見て哀れに思った太子は自分の身を崖から落とし、虎に食わせたってくだらねえ話だ」
「いや、くだらなくはないだろ」
「おめえにとっちゃそうなんだろうが、俺にとっちゃくだらねえんだよ」
まさにああ言えばこう言うである。
「で、捨身飼虎がどうした」
僕はコンビニの駐車場での話をした。とらかわつぐみ。虎河なのか虎皮なのか。もちろんパスタのことはごまかしながら。
「捨身飼虎の虎ねえ」巌は苦笑いを浮かべた。「人間かどうかは知らねえが、嫌なガキなのは間違いねえな」
おまえには言われたくないんじゃないか、と言いたいのを僕はぐっとこらえた。
「でも私たちがあそこに行った理由も目的もわかっていたとなると、もしかしたら今この瞬間も……」
滝緒は天井を見上げた。僕と巌も上を見た。セキュリティを見直してもらわなきゃな。僕はぼんやりとそんなことを考えていた。
「ふう、暑い」
「なんだ、たきおんか」
「その呼び方やめて。いいかげん恥ずかしい」
そう言うとたきおんは、いや、吉備滝緒は口を尖らせた。切れ長の目が見つめている。なるほど、もう20代も半ばの大人の女である。『たきおん』は恥ずかしいかもしれない。しかし、口を尖らせてにらむ様子は、子供のころからまるで変わっていない。
「で、市役所の人が何か用なの」
「別に用はないわよ。ちょっと出先から帰る途中で前を通ったから、その、元気かな、って思っただけで」
そう、世の中の大半の仕事が労働開始時間を夕方以降にシフトした現在にあっても、市役所は朝8時から夕方5時までの勤務なのだ。頑固というか融通がきかないというか。だが結果的には多くの利用者が仕事前に用事を済ませる事ができるようになって、市民からは好評だという。滝緒はそんな市役所の市民生活課の職員である。
「僕は元気だよ。いろいろと相変わらずだけどね」
風除室のドアを開いて玄関ホールに滝緒を招き入れた。空調の効いたホールは空気がひんやりとしている。滝緒は後ろにまとめた髪をほどくと、またひとつ息をついた。そして目を閉じ、耳を澄ます。
「まだ鳥たくさん飼ってるんだね」
「うん、まあね」
「預かってるのもいるの」
「今は文鳥が1羽だけ」
「やっぱり儲かってないんだね」
「そういうのも含めて相変わらずだよ」
僕の笑う顔を見て、滝緒もつられたように笑った。そのとき。風除室の扉が勢いよく開かれた。
「いやー悪いな、邪魔をするぞ」満面の笑みを浮かべた五十雀巌が立っていた。だがその笑顔が一瞬で曇る。「……なんだ、たきおんかよ」
「たきおん言うな!」
滝緒は怒鳴ると、僕をにらみつけた。
「あんた、まだこんなのと付き合ってるの」
「いや、それを僕に言われても」
「あーあ、菊弥が珍しく女連れ込んでると思ったから邪魔してやろうかと思ったら、よりにもよって、たきおんとは」
巌は頭を振って嘆いて見せた。
「いや、おまえそれは性格悪すぎるだろ」
けれど僕の言葉など、誰も聞いていない。
「巌、あんたまさか菊弥に変なこと教えたりしてないでしょうね」
「変なことって何だよ。俺がそんなヒマそうに見えるのかね」
「見える」
「あーあ、可哀想に。人を見る目が無い奴だ」
滝緒は僕に振り返った。
「菊弥、こいつ今何してるの」
「へっぽこ陰陽師」
「呪禁道士だ」
巌は言い直したが、もちろん滝緒の耳には入らない。
「まだそんな事してんの。いい加減働きなさいよ」
「働いてはいる。金にならんだけだ」
「それは働いてるって言いません」
「成果主義なんてのは愚鈍な奴の考えることだぞ」
「あんたみたいなのを賢明って言うんなら愚鈍で結構です」
「うどんみたいな顔しやがって」
「あんかけそばに言われる筋合いはありません」
滝緒は口が立つ。さしもの巌もやりにくそうだ。僕がそう思ったとき、ガラス扉の向こう、駐車場に車が一台入ってくるのが見えた。もちろん、まだ陽が高い。営業開始時間までは随分ある。誰だろう、車には見覚えがあるようなないような。僕は車にあまり興味がない。だから車種の違いなどよくわからないのだ。セダンかミニバンかワンボックスか程度はわかるが、あとは色の違いがせいぜいである。入ってきたのは白い車。駐車場に静かにバックで停まると、ドアが開いた。降りてきたのは。
「あ」
僕が漏らした声に、なぜかこのときだけは巌も滝緒も食いついた。そして僕の視線を追い、駐車場に目を向けた。
白い車から降り立ったのは、サマーセーターにジーンズを履いた、30代半ばの女性。黒い日傘をさした。一瞬遅れて名前を思い出す。白萩原絵里さん。
「誰だ」
と巌。
「お客さん?」
と滝緒。
「うん、いま預かってる文鳥の飼い主さん。だけど」
だけど、なぜこんな時間に。いや、そもそも宿泊予定はあと2泊ある。迎えに来たとしても早すぎる。と思っていると、車の助手席が開いた。そこから降り立ったのは、青いワンピースの少女。見間違いではない。あのアオちゃんの飼い主、大峰さんである。大峰さんも青い日傘をさし、そして二人は玄関に向かってきた。
二人の女性は玄関前で傘を閉じ、扉を開け、風除室に入ると、白萩原さんがそこで僕に向かって深々と一礼をした。僕は風除室の扉を開け招いたが、白萩原さんは入りにくそうにしばらく躊躇した。その背を押したのは、大峰さん。
「このたびはご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ございません」
沈痛な面持ちで詫びの言葉を口にする白萩原さんに、僕ら三人は顔を見合わせた。
「白萩原さん、どういう事でしょう」
自分はいま間抜けな顔してるんだろうなあ、と思いながら、僕は白萩原さんに尋ねた。
「はい、モナカを引き取りに参りました」
モナカとは、預かっているシナモン文鳥の名前である。
「でも、えっと」
「営業時間外なのは承知いたしております」
「それは別にいいんですけど、あと2泊残ってますよね、料金も頂いてますし」
「はい。ですが、矢も楯もたまらず」
随分と古い言い回しをするんだな、と一瞬思ったが、そんな事を突っ込んでいる場合ではない。
「わかりました。じゃモナカちゃん連れてきますね」
滝緒と巌を白萩原さんたちと一緒に残しておくのも気が引けたが、やむを得ない。ときとしてイレギュラーはあるものだ。僕は客室に入った。モナカのケージと、餌の入った紙袋、そしてレジから2泊分の料金3千円を取り出して、玄関ホールに戻った。
白萩原さんの顔に満面の笑みが浮かんだ、と思ったとたん、その両目からは大粒の涙があふれ出てきた。そして僕から奪うようにケージを受け取ると、ケージを抱きしめ、顔を押しつけた。
「ああ、モナカ。ごめんね。ごめんね。本当にごめんなさい」
ケージの中のモナカはきょとんとしている。でも久しぶりに飼い主に会えて嬉しそうだ。
「では、あの、これ3千円の返金です」
紙袋と一緒に差し出した千円札3枚を、大峰さんの手が止めた。そして紙袋だけを受け取ると、
「それは迷惑料として受け取ってくださいとのことです」
そう言って微笑んだ。
「迷惑料って言われましても」
困惑している僕に向かって、白萩原さんはまた深く一礼した。
「本当に、本当にありがとうございました。この御恩は忘れません」
「御恩?」
何のことだ。お金を取って文鳥を預かった、それだけなのに。
「それでは今日のところはお家に戻って安静にされてください」
大峰さんから紙袋を受け取り、白萩原さんは深くうなずくと、ケージを大事そうに抱え、車へと向かった。それを見送る僕と滝緒と巌の顔。大峰さんはまるで楽しいことを話すかのように笑った。
「あの方は、ここに文鳥を捨てに来たのです」
一同の目が大峰さんに集まる。そして再び外へ向く。白い車が駐車場から出て行くのが見えた。
「何で、そんな事を」
責めるような僕の問いに、大峰さんは一度うなずいた。
「末期の胃ガンだったからです。里親を探す余裕すらないほどに」
その言葉に僕は愕然とした。しかし。
「いや、そりゃおかしいだろ」
それは巌。そう、確かにおかしい。
「末期の胃ガンだったから、助からないから、ここに文鳥を捨てに来たっていうのは、まあわからん話じゃない。けどな、だったら何で引き取りに来た。それにさっき見た限りじゃ、とても末期ガン患者には見えなかったぞ。多少やつれちゃいるが、健康そのものって感じだった」
「そうでしょうね」大峰さんは笑う。「だって治ってしまったのですから」
「治った?何が。まさか」
「はい、そのまさかです」
唖然とする巌を、滝緒を、そして僕を見まわしながら、大峰さんは平然と答えた。
「末期の胃ガンが治ってしまいました。彼女の命は救われたのです。だから文鳥を引き取りに来たのです。何もおかしな事ではありません」
「そんな。末期だったんでしょ」
思わず滝緒も口を出す。
「ええ、うちの病院で検査を受けたのですから間違いありません」大峰さんは微笑む。それはどこか神々しささえ感じられる笑顔だった。「うちの病院で検査を受けて末期ガンと診断され、そしてうちの病院で再検査を受けて、ガンが完治したと診断されたのです」
「それ誤診じゃねえのか」
到底受け入れられない、巌の顔はそう言っている。
「おっしゃりたい事はわかります。けれど、誤診ではありませんよ。そうですね、丁度いいですから、詳しい事をお話ししましょう」
いったい何が丁度いいのだろう。大峰さんの言葉に少し引っかかったが、話の続きを聞いた僕は、すぐにそんな事など忘れてしまった。
白萩原絵里さんは、ある会社でプロダクトマネージャーをしています。入社して十年以上頑張って、ようやく就いた責任者の立場です。思い入れもひとしおでした。ですから、多少の体調不良などでは休めませんでした。彼女には身寄りがありません。文鳥のモナカはただ一人の家族でした。日々ストレスと闘いながら、モナカと過ごす時間だけが、彼女にとって安らげる瞬間でした。そんな生活が数年続き、あるときみぞおちの辺りに違和感があるのに気づきました。なのに彼女は病院には行きませんでした。仕事を休めと言われることを恐れたのです。やがて違和感は痛みへと変わりました。それでも彼女は病院へは行きません。どうせ原因はストレスだろう、ストレスならモナカと遊べば消えてなくなる。そう思っていたのです。しかしある日、仕事中に彼女は吐血し、うちの病院へと運ばれてきました。しかし、そのときにはもう手遅れでした。胃に張り付いたガンは巨大になり、あちこちに転移していました。手の施しようがありません。そう医師から告げられたとき、彼女が最初に考えたのが、モナカの行く末です。そしてあちらこちらを調べ、たどり着いたのが、この『小鳥ホテル 頂』でした。モナカをここに託そう、彼女はそう決め、普通の客を装い、モナカをここに預けました。これでもう思い残すことはない、そう思った彼女はそのまま、車で山へと向かいました。ご存知かと思いますが、この辺りの山には小さな温泉街があり、かつては修験道の修行場がありました。切り立った断崖もあります。残されたわずかな時間を痛みと苦しみに埋め尽くされるくらいなら、いっそひと思いに。白萩原さんはそう考えていました。けれどそう簡単には行きませんでした。道に迷ってしまったのです。普通ならあり得ないことです。なぜなら温泉街へは、まっすぐ一本道なのですから。でも彼女は迷ってしまいました。そして何時間も山の中を走り回った挙句、ようやく一軒の古びた旅館の前にたどり着きました。旅館の前には老婆が立っていたといいます。「泊まっていかんかね。良い温泉があるよ」老婆のその言葉に誘われるように、彼女はその旅館に入って行きました。通された部屋は6畳ほどの、何の変哲もない部屋だったそうです。「温泉に入っておいで。食事の支度をしておくからね」老婆にそう言われ、彼女は大浴場に向かいました。そして驚きました。大浴場の広いこと広いこと。充満する湯気のせいもあるとはいえ、入り口から向こうの端が見えないほどに広いのです。その広い浴場に、幾つもの小さな浴槽が並んでいました。よく見ると、その浴槽には一つずつ、別々の効能書きがありました。つまり、「リウマチに効く湯」「風邪に効く湯」「腰痛に効く湯」と銘板に書かれているのです。面白いものだな、彼女はそう思い、並ぶ浴槽の銘板を見て行きました。すると、そこにあったのです。「ガンに効く湯」が。彼女は目を疑いました。そしてもう一度銘板を見て、笑ったそうです。温泉に入ってガンが治るなど、あるはずがない。自分がガンで死ぬ最後の旅路の宿で、こんなものに出くわすとは、何の因果だろう。そうは思いましたが、それでもちょっと気になります。まあいい、一度だけ試してみようか。彼女はその浴槽に浸かりました。十分ほど浸かっていたでしょうか。彼女は気づきました。みぞおちの痛みが消えていることに。お風呂からあがって部屋に戻ると、食事の用意がしてありました。食事といっても、焼き魚に豆腐の味噌汁にご飯だけ、質素というか素朴と言うか、とにかくお世辞にも華やかな食事ではありませんでしたが、恐ろしいほどに美味しかったといいます。吐き気もありませんでした。白萩原さんは薬を持ってきていませんでしたが、彼女の身体が痛むことはありませんでした。その夜は久しぶりに熟睡したそうです。そして翌朝目が覚めると、彼女は車の中にいました。そこは温泉街のコインパーキング。彼女の泊まったはずの旅館など、どこにもありませんでした。でも夢や幻ではないはずです。なぜなら彼女の身体からは痛みがすっかり消え去っていたのですから。彼女は帰宅し、うちの病院に再検査を依頼しました。その結果が出たのが昨日。ガンは完治していました。そして彼女は迷った挙句、今日モナカを引き取りに来たのです。
空は夕暮れ。世の人々が動き始める頃、一台の車が『小鳥ホテル 頂』の駐車場に入ってきた。青い大型のセダン。大峰さんの迎えの車である。
「それでは皆様、またいつか」
軽く一礼をすると、青いワンピースは背を向け、玄関から去って行った。残された僕と巌と滝緒の3人は、互いに納得の行かない顔を向け合い、しかし何を言うでもなく、黙り込んでしまった。
沈黙を破ったのは、巌。
「しょーがねえ。俺も帰るとするか」そして滝緒に目をやる。「で、たきおんは市役所に戻らなくていいのか」
「あーっ!忘れてた!」
滝緒は慌ててヘルメットをかぶると、ふいに僕の顔を見つめた。
「それじゃ、また、また来るから」
「ああ、いつでもおいでよ」
「また来るから、くれぐれも変なこと考えないように」
「変なことって何だよ」
「変なことは変なことよ。いいね、絶対だからね」
滝緒はそう言って背を向けると、巌の尻を一発蹴り上げて外に飛び出して行った。
「ガキかよ、あいつは」
尻を抑えながら、巌も出て行った。
「さて、と」
僕は小さくため息をついた。玄関はどうしよう。開店時間まではあと2時間ほどだが、今日は予約が入っていない。どうせ飛び入りも来ないだろうし、鍵を閉めておくか。玄関と風除室の扉を施錠し、玄関ホールの照明を消して、僕は鳥部屋のドアを開けた。
「聞いてたかい」
「はい、聞いてました」
セキセイインコのリリイが緑色の羽を広げた。
セキセイインコはオーストラリア原産の小型のインコで、最もペットとして普及しているインコである。他のインコに比べて繁殖が容易で、雛から育てるにしても比較的丈夫で飼いやすい事がその理由としては挙げられる。全長は20センチ強あるが、半分は尾の長さである。飼育されているセキセイインコには多彩な羽の色があるが、リリイは頭が黄色く、身体は原種に近い緑色であった。
「それでは第135回定例会議を始めます。今回の議長はわたくしリリイが務めます。議題は青いお嬢さんの持ち込んだ謎の温泉についての話。異議はありませんか」
「異議なし」
伝蔵とパスタとミヨシが応えた。
「異議はないけど、餌と水替えてくれへんかな」
トド吉が羽を挙げた。
「了解了解」
僕は皆の餌と水を替え始めた。リリイはモモイロインコのミヨシに話を向ける。
「では単刀直入に、今回の話はあり得ることなの」
「温泉に浸かっただけで末期ガンが治るなんて、地球ではオカルト話でしかないわね。我々の技術があれば可能だけど」
「我々の技術は地球人にそのまま使える?」
リリイは十姉妹のトド吉に話を振った。
「そのまんまは無理やで。けどワイらレベルの技術水準がなかったら、末期ガンの完治なんてそもそも無理やないか」
「そうね。地球人のガンはそういう病気よね」
ミヨシもうなずいた。
「何か伝承にヒントはある?」
リリイはパスタに尋ねた。ヨウムのパスタは少し首をひねった。
「病に効く泉や温泉の話は、それこそ古今東西枚挙に暇がないです。ただ浴槽があって、銘板に効能書きがあるというのは、イタリアのポッツオーリにかつてあったと伝わる浴場の伝説に似ています。これはあのヴェルギリウスが作ったとされるものなのですが」
ブルーボタンインコの伝蔵が咳払いをした。パスタははっと我に返った。
「あ、すみません。ヴェルギリウスというのは伝説の大魔導士で、あ、いえ、実在のヴェルギリウスは古代ローマの詩人なんですが」
「要するに」伝蔵はパスタの言葉を遮った。「魔法の風呂という事なのだな」
「そ、そうです」
パスタはしゅんとしてしまった。そんな責めるような言い方しなくても、とも思ったが、彼らには彼らの文化があり、お約束もある。口出しはしないが吉である。
「つまりは技術的には不可能レベルの、魔法でもなければ実現し得ない出来事が起きた、と称する者がいるという訳だ。見過ごして良いものか。どうする議長」
伝蔵の言葉に、リリイは丸い目をぱちくりさせた。考えているのだ。
「詳細が知りたいですね。また聞きだけでは判断に困ります」
その視線は僕を見ていた。え、何だそれ。
「僕はいやだぞ、こんな気持ち悪い話」
「それほど気持ち悪い話だとも思えませんが」
「いや気持ち悪いって。お化けとか妖怪とか、またそういう感じの話になりそうじゃないか。ていうか、そもそも君らの仕事だろ」
「大丈夫です、バックアップはしますので」
「全然大丈夫じゃない!」
そうは言ってみたが、僕の言う事など誰も聞いてはくれないんだろうな、そう思った。しかし。
「じゃあ仕方ないですね」リリイはあっさり矛を収めた。「パスタ、行ってくれますか」
パスタは驚いたのか、ちょっと羽を膨らませた。
「あ、はい。あの、私一人でですか」
リリイはうなずいて見せた。
「だって菊弥さんがいやだと言うのだもの。バックアップの人数はこれ以上割けないし、頑張ってみてよ」
「はあ」
「一人じゃ怖い事もあるかもしれないけど、私たちがついてるし」
「はあ」
「一人じゃ危ない事もあるかもしれないけど、以下同文」
「はあ、まあ仕方ないですね」
パスタがちらりと横目で僕を見た。その目は何かを訴えている。それを無視できるほどの胆力は、残念ながら持ち合わせていなかった。
「……わかったよ」我ながら意志が弱いな、と思う。「行けばいいんだろ」
「あら、行ってくださるんですか、それは助かります。ではパスタと一緒に、明日の朝から出発してください。営業開始時間までには帰って来られるように」
リリイはうきうきでお膳立てを始めた。ああ、せめて今夜はよく眠れますように。
黄金の髪に白い肌、厳しい眼差しに固く結ばれた口元。大人の男性だというのはわかるが、年齢まではわからない。40代にも60代にも見える。灰色のローブをまとい、彼方で燃える火を見つめている。小高い丘の上、火が燃えているのは森の中。いったい何が燃やされているのだろう。嫌な臭いがする。何の臭いだ。そのとき、男の視線が僕を見た。その口から洩れる言葉。どこの言葉だろう。まるで聞き取れない。しかし、頭の中に声が響いた。
【君は私が見えるのかね】
僕はうなずいた。男は嬉しそうに微笑んだ。
【そうか。どうやら君もこの世界の住人ではないようだね】
何のことだろう。意味がわからない。わからないと言えば、火。あれは何が燃えているのだろう。そう思ったとたん、男の顔は悲しみに曇った。
【あれは忌まわしいものだ。忌まわしいものが燃やされている】
そしてまた、火を見つめた。
【この世界はもうだめだ。『神』に毒されてしまっている。どこかに『神』を知らぬ大地はないものだろうか】
神を知らぬ大地。
【そう、唯一絶対神への信仰に毒されていない土地。そんな地がどこかに残されているだろうか】
それってまるで。そう思ったとき、男の目は驚きに満ち、その節くれだった両手は僕の肩をつかんだ。
【君は知っているのか、それを。教えてくれないか、私に。神を知らぬ大地を】
教えてくれ、教えてくれ、男は何度も繰り返す。教えてくれ、教えてくれ菊弥。菊弥。
「……菊弥さん、菊弥さん」
それはパスタの声。僕は目を開けた。明るい。すでに照明が点いている。
「あれ、いま何時」
「4時半です。起きる時間ですよ」
そうだ、今日は朝から出かけなければならないのだ。僕は身を起こした。斜め上に。真上には起こせない。ベッドの上には棚がかぶさっているからだ。その棚の上にはリリイと伝蔵とミヨシのケージがある。そう、僕の寝室は鳥部屋なのである。
「おいおい大丈夫か。きっちり目さめてるか」
そう言うトド吉に苦笑を返す。
「あんまり大丈夫じゃないけどね。ま、なんとかなるでしょ」
とりあえず顔を洗って食事だ。それでなんとか目をさまさなければ。そう言えば夢を見ていたような気がする。だがどんな夢だったのかは思い出せない。まあ問題ないだろう。夢を覚えていなくて困った事など、これまでなかったのだから。
午前6時。外は暗い。玄関ホールの内側から外を眺めていると、入り口から無人タクシーが入ってくるのが見えた。顔を洗ってトーストとブラックコーヒーで食事をして、鳥部屋の連中の餌と水を替えて、客室には誰もいないけど簡単に掃除機をかけて、レジのお金を確認して、ちょっと一息ついてからパスタをプラスチック製のキャリーケージに移して、顔や手に日焼け止めを塗り込んで、それで大体1時間半。タクシーは昨夜のうちに手配しておいたから、あとは待つだけであった。
朝の空気は冷たい。バイオカラスの声が遠くに響いている。タクシーが玄関前に横付けにされる。僕はキャリーケージを左手に、外に向かった。玄関のガラス扉を外側から施錠し、タクシーに近づくと、後部座席のドアが自動で開く。先にパスタのキャリーケージを乗せ、そして自分も乗り込んだ。ドアが閉まろうとした、そのとき。静かな早朝の街に、けたたましく足音が響いた。下駄の乾いた足音。まさか。タクシーの外に目をやると、丁度いま入り口から黒い着物姿の男が、黒い番傘を手に走ってきたところであった。黒装束の下駄の男は、タクシーの前で急ブレーキをかけると、助手席のドアを引き開け、乗り込んできた。
「よう、奇遇じゃねえか」
息も乱さず巌は笑った。どんな奇遇だ。
「まあおめえのことだから、知らん顔はしねえだろうと思ってたがな」
それは誤解だ。僕は知らん顔をしたかったのだ。今タクシーに乗っているのは本意ではない、と言いたかったが、どう説明したら良いのやら。僕が何も言えずに困っていると、タクシーのコンソールから合成音声が流れた。
「ご予約の人数をオーバーしています。人数を変更いたしますか」
「変更だ」僕の返事も聞かず、巌はタクシーの人工知能に命じた。「2人だ。2人に変更しろ」
「承りました。2名様に変更いたします」
「こらあっ!」
突然響いたその声に、僕と巌は顔を見合わせた。タクシーの外に立っていたのは、白いツバ広のヘルメットをかぶり、白い半袖のジャケットに半ズボンを身にまとった、いわゆる「探検隊」の格好をした滝緒だった。
「あんたたち、こんな朝っぱらからどこに行く気なのよ」
「何だその格好は」
思わずそう漏らした巌をキッとにらむと、滝緒は僕と反対側から後部座席に乗り込んできた。
「サファリルックよ。ヘミングウェイも知らないの。だいたい格好のことであんたにとやかく言われる筋合いはありません」
「いや、でも半袖で大丈夫なの」
着物の巌はもちろん、僕も長袖のシャツに長ズボンである。紫外線にさらす場所は可能な限り少なくしなければならないというのは、現代の常識だ。しかし滝緒は平然と僕に笑顔を向けた。
「日焼け止めは塗ってあるわよ。心配しないで」
「けどさ」
「ご予約の人数をオーバーしています。人数を変更いたしますか」
合成音声の問いかけに、滝緒は即答した。
「3人に変更」
「承りました。3名様に変更いたします」
「おめえも行く気なんじゃねえか」
呆れたような巌に、滝緒はヘルメットを脱ぐと答えた。
「あんたたち2人で何かやらせたら、またどうせ危ないことするでしょうが。巌は良くても菊弥はそうは行かないの」
「そうやって甘やかすから、こいつはふにゃふにゃなんだよ」
「菊弥はふにゃふにゃじゃありません。あんたがガサツなだけ」
「えーっと、あの、さあ」
おずおずと上げた僕の声に、巌と滝緒の視線がこちらを向いた。
「何だよ」
「何か疑問でもあるの」
疑問だらけである。何から聞けばいいのか僕が迷っていると、タクシーのコンソールが合成音声を発した。
「予定の時刻を過ぎています。発車しますか」
「……いいや、出して」
「かしこまりました」
タクシーは僕ら3人とパスタを乗せて、滑るように発進した。
「そう言やあよ」巌は助手席から振り返ると、キャリーケージを指さした。「それ、鳥か」
「あ、ああ。うん、まあ」
「そんなもん連れてきてどうするんだ。役に立つのか」
僕は慌てた。キャリーケージの中からカチンという音が聞こえた気がした。
「べ、別にいいだろ。必要だから連れて行くんだよ」
「必要っつったって、鳥だろ?何に使うんだ。あ、やっぱり話し相手か」
「違う、そうじゃなくて、その」
困った。何と説明すればいいのやら。
「別にいいでしょ、あんたよりは役に立つわよ」
滝緒が助け舟を出してくれた。そしてケージの中を覗き込んだ。
「これヨウムよね」
「うん。知ってるんだ」
「ヨウム?オウムじゃねえのか」
巌が真面目にそう尋ねた。実はこれがヨウムについての最も多い質問の一つである。
「馬っ鹿ねえ、ヨウムはオウムじゃなくてインコでしょうが。そんな事も知らないの」
しかし滝緒がそれを知っていることの方が、僕には驚きだった。滝緒が鳥を飼ってるとは聞いていない。なのにどこからそんな知識を仕入れてくるのか。
「でも今ヨウムなんて規制が厳しいでしょう。輸入もほとんどないのによく飼えたわね」
「高齢で飼えなくなった人がいてね。その人から譲ってもらったんだ」
「へえ、そういうパターンがあるのね」
もちろん嘘である。だがこういうとき用のストーリーはあらかじめ用意してある。それが役に立つことはあまりないのだが。
「何でもいいけどよ、逃がして泣きべそかくんじゃねえぞ」
巌がそう言うと同時に、ケエエエッ!パスタが吠えた。
「おい、何か怒ってるぞ」
「おまえが怒らせたんだろうが」
「俺は何もしてねえだろう」
まったく、自覚のない馬鹿ほど始末の悪いものはない。
「この子は人間の話す言葉が理解できるんだよ。おまえよりは利口だ」
「ホントかねえ」
ケエエエッ!首をかしげる巌に、再びパスタが吠えかかった。
「あんた、完全に嫌われたわね」
滝緒は嬉しそうに笑った。
「結構結構。別に困りゃしないからな」
巌は手をひらひらと振ると、前を向いた。外はほんのり明るくなり、フロントガラス一面に山脈が映えている。まだ紅葉するには時期が早い。連なる山々は一面青々としているだろう。その山に向かって、道路はまっすぐに進んで行く。天気は快晴、紫外線より怖いものが出てくる気配はなかった。
タクシーが停車したのは、温泉街の入り口手前のバスロータリーの端。支払いは巌がカードで済ませてくれた。ちょっと不本意だったが、まあここに来ること自体が不本意だったのだし、素直に甘えておくことにした。というか、昔から何かにつけ、巌が支払ってくれることは多かった。巌の実家は金持ちなのだ。「金の切れ目が縁の切れ目よ」滝緒はよくそう言ってたっけ。
「そう言えばさ」温泉街に向かって歩きながら、僕は滝緒に尋ねた。「何で今日は紫外線低減スーツ着てないの」
滝緒は切れ長の目を大きく見開くと、びっくりしたような顔で僕を見た。
「だってあれは公務用だもの。私用は厳禁なのよ」
「で、その公務は今日はどうしたんだよ」
巌が番傘を振ると、傘は一瞬で開いた、
「休みを取ったに決まってるでしょう。有休いっぱい残ってるんだから」
まるで自慢するかのように、滝緒は胸を張った。
「昨日の今日で有休なんて取れるのかよ」
巌は番傘をさすと、何故か一回くるりと回した。
「私は取れるの。人徳ってやつね」
「マジかよ。いい加減な職場だなおい」
その瞬間、滝緒の渾身の蹴りが巌の尻を襲った。
「い、痛えじゃねえか、てめえ!」
「他人の職場を侮辱した罰です」
そして滝緒は先頭を切って温泉街の入り口のアーチを潜った。
バイオカラスが電柱の上で鳴いている。温泉街に人の気配はなかった。それはそうだろう、時刻はまだ7時前だった。
「さて、来たは良いが、ここからどうするよ」
巌は僕を振り返った。
「コンビニを探しましょう。コンビニなら人は居るし、変な旅館のうわさとか店員が知ってるかもしれない」
そう言った滝緒に、しかし巌が鼻を鳴らした。
「おめえ、コンビニの店員を情報屋か何かと勘違いしてんじゃねえの。そんなの知ってる訳ねえだろ。刑事ドラマの観すぎだ」
滝緒のこめかみのあたりに、ピキッと血管が浮き出た。
「じゃ、どうすんのよ!」
「だからどうするんだ、って俺が聞いただろうがよ!」
「とにかく、街を抜けよう」
僕の言葉に、滝緒と巌はきょとんとした顔を向けた。
「昨日大峰さんの話したことが本当なら、旅館は温泉街から離れた山の中にあるはずだ。ここに居ても仕方ないよ」
「……そ、そうよね。そうよ、私もそう思う」
滝緒は同意してくれた。巌はどうだろうか。
「きったねえな、おめえ」
「じゃ、あんた1人で行動すればいいでしょ。私は菊弥と行くから」
「わーったよ、ハイハイわかりました。行くよ。行けばいいんだろ」そしてジロリと僕をにらんだ。「おめえは度胸もねえくせに、変なとこだけ冷静だな」
「こないだは巌の方が冷静だったじゃないか」
「え、何、こないだって」
割り込んできた滝緒のヘルメットを軽く叩くと、巌は歩き出した。
「何でもねーよ。ほら、行くぞ」
道を挟んで両側にはコンクリート製のビジネスホテルのような四角い建物が並んでいる。温泉街とは言っても、景観重視で建築制限があったり、古風な日本建築が並んでいるというわけではないらしい。人の気配はない。しかしそれは、人間が存在しないことを意味している訳ではない。建物の外に出てくる人が居ないだけで、建物の中にはたくさんの人が居るに違いないのだ。建物のあちらこちらにある窓から湧き出す湯気が、それを物語っていた。そんなにぎやかな静寂の中を僕ら3人は、いや、3人と1羽は、歩いて行った。温泉街の道は脇に入る路地は多いものの、通りはまっすぐに街を横切り、15分ほどで街の反対側に到着した。反対側にもバスロータリーがあり、そしてその脇に、コンビニがあった。
「コンビニ、コンビニ」
滝緒が指をさす。
「ったく、わかんねえ奴だな」
巌は腹立たしげに滝緒を睨みつけた。
「山の頂上に向かう道なら、コンビニの人も知ってるんじゃないかな」
僕の口から出た言葉に、巌は眉を寄せ、不満を表したが、滝緒は大きくうなずいた。
「そう、それ。きっと知ってる」
言うが早いか、笑顔でコンビニに向かって駆け出した。巌はやや呆れ顔だ。
「おめえはよう」
「いいじゃないか。とりあえず飲み物でも調達して行こう」
滝緒はコンビニのドアの前で僕らを待っている。
「菊弥、早く」
そう僕を呼ぶと、コンビニの中に入って行った。巌がムッとした。
「あの野郎、人を無視しやがって」
「野郎はおかしいだろう。女の子だぞ」
「いいんだよ、細けえなあ、おめえは」
よほど頭に来たのだろうか、巌は速足でコンビニに向かった。その足がコンビニのドアの前に達したとき、僕は呼び掛ける声に立ち止まった。
「菊弥さん」
キャリーケージの中から聞こえるのは、いつもより低い声。僕はキャリーケージを持ち上げて、中を覗き込んだ。
「ごめん、やっとしゃべれたね。大丈夫?怒ってないかな」
「怒ってます」ヨウムのパスタは即答した。「あの2人は非常に不愉快です。特に男の方。でもそれは置いておきます。菊弥さん、今から山の頂上に向かいましょう」
「え」
巌もコンビニの店内に入ってしまった。今、僕とパスタはコンビニの駐車場で2人きりだった。
「道ならば我々が既に調べてあります。案内します」
「でも2人が」
「残して行きます。足手まといが増えても我々の負担が増加するだけで利がありません。それに」
「それに?」
「……差し出がましいようですが、あの五十雀巌という人物、彼との付き合いはやめるべきです」
「君もたきおんみたいなことを言うんだね。て言うか、別に好きで付き合ってる訳じゃないんだけどな。腐れ縁と言うか」
「呪禁道士、彼は自らをそう呼んでいますね」
呼んでいた。確かに巌は己のことを呪禁道士と呼んでいた。
「それがどうかしたの」
「呪禁道士という言葉は、存在しません」パスタの声が、静かに響いた。「呪禁という言葉は存在します。正しくは呪禁と書いて『じゅごん』と読みますが、それは道教に由来する、いわゆる魔法的な力と言われています。そして呪禁を行う者を呼ぶ呪禁師という言葉も存在します。しかし、呪禁を『道』として昇華させた呪禁道などというものは、存在していません。道には古来学問の分類という意味と、哲学という意味がありますが、どちらの意味でも呪禁道などというものは、どこにも存在していないのです。だから呪禁道を行う呪禁道士という言葉も、この世には存在していません」
一瞬、僕は言葉に詰まった。それはつまり。
「つまり、巌は僕に嘘をついている、ってこと」
「嘘をついている、という表現が的確であるかどうかはわかりません。騙すつもりはないのかもしれません。しかし彼は現代のこの惑星、この国の社会において、正体を隠さなければならない存在、すなわちアウトローであることは間違いないでしょう。親しい友人とするのは、お勧めできません」
パスタは言い切った。それが僕を思いやっての言葉だということは、痛いほど感じた。しかし。僕は言葉を探した。何とか言い返そうとしていた。
「いや、しかしなあ」
そんな言葉しか出て来なかったけれど。思えば巌と出会ったのは小学校に上がる前、それから20年近くずっと顔を合わせてきた。けれど巌の何を知っている、と言われたら、確かに、僕は何も知らない。
「あの2人はここに残して行きます。心配しなくても、タクシーを呼べば家には戻れますよ」
いやそれはわかってる、さすがにそんな心配はしていない、僕がパスタにそう言おうとした、そのときである。
「菊弥というのか」
どこか馬鹿にしたような声が、下から聞こえた。駐車場の真ん中に、子供が一人しゃがみこんでいる。オーバーオールを着た、5、6歳の、もじゃもじゃ頭にニューヨークヤンキースのキャップをかぶった、男の子とも女の子ともつかない、ムク犬のような子供が地面を覗き込んでいた。視線を追うと、アリの群れが、キリギリスの死体に群がっている。
「なあ菊弥」子供は言った。「何をしにきた」
「下がって!」パスタの声が鋭く響く。「この子、人間じゃありません」
背中にザワリと毛が逆立つ感覚。人間じゃない。では、何だ。
「いかにも、わしは人間ではない。だがおぬしらにとって、それがそんなに重要なことかの」
その言葉は暗にこう言っている。知っているぞ、と。
「君は、誰なんだ」
口にしてから、間違ったか、と思った。何者なんだ、と問うべきだったろうか。
「誰とな」子供は顔を上げた。長くもじゃもじゃした髪で目は見えない。でも小さな鼻にそばかすが見えた。「誰、か。そうよな。わしの名前はつぐみ、とらかわつぐみ。とらかわのとらは、しゃしんしこのとらだ」
呪文か何かか。何を言っているのかさっぱりわからない。特に『しゃしんしこ』って何。四字熟語っぽいが、漢字がさっぱり当てはまらない。そしてさらに困ったことに、名前を聞いてもなお男の子か女の子かがはっきりしない。つぐみちゃん、と呼ぶべきか、つぐみ君、と呼ぶべきか。仕方ない。
「君の目的は何」
そう言うしかなかった。しかし、つぐみは首を傾げた。
「目的があるのはおまえたちの方であろ。なあ菊弥、何をしにきた」
言われてみればその通り。
「あ、えっと」
「摩訶不思議な湯宿の噂を聞いてやってきたのであろうが、いったい何を知りたい。その湯宿は何か悪いことでもしたのか」
「いや、別にそういう訳ではないけれど」
僕に聞かれても困る。そもそも僕はここに来たくなどなかったのに、なんやかんやと成り行きで、来ざるを得なくなったのだから。
「まあ強いて言うなら」僕は不承不承こたえた。「その温泉宿が、何らかの犯罪に関わっているかもしれない、みたいな感じで」
「ほう、確信もなしに罪を探りに来たのか。まるで木っ端役人の発想だな」
「なんですって!」キャリーケージの中でパスタが叫んだ。「子供だと思っていたらいい気になって、もう一度言ってみなさい」
「ああ、ちょっと、パスタ、待って」
「なに落ち着いてるんですか!菊弥さんが言われてるんですよ」
「うん、いや確かにそうなんだけども」
確かに、僕がそこまで言われなければならない筋合いはない。ないのだが、ここでパスタに怒られても、話がややこしくなるだけである。だがそんな僕たちの様子を見て、つぐみは突然大笑いをした。そしてこう言った。
「感心感心。短気は損気。その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを、聖者たちは称賛する」
「……へ?」
なに言ってんだこいつ。僕がその思いを顔に出しかけたとき。
「なあ菊弥」つぐみはコンビニを指さした。「友達を助けなくていいのか」
その言葉に、僕はコンビニを見た。ガラスを通して店内が見える。胸が騒いだ。何もおかしな所はない。店の中に巌と滝緒がいないこと以外は。
足が勝手に動いた。僕はコンビニに向かって駆け出していた。
「ノート城の岩があるぞ」
背後から聞こえたその声に一瞬僕は振り返ったが、つぐみの姿はどこにもなかった。
コンビニのガラス扉は自動ドアではなかった。僕は迷わず取っ手に手をかけた。
「待って、菊弥さん。ストップ!ストップ!ストップ!」
パスタの懸命の呼びかけに、ドアを半分引いたところで僕は止まった。
「今度は何!」
思わず声を荒げた僕の頭の中に、声が響いた。
【警報!警報!】
それはモモイロインコのミヨシの声。
【気をつけなさい。そのコンビニの中、空間が湾曲してるわよ】
僕は半分開いたドアからコンビニの店内を覗き込んだ。普通のコンビニだ。おでんの出汁の匂いが漂ってくる。
「空間が湾曲してるって、どういうこと」
【そのコンビニに入ったが最後、別のどこかへ飛ばされるってことよ】
「どこに飛ばされるの」
【行ってみないとわかんないわねえ】
「宇宙空間とかブラックホールとか」
【それはさすがにないわ。気圧も重力も変化してないんだから、つながってる空間も同じような気圧で同じような重力がある場所よ】
「だったら、行っても大丈夫じゃないの」
【安全かどうかの保障はできないわよ】
「バックアップしてくれるんだよね」
【それはするけどさあ】
「じゃ、行く」
僕はドアを引き開けて、店内へと一歩踏み入れた。世界は暗転した。
まるでスイッチが切れたかのように真っ暗になったので、自分が気を失ったのではないかと思ったが、意識はしっかりしていた。僕は暗闇の中で立っていた。左手にはキャリーケージの重みがある。
「パスタ、大丈夫?」
「私は大丈夫です。菊弥さんは異常ありませんか」
その声にホッと胸をなでおろす。
「異常なし、だと思うよ。こうも暗いとよくわからないけど」
と、僕の目の前にまばゆい光が現れた。ビー玉ほどの大きさで、強すぎない光で周囲を照らしている。パスタが言った。
「プラズマで火球を作りました。ペンライト代わりにはなるでしょう」
「爆発したりしないの」
「可燃性ガスの反応はありません。酸素濃度の変化も誤差の範囲内ですし、ご心配にはおよびません」
「それならいいけど」
僕は改めて、周囲を見回した。火球の光が空間を照らす。どこかの通路らしい。床は磨かれたように光を反射し、天井は低く、左右の壁の幅は狭い。閉所恐怖症なら絶叫していたところだ。
僕は頭の中に意識を集めた。
(つながってるのかな)
【つながってるわよ】
頭の中にミヨシの声が響く。
「よかった。僕らは今どこにいるの」
【何の中にいるのかっていう意味ならまだ不明。座標的な意味なら、さっきの温泉街のすぐ近くよ。空間がほぼ閉じているから正確な座標出すにはちょっと時間かかるけど】
僕は暗闇の中を歩き始めた。火球は僕の50センチほど前をふわふわと漂っている。
「座標だけじゃどうしようもないよ。巌とたきおんがどこにいるかわからないと」
【あら、座標は大事よ。座標がわからないとバックアップもできないんだから】
「そりゃそうなんだろうけどさ」
僕は左手にパスタの入ったキャリーケージを持ち、右手で壁に触れながら前に進んだ。だが進めども進めども、景色は一向に変わらない。小さなプラズマ火球が照らし出す、直径数メートルの空間だけが僕の認識できる世界。まるで深海に沈む巨大な船の中に閉じ込められているかのような感覚になってくる。
【長居は精神的に良くない場所ね】
「僕だって長居はしたくないよ」
「菊弥さん、あれ!」
パスタの声に、僕は前方に注意を向けた。光だ。闇の中に光が差し込んでいる。僕は駆けた。足がもつれそうになったが、気にせず走った。
光は、壁の穴から差し込んでいた。左の壁に長方形の穴が開いている。高さは僕の胸あたり。僕は腰をかがめて穴を覗き込んだ。
白くもうもうとしたものが立ち込めている。煙か、と一瞬思ったが、その間違いにはすぐに気づいた。湯気だ。その湯気の中、目を凝らすと左下方向に四角い縁が並んでいるのが見えた。浴槽、そう思った瞬間、大峰さんの言葉が脳裏をかすめた。白萩原さんが泊まったという旅館の大浴場、それがここではないのか。
と、湯気の中に影が浮かんだ。その影は人の形をなし、こちらへと近づいてくる。やがて壁の穴から2メートルくらいの距離にまで近づいたとき、突如その影の正体が見えた。白い肌、豊かな胸、くびれた腰、すらりと伸びた脚、タオルで前を隠してはいるが、一糸まとわぬ滝緒の裸体だった。
僕は愕然とした。目を閉じれば良かったのだろうけど、顔面に血が上ってくるのに比例するように、眼球を動かす筋肉は、硬く固まって行く。滝緒の裸体から目が離れなかった。
「菊弥さん、何が見えるんですか。菊弥さん!」
パスタの声が僕を正気に戻した。僕は腹に力を込め、四角い穴に口を当てた。
「たきおん!僕だ!菊弥だ!」
そして再び穴を覗き込む。しかし、滝緒は僕の声になど気づかぬように、浴槽に書かれた銘板を読んでいた。僕はまた穴に口を当てた。
「たきおん!ここだ!聞こえないのか、たきおん!」
「やかましいね」
その声は、通路の奥から響いてきた。ぺたりぺたりという草履の足音、闇の中からプラズマ火球の光の中に姿を現したのは、僕の胸くらいの背丈の、白髪頭をひっつめ髪にした、鼻の大きな和服姿の老婆。
「女湯のぞくんなら、静かにのぞきな。騒ぎながらのぞくような変態は、あたしが叩き出すよ」
この老婆だ。僕は直観した。白萩原さんを宿に導いた、きっとあの老婆であるに違いない。
「これは人間です」
パスタの冷静な声が響く。
「ほう、賢そうな鳥を連れてるじゃないか」老婆はにんまりと笑った。「焼き鳥もおつなもんだ」
僕はパスタのキャリーケージを背後に隠した。
「僕の友達をどうするつもりですか」
「この娘のことかい。だったら心配はいらないよ。病気を治したらすぐに温泉街まで運んでやるさ」
白萩原さんにしたように、ということか。
「巌は、もう一人男がいたはずです、あいつはどうなったんですか」
「ああ、あれはダメだ」
「ダメ?」
「ダメだね。ああ言えばこう言う。疑り深くて屁理屈ばかりこねる。そして無駄に肝が太い。ああいうのは世の中に置いといても回りを不幸にするだけだ。だからあたしが処分しておいてやるよ」
「処分、て」
「おまえはアレよりまともみたいだし、3人の中じゃ一番弱そうだしね、見逃してあげよう。そのかわり、ここの事は一生黙っておいで。ここを探ろうなんて二度と思わないことだ」
「なぜそれを知っている」
「あたしたちは何でもお見通しさ。何でもね」
「つまり」僕は言った。「仲間がいるんだな」
その一言で、老婆の顔に張り付いていた笑顔は消えた。
「何だいこの子は。可愛い顔して嫌な性格してるね。人の厚意を無にする気かい」
「何でもお見通しじゃなかったのかな」
「やれやれ、やっぱり類は友を呼ぶのかねえ。仕方ない」老婆の眼が、暗闇に輝いた。「おまえから消えな」
老婆は口をすぼめた。そのとき、僕の右手が勝手に前に突き出る。輝く赤い光。いや、炎だ。老婆は口から炎を吐き出した。それは長い帯となって宙を飛んだ。しかし、僕の右手に触れる寸前、空中に四散した。
【座標確認。重力制御フィールド展開】
頭の中にミヨシの声が響く。
「ギリギリじゃないか!」
【あら、これでも急いだのよ。ほらね、座標って大事でしょ】
「それは後でいいから!」
炎は僕の右手から発せられる重力制御フィールドによってさえぎられている。だが四散した炎が天井や壁を焼いていた。通路内の温度は急激に上がって行く。じきに耐えられない温度になるのは目に見えていた。
「これからどうすればいい」
【どうしたいの】
「武器とかないと、どうしようもないよ」
【武器ならそこにあるじゃない】
「どこに」
【ほら、その小さな丸いの】
プラズマ火球のことか。確かにプラズマ火球は炎に包まれながらも、なお明るい光をたもち、重力制御フィールドの向こう側に浮き続けている。
「こんなの、どうすんの」
【実体のないプラズマでも、その空間ごと超音速で飛ばせば、それなりの破壊力にはなるわ】
「飛ばすって、どうやって」
【念じなさい。コントロールを坊やの脳に切り替えるから】
それだけかよ、念じるってどうやるんだ、そう言いたかったがそんな時間はない。もう息を吸うだけでのどが痛い。これ以上は耐えられない。僕は集中した。炎を吐き出す老婆の真ん中、胸の辺りに意識を集めた。
「飛べ!」
パン、小さく乾いた音。命じた僕の言葉にしたがって、プラズマ火球は一直線に空を裂いた。炎が上下水平に分かれる。そして火球は、老婆の胸を貫いた。その直後、老婆の胸の穴から炎が漏れ出し、その上半身を焼いた。
「おやおや、炎袋を破ったようだね。これじゃあ、もうしばらく炎は吹けない」
上半身を炎に包まれながら、老婆は平然とそう言った。
「もしかして、人間じゃないのか」
「そんなはずはありません」
僕の言葉にパスタは反論した。
「だけど、こんな人間なんて」
こんな人間なんて、いるはずがない。
「それが、いるんだよ」
老婆は呵々と笑った。次の瞬間、炎がすべて消えうせた。そして僕をにらみつける。
「一思いに殺してやろうと思ったが、やめた。おまえには死ぬより辛い罰を与えてやろう」
そう言うと、老婆は右手で壁に触れた。すると壁が自動ドアのように動き、滝緒のいる大浴場への道を開いた。
「そこで自分の友達が絞め殺されるのを、指をくわえて見ておいで」
老婆は大浴場に走り込んだ。僕も後を追おうとしたが、壁は素早く閉じてしまった。叩いても、押しても引いても壁はぴくりとも動かない。
「早く開けて!」
【ちょっと待って。何かの認証が必要なのだと思うけど】
僕は右手を壁に当てた。焦ってはいるが、壁が開かないのではどうしようもない。ミヨシの返答を待つ。しかし。
【んんん?】
「どうしたの」
【認証システムが】
「システムが」
【見つからない】
「どういうことだよ!」
【わかんないわよ、調べた限りではその壁には開閉システムなんて組み込まれてない、ただの岩石なの】
そのとき、キャリーケージの中のパスタが「あっ!」と声を上げた。
「今度は何」
のぞき込んだ僕に向かってパスタは叫んだ。
「ノート城の岩!」
「何それ」
「いいから、壁をもう一度横に引いてみてください」
「いや、だから引いても動かな」
「ただし、力を込めないで引いてください。そっと、優しく、蜘蛛の糸を静かに持ち上げるように」
意味がわからない。しかし、いまは考えている時間も惜しい。僕は言われた通りそっと壁に触れ、その手を横にスライドさせた。なるべく力を込めないように。鳥の羽根が落ちるように静かに。岩の壁は音もなく開いた。
滝緒の悲鳴が空間を切り裂く。僕は大浴場に走り込んだ。滝緒の髪をつかんで浴槽から引きずり出そうとしていた老婆は、走り寄る僕を見て信じられないという顔をした。
「重力制御フィールド展開!」僕は両手でキャリーケージのハンドルを握った。フィールドがキャリーケージを包む。「パスタ、ごめん!」
うなりを上げてキャリーケージが走る。右斜め下から左上へと。プラスチック製のキャリーケージはこの瞬間、鋼鉄以上の硬さを持って、老婆の顔側面へと襲い掛かった。手に伝わる衝撃。骨を砕く鈍い音。宙を舞う老婆の身体。だが。老婆の身体は落ちてこなかった。宙に浮いたまま、しばし気を失ったかのように漂った後、ふいに身体を起こした。
「やるじゃないか、小僧」
不敵に微笑む老婆は、ほとんどダメージを受けていないように見えた。
「世間知らずのガキが迂闊にも我らの計画に鼻先を突っ込んできたかと思っていたら、まさかこれほどまでに強い能力を持ったやつだったとはね、誤算だったよ」
誤算はそれだけじゃないぞ。僕は心の中でそうつぶやいた。僕の使っている力は能力じゃない。僕は謎の宇宙人の謎のシステムが作り出す謎の力場を解放するための、いわばアウトプット端末でしかないのだ。しかしそれは老婆には聞こえない。老婆はひとり納得したような顔をすると、小さくうなずいた。
「まあいいだろう。ここも役目は果たした」
役目。何の役目だ。
「おまえとここで殺し合ってもいいんだがね、あたしにはまだ仕事が残ってる。決着をつけるのはまた今度にしよう」
老婆は左右の手を突き出した。
「まあせいぜい死なないことだね」
そう言うと両手を合わせて打ち鳴らした。その音が大浴場にこだました瞬間、老婆の姿は消えた。
【空間転移確認】
ミヨシの声は驚いた様子もなかった。
「座標は追えてるの」
【ダメね。細かい転移を繰り返してる。随分と用心深いこと】
「そう」僕はキャリーケージの中をのぞき込んだ。「パスタは大丈夫?」
パスタは中で目を回していた。
「あーんまり大丈夫じゃありませーん」
「そ、そうみたいだね、ごめん」
でも何とか無事みたいだ。さて、問題はこれからだ。背中に痛いほどの視線を感じる。いったいどうしたものか。
「菊弥」滝緒の声は震えていた。「今のお婆さん、何だったの」
「いや、それは僕に聞かれても」
僕は背を向けたまま答えた。さすがに後ろは振り返れない。
「本当にわからないの」
「わからないよ。それより服を取って来ないと」
僕が一歩踏み出したとたん、滝緒は浴槽を飛びだし、僕の背中にしがみついた。
「ちょ、な、な、何を」
「一人にしないで!怖いんだから!」
そのとき。滝緒の声がきっかけとなったのだろうか、地鳴りのような音が低く響いた。同時にミヨシの声が聞こえる。
【崩れるわよ、気をつけて!】
「え、ええっ?」
訳も分からず、僕は思わず振り返り、滝緒を押し倒すと、その上に覆いかぶさった。滝緒の身を守らねば、それしか頭にはなかった。その僕の頭上に落ちてくる気配が。
ふぁさっ。
壁が崩れたはずだった。天井が落ちてきたはずだった。しかし僕の背中と後頭部につもったそれは、かさかさと軽い音を立てながら、はらはらと静かに落ちてきた。大量の枯れ葉。そこには大浴場はなかった。浴槽も銘板もなかった。木々の立ち並ぶ雑木林の一角で、僕と滝緒は木の葉に埋まっていた。呆然とする僕の顔に、下から伸びてきた指が触れた。
「ねえ、菊弥」
「あ」僕は飛び起きた。文字通り言葉通り、空に飛び上がる勢いで起きた。「ああっ!いや、待って、あの、これはその」
「触ったわよね」
「違う、触って、なくはないけど、そう、不可抗力で、だから」
滝緒はタオルで前を隠しながら、上半身を起こした。
「いいわよ、怒ったりしないから」
「あ、ああ、うん」
「菊弥のこと信じてるから」
「うん、ありがとう」
「責任取ってくれるもんね」
「うん……え?」
「今うんって言ったよね」
「え、何が、え」
「よっしゃあ!」
滝緒はガッツポーズをとると立ち上がり、鼻歌交じりにうろうろし始めた。どうやら服を探しているようだ。
「責任、責任~♪」
「いやいや、ねえ、たきおん」
困惑する僕を尻目に、滝緒は足先で落ち葉をかき分けた。
「何が起こったかはわからないけど、それは後でいいや。今はとにかく家に戻りましょう。いろいろ決めなきゃいけないし」
「え、決めるって何を」
「まずは式場ね……あれ?」
滝緒は何かを見つけたようだ。数秒考えた。そして、突然かかとで踏みつぶした。
「うがあああっ!」
何かが叫びながら落ち葉を噴き上げ立ち上がった。それは。股間を抑える全裸の巌だった。
「何しやがんだこのクソアマぁっ!」
だがその顔面に、滝緒の拳がめり込んだ。
「おまえは見るな」
「り、理不尽な……」
倒れ込む巌、服を探す滝緒、そして僕はパスタのキャリーケージを拾い上げた。
「ねえ、責任って何だろ」
「知りません」
パスタはぷいと横を向いてしまった。
神聖ローマ帝国の時代、今のフランスからスイスにかけての地方にアルル王国と呼ばれる国がありました。そのアルル王国のアンブラン大司教管区にノートと呼ばれる城があったとされ、その城の中に、大きな岩があったと伝えられています。この岩は不思議な岩で、全身で力を込めて押してもまったく動かないのに、小指の先で軽く押すと動いたと言われています。あ、誰かお店に来たみたいですね。いいですいいです、私の話は以上で終わりですので、どうぞお店の方に。
「あのとき私は、コンビニに入ったつもりが気がついたら脱衣場に居て、あ、ここが話に聞いた大浴場なんじゃないか、ってピンときたのよ。そしたら脱衣かごの中にタオルとせっけんが置いてあって、ああ、これでお風呂に入れるな、って思ったら無性に入りたくなっちゃって。で、まあいいや、って入っちゃったの。銘板にはいろいろ書いてあったわよ。肩こり、腰痛、リウマチ、インフルエンザもあったわ。そう、それで、ガンに効く湯も本当にあったの」
「それで、たきおんは何の湯に入ってたの」
僕の言葉に、滝緒は恥ずかしそうに雑誌で顔を隠した。より正確に言うなら、結婚情報誌を広げて顔を隠したのだ。
「……便秘に効く湯」
「あー」
「あーじゃない、本当に大変なんだからね」
真っ赤な顔をした滝緒を面白そうに見つめながら、巌は鼻を鳴らした。
「んで、出たのかよウン」
その顔面に突き立つ分厚い結婚情報誌。小鳥ホテルの玄関ホールに大の字で横たわる巌は、今日も黒ずくめの格好をしている。あの大浴場での戦いから一夜明けたその日の夕方、僕らは再び集まっていた。
「紙って硬えな」
「至近距離だしね」
巌は体を起こすと滝緒をにらみつけた。しかし滝緒はどこ吹く風。
「巌もあのお婆さんに会ったんだよね」
ああ言えばこう言う。疑り深くて屁理屈ばかりこねる。そして無駄に肝が太い。老婆はそんなことを言っていたっけ。
「会ったつっても、ちょっと世間話しただけだぞ」
ちょっと世間話をしただけであの評価なのか。まあ、わからないでもないが。
「役目は果たした。確かにそう言ってたんだ。役目って何だろう」
「さあな。婆さん俺との会話じゃ、んなこと言ってなかったからな」
「今日、観光課の同期に聞いたんだけどね」滝緒は結婚情報誌を拾った。「どうやらあの温泉宿の噂、あちこちに広がってるらしいのよ。ときどき問い合わせが来るんだって。テレビ局からも取材したいって話があったらしいんだけど、市役所じゃ把握してないからって断ったって」
しかし巌は不満顔だ。
「何だよ、宣伝ってか?温泉街が村おこしでタヌキでも雇ったってのか。馬鹿馬鹿しい」
「温泉街なんだから街おこしじゃないのか」
「おめえは細けえんだよ。そこ食いつくとこじゃねえだろ」
「タヌキに食いつけと?」
「木の葉で人をだますって言やあ、昔からタヌキって相場が決まってるだろうがよ」
今度は滝緒が首を傾げた。
「うーん、タヌキってイメージじゃないよね。どっちかっていうと魔女かな」
僕は虚を突かれた。その僕の顔に、滝緒は目を丸くした。
「何よ。何か変なこと言った?」
「いや、その逆」
何で今まで気がつかなかったんだろう。確かにあの老婆は帽子をかぶっていなかった。ローブも着てはいなかったし、ホウキにも乗っていなかった。だが魔女だ。あれは森の魔女だったんだ。何かがストンと胸に落ちた。妖精がいるのなら、森の魔女がいて何の不思議があるだろう。そして妖精がいて魔女がいるなら。あれは何だ。
「なあ巌」僕は尋ねた。「しゃしんしこって知ってるか」
「何だ藪から棒に」
「いや、お前なら知ってるかと思ってさ。どんな字書くんだ」
「捨てる身で飼う虎って書いて捨身飼虎だ。仏教の説話にある話でな、釈迦が釈迦として生まれる前、前世である国の太子として生きていた時に飢えた虎の親子に会った。子は七頭もいるのに食うものがない。それを見て哀れに思った太子は自分の身を崖から落とし、虎に食わせたってくだらねえ話だ」
「いや、くだらなくはないだろ」
「おめえにとっちゃそうなんだろうが、俺にとっちゃくだらねえんだよ」
まさにああ言えばこう言うである。
「で、捨身飼虎がどうした」
僕はコンビニの駐車場での話をした。とらかわつぐみ。虎河なのか虎皮なのか。もちろんパスタのことはごまかしながら。
「捨身飼虎の虎ねえ」巌は苦笑いを浮かべた。「人間かどうかは知らねえが、嫌なガキなのは間違いねえな」
おまえには言われたくないんじゃないか、と言いたいのを僕はぐっとこらえた。
「でも私たちがあそこに行った理由も目的もわかっていたとなると、もしかしたら今この瞬間も……」
滝緒は天井を見上げた。僕と巌も上を見た。セキュリティを見直してもらわなきゃな。僕はぼんやりとそんなことを考えていた。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
今日の授業は保健体育
にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり)
僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。
その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。
ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる