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精霊王の依頼
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「余は、暗愚、なれば!」
銀色一色の世界で、漆黒に染まったゲンゼルの口が開く。凄まじい勢いで開いて行く。ワニのように開いた口は人を飲み込むほどの巨大な黒いトラバサミとなり、ギーア=タムールへと襲いかかった。だが真下から跳ね上げられる。きらめくのは青い聖剣。
「ほう。このリンドヘルドで斬れぬのか。たいした硬さよな」
その黒い顎を叩きつけるように振り下ろしたゲンゼルだったが、左側面から打ちつけるリンドヘルドの方が遙かに速い。ほぼ直角を描いて右方向へと飛ばされた。銀色の地面を黒い人型が転がり、銀色の土煙を巻き上げる。
「こんなものか。フーブはこの程度を怖れていたというのか。くだらぬ」
ギーア=タムールが一歩、前に出る。その足首がつかまれた。足の下、影の中から現れた黒い手に。しかしギーア=タムールは動じない。視線を下ろすことなく足下を切り払った。いや、切り払おうとした。そのリンドヘルドの切っ先を、何かが食い止めている。そこで初めてギーア=タムールは足下を見た。
それは黒い剣先。影の中から突き出したそれは、形だけ見ればリンドヘルドそっくりと言えた。その剣が伸びてくる。影の中から、リンドヘルドそのものの姿をした黒い剣が姿を現わし、その剣を握る手に、腕に、肩に見える黒い鎧はギーア=タムールの物と色違い。そして影の中から現れる黒い頭、胸、腹。ただ色が黒いだけで、寸分違わぬギーア=タムールの生き写し。漆黒のそれがリンドヘルドを押し、青いギーア=タムールを後退させた。
ゲンゼルがゆっくりと身を起こす。
「余は暗愚なれば、策を知らず。この力が通じぬのなら、通じる力を借りるのみ」
青い聖剣と黒い剣が、つばぜり合いで火花を散らしている。
「ほう、この黒い偽物が通じると貴様は言うのだな」
ギーア=タムールの口元が緩んだ。嬉しげに、楽しげに。黒いゲンゼルも笑う。
「通じるともさ。通じぬのなら、そなたの力は偽物だ」
音が凍った。絶対的無音の世界。氷の山脈では風の音すら聞こえない。その恐怖すら感じる静寂の中で、雪が降る。山肌にまとわりついていた雲や霧が、すべて一瞬で雪となり、地面に向かって降りて行くのだ。視界を遮るすべての物が消え去った山頂に、月光を背負い立つ巨大な影。それはまるで幻のように、おぼろな光を透過させる。
透明な、耳のない熊を思わせる四足のシルエット。口は大きく裂け、見開かれた目は虹色に輝く。
「あれが……ザンビエン、なのか」
しがみついて震えるタルアン王子の声に、魔道士ダリアム・ゴーントレーはうなずく。
「左様にございます。あれこそ魔獣、そして精霊王ザンビエン」
ダリアムは叫ぶ。
「いと正しき精霊王に申し上げる! いまここにダリアム・ゴーントレーが、リーリア王女殿下をお連れ致した! 供贄の儀を執り行いたく存ずるが、いかがか!」
リーリアはザンビエンを見上げ、身を固くする。だが。
――機を逸したな
頭の中に直接響く、それはザンビエンの声。直後、星月夜の空が白い輝きに包まれる。大気が震動し、大地が鳴動する。
「ななな、何だ、何が起こってる」
焦るタルアンに応えもせず、ダリアムは白く輝く空を見つめていた。空の、その上を。
「これはまさか」
――そう、天使だ
ガステリア大陸の上空遙か、宇宙空間の高さに浮かぶ白い群れ。白い四角柱に二本の腕を生やし、背中には白い四枚の翼。それが十三体で円を描く。その円の中心から、氷の山脈に向けて白い光線が音もなく放たれた。しかし光線は地表にまで届かず、その中間あたりで見えない壁に阻まれる。
――あの程度の天使など、倒すだけなら造作もないが
それが何かはわからない。だが何かがザンビエンに不安を呼び起こしている。魔道士はたずねた。
「生け贄だけでは如何ともし難いと申されるのか」
――心配はするな
伝わってきたのは、苦笑と呼んでも良いであろう感情。
――そなたとの約束は守ってやろう。ただし、その前に一つ頼みがある
頼み? 精霊王ザンビエンが、人間の魔道士に頼み事とは驚きである。
「何でございましょう。このダリアム・ゴーントレーに可能な事であれば何なりと」
また空が輝き、世界が震えた。
――ならば急げ
ザンビエンは言う。
――新たな宿主を用意するのだ
「各団長は陣形を整えよ! 人間どもを街に入れるな!」
月光の将ルーナの指示が飛ぶ。ギーア聖軍団の聖騎士は、炎竜皇ジクスの攻撃でおよそ一割を失ったとはいえ、グアラグアラに迫る帝国の兵力の三倍を擁する。戦うべき相手さえ間違えなければ、敗北するなど有り得ない。ただしそれは、ジクスとフーブの二大聖魔をルーナが一人で引き受けるという事でもあった。
「月光の将ルーナ! このフンムと尋常に勝負せよ!」
神殿の外に躍り出たのは、無銘にして無尽なる戦斧を手にした魔獅子公。その毒気が抜けた問答無用の一撃を、ルーナの剣は片腕で難なく受ける。いかなフンムの怪力をもってしても、真正面から押し込むのは至難の業であった。
「おのれ、おのれおのれおのれ!」
そのフンムの目の前で、突然ルーナの姿が消えた。いや、沈んだ。
「ぬあっ」
前のめりになった巨体の懐にルーナの体は入り込み、魔獅子公の太い腕を引っ張りながら腰で跳ね上げる。綺麗な一本背負いが決まり、フンムは顔面から地面に叩き付けられた。
「おまえ如きの相手をしている暇はない」
背を向けて走りだそうとしたルーナの足が、止まる。
「ならば誰の相手をしたい?」
月光の将の行く手を阻むのは、毒蛇公スラと黒山羊公カーナを引き連れた、妖人公ゼタ。片手下段に構えた妖刀土蜘蛛が、黄金の刃をきらめかせている。そして背後ではフンムの立ち上がる気配がする。
「……しつこい」
ルーナはいまいましげに舌打ちをした。
屋根の失われたフーブ神殿の中、何かに耳を澄ませるように、ジクスが遠くの気配を読み取っている。
「ザンビエンが目覚めた……でも何だこれは。天使か」
「それもまた天使です。階位は下がりますが、数を頼んで敵対する者を蹂躙します」
同じ物を見ているかのように風の巫女は言う。
「ギーア=タムールが来るまでの時間稼ぎにしても、ザンビエンの相手としては力不足だよね」
そう言うジクスに、「そうでしょうか」と巫女は返す。
「この封じられていた時間は、ザンビエンにとって少々長すぎたのかも知れません」
「まさか、ザンビエンが老いたとでも言いたいの」
不審げに見つめる炎竜皇に、巫女は微笑んだ。
「精霊王ザンビエンの体は、ちょうどあなたとは逆になります。あなたがジクリジクフェルの姿を外殻として内側に天竜地竜の力を封じているのとは反対に、ザンビエンは強力な中心核によって強大な力を外周に引き留めているのです」
「……つまり、その中心核の力が衰えている?」
どこまで本当なのだろう、とジクスは思う。ザンビエンの体の秘密を何故フーブが知っている。いや、フーブだからこそ知っていても不思議はないのだが。そんなジクスの心を知ってか知らずか、巫女は笑顔でうなずいた。
「もっと早く生け贄の血を浴びる事ができれば、状況は違っていたのかも知れません。でもそれは叶わなかった。私たちが動いた事によって事態が変化したのです。我々の勝利と言えるでしょう」
そう言う巫女に、しかしジクスは「そうだろうか」と首をかしげる。
「そんな簡単に勝てる相手なら、苦労はしないと思うんだけど」
「妙じゃな」
戦場となったフーブ神殿から避難した三老師であったが、『遠目』のツアト師は星空を見上げて目をしばしばさせている。
「どうした。何か見えとるのか」
たずねたのは『早耳』のコレフ師。ツアト師は首をひねる。
「いや、ザンビエンの様子が上手く見えんような気がしたんだが、おまえさんの方は何事もないかね」
コレフ師は小馬鹿にしたように笑った。
「そりゃあ老眼が入っとるんだろう、爺さんだからな。こっちはちゃんと聞こえておるよ」
「そうか。まあそれなら構わんのだが」
おまえだって爺さんだろうに、といった顔でツアト師はため息をついた。『大口』のハリド師は一人沈黙を守り、目を閉じて座っている。
黒い偽物の振るった剣を、青い本物のギーア=タムールが聖剣リンドヘルドで受けた。力任せにはね除けようとするものの、偽物は一歩も引かない。腕は互角という事だろうか。暗愚帝は笑う。
「余は暗愚なれば、加減という物を知らぬ。それはあくまで、そなたそのもの。いずれ疲れ果て、倒れる瞬間までそなたと同じよ」
「ほう、暗愚と言う割には小賢しい」
青い剣と黒い剣が打ち合い、火花を散らす。その剣の振り方、打ち込むタイミングまでまるで同じ。しかしギーア=タムールの口元から余裕の笑みが消える事はない。
「ただし、貴様は一つ勘違いをしている。このギーア=タムールに、疲れ果て倒れる瞬間など来るはずがないのだ」
その身の周りに、目には見えない力の渦が現れ、何本もの銀色のつむじ風が巻き起こる。だがそれは相手も同じ。黒い偽物の周囲にも、銀色のつむじ風が群れをなす。リンドヘルドがつむじ風に触れると、その刃を包むように風が巻く。黒い剣も同様に、その周りに風を纏った。
「ほう、ここまで真似ができるか」
感心するギーア=タムールに、暗愚帝はニッと黒い歯を見せる。
「言ったであろう。それは、そなたそのものだと」
「それは好都合!」
聖剣リンドヘルドが大上段から斬りかかる。黒い剣も同じく斬りかかる。風を纏った二本の剣がぶつかったとき、風は合流し、巨大な一つの竜巻を生み出した。その中心にいるのは、青と黒のギーア=タムール。
竜巻は銀色の大地をえぐり取りながら天地をつなぐ。暗愚帝を、周りのすべてを飲み込みながら巨大化する。そして。銀色の空に青い亀裂が走った。
星空に青い亀裂が走った。夜が砕け散る。天から降りてきた竜巻は大地に触れると、怨嗟の声の如き唸りを上げて吹き荒れ、あらゆる物を打ち倒し、打ち砕きながら消え去った。跡に残るのは人影が二つ。青と黒のギーア=タムール。いや、そこに三つ目が落ちてきて地面に叩き付けられた。夜より黒い暗愚帝である。
「うぬぬ」
地面に貼り付いた体を引き剥がすようにゲンゼルは身を起こす。ギーア=タムールは己の影と打ち合いながら笑った。
「ほう、あの高さから落ちて無事か。頑丈さだけは褒めてやる」
「余は暗愚なれば、壊れる事を知らぬ」
しかし多少は堪えたのか、ふらつきながら立ち上がる。そして周囲を見回した。
「グアラグアラに戻って来たのか」
「おうとも。貴様の作ったこの偽物がそれなりの力を発揮してくれたからな。フーブの結界如き楽に破れたわ」
青い聖騎士団長は、まったく毛の先ほども疲れた様子がなく、笑いながら剣を振るう。
「とは言え、いささか飽きてきたな」
ギーア=タムールは下段から斬り上げる。黒い偽物は上段から振り下ろした剣でそれを受けた。その瞬間、聖剣リンドヘルドが強く輝く。光が青みがかっている事を除けば、まるで地上に降りた太陽のように。
「悪いがこれは真似できまい」
光を受けた黒い偽物は身もだえ、その体はボロボロと崩れ出した。
「何故ならこれは天界の光だからだ。天界は絶対であり唯一無二。それを模倣できる力など、どの世界にも存在しない」
そしてリンドヘルドが一閃、黒いギーア=タムールは縦に半断され、同時に無数の破片となり果てる。
「影より生まれた偽りの姿なら、聖なる光の前に消えてなくなろう」
その言葉通り、光の中に影は消えた。
銀色一色の世界で、漆黒に染まったゲンゼルの口が開く。凄まじい勢いで開いて行く。ワニのように開いた口は人を飲み込むほどの巨大な黒いトラバサミとなり、ギーア=タムールへと襲いかかった。だが真下から跳ね上げられる。きらめくのは青い聖剣。
「ほう。このリンドヘルドで斬れぬのか。たいした硬さよな」
その黒い顎を叩きつけるように振り下ろしたゲンゼルだったが、左側面から打ちつけるリンドヘルドの方が遙かに速い。ほぼ直角を描いて右方向へと飛ばされた。銀色の地面を黒い人型が転がり、銀色の土煙を巻き上げる。
「こんなものか。フーブはこの程度を怖れていたというのか。くだらぬ」
ギーア=タムールが一歩、前に出る。その足首がつかまれた。足の下、影の中から現れた黒い手に。しかしギーア=タムールは動じない。視線を下ろすことなく足下を切り払った。いや、切り払おうとした。そのリンドヘルドの切っ先を、何かが食い止めている。そこで初めてギーア=タムールは足下を見た。
それは黒い剣先。影の中から突き出したそれは、形だけ見ればリンドヘルドそっくりと言えた。その剣が伸びてくる。影の中から、リンドヘルドそのものの姿をした黒い剣が姿を現わし、その剣を握る手に、腕に、肩に見える黒い鎧はギーア=タムールの物と色違い。そして影の中から現れる黒い頭、胸、腹。ただ色が黒いだけで、寸分違わぬギーア=タムールの生き写し。漆黒のそれがリンドヘルドを押し、青いギーア=タムールを後退させた。
ゲンゼルがゆっくりと身を起こす。
「余は暗愚なれば、策を知らず。この力が通じぬのなら、通じる力を借りるのみ」
青い聖剣と黒い剣が、つばぜり合いで火花を散らしている。
「ほう、この黒い偽物が通じると貴様は言うのだな」
ギーア=タムールの口元が緩んだ。嬉しげに、楽しげに。黒いゲンゼルも笑う。
「通じるともさ。通じぬのなら、そなたの力は偽物だ」
音が凍った。絶対的無音の世界。氷の山脈では風の音すら聞こえない。その恐怖すら感じる静寂の中で、雪が降る。山肌にまとわりついていた雲や霧が、すべて一瞬で雪となり、地面に向かって降りて行くのだ。視界を遮るすべての物が消え去った山頂に、月光を背負い立つ巨大な影。それはまるで幻のように、おぼろな光を透過させる。
透明な、耳のない熊を思わせる四足のシルエット。口は大きく裂け、見開かれた目は虹色に輝く。
「あれが……ザンビエン、なのか」
しがみついて震えるタルアン王子の声に、魔道士ダリアム・ゴーントレーはうなずく。
「左様にございます。あれこそ魔獣、そして精霊王ザンビエン」
ダリアムは叫ぶ。
「いと正しき精霊王に申し上げる! いまここにダリアム・ゴーントレーが、リーリア王女殿下をお連れ致した! 供贄の儀を執り行いたく存ずるが、いかがか!」
リーリアはザンビエンを見上げ、身を固くする。だが。
――機を逸したな
頭の中に直接響く、それはザンビエンの声。直後、星月夜の空が白い輝きに包まれる。大気が震動し、大地が鳴動する。
「ななな、何だ、何が起こってる」
焦るタルアンに応えもせず、ダリアムは白く輝く空を見つめていた。空の、その上を。
「これはまさか」
――そう、天使だ
ガステリア大陸の上空遙か、宇宙空間の高さに浮かぶ白い群れ。白い四角柱に二本の腕を生やし、背中には白い四枚の翼。それが十三体で円を描く。その円の中心から、氷の山脈に向けて白い光線が音もなく放たれた。しかし光線は地表にまで届かず、その中間あたりで見えない壁に阻まれる。
――あの程度の天使など、倒すだけなら造作もないが
それが何かはわからない。だが何かがザンビエンに不安を呼び起こしている。魔道士はたずねた。
「生け贄だけでは如何ともし難いと申されるのか」
――心配はするな
伝わってきたのは、苦笑と呼んでも良いであろう感情。
――そなたとの約束は守ってやろう。ただし、その前に一つ頼みがある
頼み? 精霊王ザンビエンが、人間の魔道士に頼み事とは驚きである。
「何でございましょう。このダリアム・ゴーントレーに可能な事であれば何なりと」
また空が輝き、世界が震えた。
――ならば急げ
ザンビエンは言う。
――新たな宿主を用意するのだ
「各団長は陣形を整えよ! 人間どもを街に入れるな!」
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「おのれ、おのれおのれおのれ!」
そのフンムの目の前で、突然ルーナの姿が消えた。いや、沈んだ。
「ぬあっ」
前のめりになった巨体の懐にルーナの体は入り込み、魔獅子公の太い腕を引っ張りながら腰で跳ね上げる。綺麗な一本背負いが決まり、フンムは顔面から地面に叩き付けられた。
「おまえ如きの相手をしている暇はない」
背を向けて走りだそうとしたルーナの足が、止まる。
「ならば誰の相手をしたい?」
月光の将の行く手を阻むのは、毒蛇公スラと黒山羊公カーナを引き連れた、妖人公ゼタ。片手下段に構えた妖刀土蜘蛛が、黄金の刃をきらめかせている。そして背後ではフンムの立ち上がる気配がする。
「……しつこい」
ルーナはいまいましげに舌打ちをした。
屋根の失われたフーブ神殿の中、何かに耳を澄ませるように、ジクスが遠くの気配を読み取っている。
「ザンビエンが目覚めた……でも何だこれは。天使か」
「それもまた天使です。階位は下がりますが、数を頼んで敵対する者を蹂躙します」
同じ物を見ているかのように風の巫女は言う。
「ギーア=タムールが来るまでの時間稼ぎにしても、ザンビエンの相手としては力不足だよね」
そう言うジクスに、「そうでしょうか」と巫女は返す。
「この封じられていた時間は、ザンビエンにとって少々長すぎたのかも知れません」
「まさか、ザンビエンが老いたとでも言いたいの」
不審げに見つめる炎竜皇に、巫女は微笑んだ。
「精霊王ザンビエンの体は、ちょうどあなたとは逆になります。あなたがジクリジクフェルの姿を外殻として内側に天竜地竜の力を封じているのとは反対に、ザンビエンは強力な中心核によって強大な力を外周に引き留めているのです」
「……つまり、その中心核の力が衰えている?」
どこまで本当なのだろう、とジクスは思う。ザンビエンの体の秘密を何故フーブが知っている。いや、フーブだからこそ知っていても不思議はないのだが。そんなジクスの心を知ってか知らずか、巫女は笑顔でうなずいた。
「もっと早く生け贄の血を浴びる事ができれば、状況は違っていたのかも知れません。でもそれは叶わなかった。私たちが動いた事によって事態が変化したのです。我々の勝利と言えるでしょう」
そう言う巫女に、しかしジクスは「そうだろうか」と首をかしげる。
「そんな簡単に勝てる相手なら、苦労はしないと思うんだけど」
「妙じゃな」
戦場となったフーブ神殿から避難した三老師であったが、『遠目』のツアト師は星空を見上げて目をしばしばさせている。
「どうした。何か見えとるのか」
たずねたのは『早耳』のコレフ師。ツアト師は首をひねる。
「いや、ザンビエンの様子が上手く見えんような気がしたんだが、おまえさんの方は何事もないかね」
コレフ師は小馬鹿にしたように笑った。
「そりゃあ老眼が入っとるんだろう、爺さんだからな。こっちはちゃんと聞こえておるよ」
「そうか。まあそれなら構わんのだが」
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「ただし、貴様は一つ勘違いをしている。このギーア=タムールに、疲れ果て倒れる瞬間など来るはずがないのだ」
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「それは好都合!」
聖剣リンドヘルドが大上段から斬りかかる。黒い剣も同じく斬りかかる。風を纏った二本の剣がぶつかったとき、風は合流し、巨大な一つの竜巻を生み出した。その中心にいるのは、青と黒のギーア=タムール。
竜巻は銀色の大地をえぐり取りながら天地をつなぐ。暗愚帝を、周りのすべてを飲み込みながら巨大化する。そして。銀色の空に青い亀裂が走った。
星空に青い亀裂が走った。夜が砕け散る。天から降りてきた竜巻は大地に触れると、怨嗟の声の如き唸りを上げて吹き荒れ、あらゆる物を打ち倒し、打ち砕きながら消え去った。跡に残るのは人影が二つ。青と黒のギーア=タムール。いや、そこに三つ目が落ちてきて地面に叩き付けられた。夜より黒い暗愚帝である。
「うぬぬ」
地面に貼り付いた体を引き剥がすようにゲンゼルは身を起こす。ギーア=タムールは己の影と打ち合いながら笑った。
「ほう、あの高さから落ちて無事か。頑丈さだけは褒めてやる」
「余は暗愚なれば、壊れる事を知らぬ」
しかし多少は堪えたのか、ふらつきながら立ち上がる。そして周囲を見回した。
「グアラグアラに戻って来たのか」
「おうとも。貴様の作ったこの偽物がそれなりの力を発揮してくれたからな。フーブの結界如き楽に破れたわ」
青い聖騎士団長は、まったく毛の先ほども疲れた様子がなく、笑いながら剣を振るう。
「とは言え、いささか飽きてきたな」
ギーア=タムールは下段から斬り上げる。黒い偽物は上段から振り下ろした剣でそれを受けた。その瞬間、聖剣リンドヘルドが強く輝く。光が青みがかっている事を除けば、まるで地上に降りた太陽のように。
「悪いがこれは真似できまい」
光を受けた黒い偽物は身もだえ、その体はボロボロと崩れ出した。
「何故ならこれは天界の光だからだ。天界は絶対であり唯一無二。それを模倣できる力など、どの世界にも存在しない」
そしてリンドヘルドが一閃、黒いギーア=タムールは縦に半断され、同時に無数の破片となり果てる。
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