強請り屋 悪魔の羽根顛末

柚緒駆

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篠生幸夫

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 チャレンジ四日目。

 学校をサボった。キャプテンの指示だ。今日は睡眠薬を手に入れなければならない。何日分もらえばいいんだろうか。とりあえず、なるべくたくさん手に入れろと言われてるんだけど。

 家の近所に精神科の病院があったので、そこを狙った。もう一ヶ月ほど眠れていない、医者にはそう言った。一生懸命に言った。それなのに。

「あと一週間だけ様子を見ましょう。できれば次は保護者の方と来てください」

 そう言って薬を出してくれなかった。ムカつく。何で患者の言うことを素直にきかないのか。お金は払うと言ってるのに、どうしてこんなに頭が固いのか。

 でもまあいい。二軒目の医者は何も言わず薬を出してくれたから。二週間分。これだけあれば……あれば、どうするのだろう。キャプテンは何をするつもりなのだろう。

 いや、そんなことを考えても仕方ない。まだ時間はある。今日中にもう一軒くらい病院を回れる。今はとにかくチャレンジをクリアするんだ。全部クリアするんだ。そうすれば、頑張れば、努力すれば、きっと私にも悪魔が見えるようになる。

 ◆ ◆ ◆


 最初の診療所の自動ドアをくぐったのが朝八時半。今は昼の二時だ。なのにまだ二軒しか回れていない。医者ってのは何でこんなに待ち時間ばかりなんだ。しかもまったく収穫なし。患者じゃないなら帰れときた。金は払うって言っても話を聞かない。まったく頭が固いというか融通が利かないというか。くそっ。

 寂れたレストランの喫煙席で俺はタバコをくゆらせていた。目の前ではジローがカレーをむさぼり食っている。一応他人の目も気にはなるんだが、こいつはパンや握り飯を食わないからな。何も食わせない訳にも行かないし、まあ諦めの境地ってやつだ。

 さて、仕事のことを考えるか。内科、内科と来て、次はどうする。外科に行くか精神科にするか。普通、個人開業医は夕方までしか開いていない。今日中に回れるとしたら、あと一軒で終わりだろう。しかし患者じゃないと、また追い出されるかも知れない。これ以上無駄足を踏むのはもう勘弁……いや、待てよ。そうか、患者がいればいいのか。


 篠生メンタルクリニックは、建売住宅が並ぶ郊外のベッドタウンの中にあった。道をはさんだ向かい側にある駐車場にクラウンを停める。午後の診察受付は四時半まで。ギリギリだが、とりあえず当たってみるしかない。二階部分にある入り口まで階段を上がってドアを押し開けると、乾いたドアベルの音が響いた。待合室はベージュ系統の内装で、ちょっと薄暗い。受付には看護師らしき眼鏡をかけた中年の女が、無表情にこちらを見つめている。

「すいません、こいつ初診なんですけど、大丈夫ですか」

 後ろに立つジローを指さすと、女は慣れた風にうなずいた。

「保険証をお願いします。あと、この問診票を書いてください。それと予約の患者さんが優先になりますので、しばらく待っていただきますけどよろしい?」
「ええ、それは構いません」

 俺にクリップボードに挟まれた問診票を渡すと、女は保険証を受け取り、一度奥に消えた。


「初めまして、篠生と言います」

 医者は人懐っこそうな笑顔で挨拶した。しかし一人がけのソファに座ったジローは、相変わらず膝を抱えて真正面だけを見つめている。その後ろに立つ俺に、篠生幸夫――あのメモにはそうあった――は顔を向けた。

「いつもこんな状態ですか」
「そうですね、食うときと寝るとき以外は、だいたいこの感じで」

 白い部屋の中で俺の言葉にうなずく篠生は、五十歳手前くらいに見えた。身長は俺と同じくらい、百七十二、三というところだろうが、全体的に線が細いので、もう少し小柄にも見える。詰襟の白衣を着て、白髪交じりの頭をキッチリなでつけていた。清潔感の塊だな、というのが第一印象だ。

「この状態について、これまでに診断を受けたことは?」

 カルテに何やら書き込みながら、篠生はそうたずねる。

「さあ。こいつの親のことは、ちょっとよくわからないんですが、まあ病院に連れて行くような感じではないんじゃないかと。もっとも俺も、何処の病院の何科に連れて行けばいいのかわからずに、とりあえずここに連れて来たんですがね。で、どうです。やっぱり自閉症ですか」

 篠生は一瞬、同情するような視線をジローに向けた。

「この状態は、一度見ただけですぐ診断が下せるような性質のものではありません。正確な診断は専門病院でなければ無理です。ただ、いま見えている症状だけでも、自閉スペクトラム症、いわゆる自閉症の可能性は高いと思います」

「なるほど、そりゃ良かった。いや、良くはないな」
「いえ、お気持ちはわかります。何事も正体不明というのが、一番不安で据わりが悪いですからね。どんな病気であれ、名前がついたことに安心する患者さんや親御さんは多いですよ」

 そう答える篠生の態度は、患者とその家族に対する真摯なものに見えた。いまだ。いまこの雰囲気に乗っかるしかない。

「先生、ついでに関係ないこと聞いてもいいですか」
「いいですよ。何でしょう、私に答えられることであれば」

「ここは大帝邦グループと取引はありますか」

 眼差しに一瞬不快感がよぎったが、篠生は笑顔を崩さなかった。

「大帝邦ですか。調剤薬局を間に挟んでということなら別ですが、直接の取引はないはずですね」
「では肥田久子さんをご存じですよね。いや、藤松久子さんと言った方が通りがいいのかな」

 この問いには数秒の沈黙があった。口元に手を当て、考え込んでいる。

「大学病院の藤松先生ですか。学生時代にはお世話になりましたが、最近は……いや年賀状は出してたのかな」
「肥田久子さんは、個人的に先生を大変信頼されているそうです」

「なるほど、あの方のお知り合いですか」
「ええ、まあちょっとした知り合いで」

「それはそれは。つまり、あなたが彼をここに連れて来たのは、家や仕事場が近かった訳でも、私の良い評判を聞いたからでもないということなのですね」

 篠生は残念そうにため息をついた。だがそんなことを気にしている場合ではない。俺は焦る気持ちを止められなかった。

「肥田久子さんをご存じなら、海崎志保さんもご存じでしょう」

 篠生は数秒間笑顔で俺を見つめると、机の一番下の引き出しからA4サイズの紙を数枚まとめて二つ折りにしたものを取り出した。

「症状のチェックリストです。記入して次回の診察の際に持ってきてください。来週予約を入れておきますので、紹介状を書くかどうかはそのとき決めましょう」

 リストを差し出すその手は、これ以上何も答える気はない、という明確な意思表示だった。


「この状態について、これまでに診断を受けたことは?」

 PCの画面とキッチンの照明だけが明かりの薄暗い事務所で、ジローによる篠生幸夫の『復習』が始まっていた。だがいかんせん接した時間が短い。つまりは情報量が少ない。ここから何かを見出すのは至難の業と思われた。

 コピーした篠生幸夫の姿を出し続けるジローを横目で見ながら、俺は渡されたチェックリストにレ点を記入して行った。

・言葉をしゃべらない  喋らないな、確かに。
・言葉で指示しても反応しないことがある  あるな。毎日だ。
・触られるのを極端に嫌がる  これはどうだ。触ることがないからわからん。
・嫌いな音がある  ないんじゃねえのか。こいつが嫌がる顔見たことがないぞ。

 チェックを入れながら、俺はリストに隠されたメッセージがないか考えてみた。だが不特定多数の患者に渡されるリストだ、普通に考えて俺へのメッセージなんぞ込めようがない。縦に読んでも斜めに読んでも、浮かび上がる意味なんて何もなかった。

 吸い殻を灰皿でもみ消し、新しいタバコに火を点けると、思いきり煙を吸い込んだ。そして天井に向けて吹き付ける。こりゃまたハズレか。もう何回目なのかわからない、ジローの『復習』に目をやった。

「それはそれは。つまり、あなたが彼をここに連れて来たのは、家や仕事場が近かった訳でも、私の良い評判を聞いたからでもないということなのですね」

 ん?

「ちょっと待て。止まれ」

 何だ、いまのは。

「いまの『それはそれは』からもう一度繰り返せ」

 ジローは中空を見つめ、笑顔を作る。いかにも作り笑顔らしい笑顔を。

「それはそれは。つまり、あなたが彼をここに連れて来たのは、家や仕事場が近かった訳でも、私の良い評判を聞いたからでもないということなのですね」

 そう言った直後だ。

「よし止まれ」

 ピタリと止まったジローの両手は、軽く組まれているように見えた。だがよく見ると組み合わされていない。俺は部屋の明かりを点けた。そしてもう一度間近でジローの両手をじっくり見つめた。

 右手の指が、左手の人差し指に触れていないのだ。右手の人差し指と、そして親指が、左手の薬指に触れている。くそっ、何でいままで気付かなかった。俺はジローの正面に座り直した。

「ジロー、いまおまえの左手の薬指に何が見える」

 ジローの顔から作り笑顔が消え、その視線は俺を通り過ぎた。言葉は返ってこない。だが待つ。その甲斐があったのか、やがてジローの重い口が動いた。

「……指輪。金色」

 事務机に走り、PCで検索した。『指輪に触る 心理』と。いろんなサイトやブログがヒットする。だがどのページにも、ほぼ同じことが書いてあった。

――不安・緊張からの解放、ストレスの発散

 ネットで調べられる程度のことに、どれほどの信憑性があるのかはわからない。まして心理学など学んだことはないので、この情報がどの程度正しいのかも不明だ。だがもしこれが正しいと仮定した場合、あの瞬間、篠生幸夫にいったいどんな不安や緊張があったのか。何にストレスを感じていたというのか。直前には肥田久子について質問している。それが原因だろうか。それとも。

 今度はジローの正面に立った。

「よしジロー、さっきの続きを出せ」

 ジローの目の焦点が俺に結ばれる。そして残念そうにため息をついた。そうだこの後、海崎志保について知っているかを質問したのだ。ジローは俺を数秒間、笑顔で見つめる。

「もういい、ジロー。今日はやめだ」

 テーブルの上の灰皿でタバコをもみ消すと、キッチンに向かった。またいつもの如くカレーの準備をしながら頭の中を回転させる。

 篠生が緊張したのは、肥田久子について質問したせいか。それとも、肥田久子の名前が出た以上、次に海崎志保の名前が挙がる可能性があると気付いたせいか。もしそうなら。もし篠生が海崎志保の何かを知っていると仮定すれば。

 ……その『何か』が何なのか、わからないと話にならんな。いったい何だ。研究所の事故のことか? だがネットで調べられる範囲では、篠生が開業したのは十数年前だ。事故が起きたときは、すでにあの場所でメンタルクリニックを経営していたことになる。一介の町の精神科医が、大企業の研究所の中にいたとは考えづらい。いや、中にいたら死んでいるか。しかし外にいて、何をする。何ができる。

 ピーッ。電子音が思考をさえぎる。電子レンジから取り出したカレーの入った丼にスプーンを突っ込み、ジローの前に置いた。

「これ食って寝ろ。ここで寝るなよ、自分のベッドで寝ろよ」

 返事もせずカレーをむさぼり食うジローを放置して、部屋の電気を消し、再びPCの前に座った。タバコを咥えて火を点ける。

 明日はメモにあったもう一つの精神科に行ってみて、後は海崎志保のところで家政婦をしていたという女にも会いに行ってみるか。さて、どっちを先にしたもんかな。医者の方が時間がかかりそうだし、やっぱりこっちが先か。しかしいかに個人経営の開業医とはいえ、いまどき公式サイトもなしによくやって行けるな。行ってみたら休診ってことじゃなきゃいいんだが。
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