25 / 52
第五章 天正十一年十二月二十三日
二十五 我流の限界
しおりを挟む
この当たり前の鍛冶場に、もしかして当たり前でない物がないだろうか。孫一郎は目を皿のようにして探した。けれど見つからない。やはりここも普通の鍛冶場なのだ。少し意気消沈した孫一郎に、海塚が話しかけた。
「あなた和泉守だったのですか」
海塚が孫一郎に興味を持ったのは、初めてではなかろうか。孫一郎は慌てて手を振る。
「いえ、別に和泉国に領地があったとか、そういうんじゃないですよ。ただ先祖が一代限りでそういう名前をもらったっていうだけです。でもまあ、それがあって和泉国に行ってみたいと思った訳ですけど」
「へえ、お武家はよくわかりませんね」
「はは、かも知れません」
ナギサと少女が金床に近付き過ぎたので、慌てて引っ張り戻す。大鎚の可動域に立っていると、殴られる危険性があるからだ。二人に厳重に言い聞かせて、孫一郎は海塚の隣に戻ってきた。
「ところで海塚さまは、何処かに仕官なされたりはしないのですか」
孫一郎の問いに、海塚はギョッとした。
「しませんよ。所詮地侍は地侍、お武家になどなりたいとも思いません」
「もしかして、武家が嫌いなのですか」
「何故嫌いじゃないと思ったのです」
「だって、あんなに凄い腕前をしているのに」
「あんなものは我流も良いところです。あれで飯を食おうなどと思うほど、無謀でも世間知らずでもありません」
「我流では食えないのですか」
思わず口をついて出たその言葉は、孫一郎の包み隠さぬ本心であった。我流の何が悪いのだ。強い剣が振るえるのなら、我流でも良いのではないのか。美しい刀が打てるのなら、我流でも構わないのではないのか。しかし海塚は即答した。
「食えませんね」
そしてため息をつくと、諭すようにこう言った。
「武芸であれ何であれ、飯が食いたいのなら他人に教える事です。教えられれば飯は食えます。しかし教えるためには、そのための技や理が要るのです。言葉にするのも大事でしょう。けれど私は誰かに教わった事がありません。どうやって他人に教えれば良いのかの筋道を知りません。だから私の剣は私にしか使えないのです。息子にすら教えられません。それが我流の限界です」
つまり教育のためには体系的な技術と理論と、その言語化が重要という事だ。聞くとはなしに会話を聞いていたナギサであったが、海塚をちょっと見直した。ただの嫌みったらしいオヤジではないようだ。
鎚音が重く響く。赤く焼けた鉄が形を変えていく。口を利けぬ少女は魅入られたようにそれを見つめていた。
「だけどさ」
ナギサは会話に割って入った。
「そこまでわかってるんなら、侍になった方が得なんじゃないの、逆に」
「何が逆なのか良くわかりませんが、武家になど、なりたくはありません」
海塚は首を振る。しかしナギサには納得がいかない。
「何でそこまで嫌がるの」
「だって、つまらないじゃないですか」
この答には、さすがに虚を突かれた。ナギサも孫一郎も、しばし言葉が出てこない。
「……えーっと、そういうもんなの?」
首を傾げるナギサに、海塚は呆れたような顔でこう言った。
「戦国の世はもうすぐ終わります。羽柴か徳川かは知りませんが、誰かが天下を平定するでしょう。そうなれば武家の天下になります。でもね、武家の天下とは、武家が好き勝手できる世の中という訳ではないのですよ」
「そうなのですか」
孫一郎も意外そうだ。
「京の公家を知ってるでしょう。彼らとて昔々、本を正せば田舎の土豪に行き着くのです。武家と変わらないのですよ。武家が天下を平定すれば、いずれ武家が公家のようになるだけです。公家が好き勝手にできていますか。地位ばかり高くても何も出来ずに、帝の顔色をうかがっているだけでしょう。そんなのつまらないじゃないですか」
ナギサは思う。何もできないとは、何ができない事を意味しているのだろう。権力を持っているからこそ、自由にできる物事も多いはずなのだが、海塚の言いたいのは、そういう事ではないらしい。
「では生涯、地侍を続けるおつもりですか」
孫一郎の問いに、海塚はこう答えた。
「地侍など、すぐに居なくなります」
「えっ」
「あちこちの大名が刀狩りをしているのです。知りませんか。天下が平定されれば、村にある刀や鉄砲は取り上げられるのですよ。刀のない地侍など、百姓と何が違うのですか」
それは歴史的に正しいと言えるね。ナギサの脳にピクシーが伝える。
「では海塚さまは百姓になるのですね」
孫一郎は少し残念そうだ。だが。
「いいえ、私は町人になります。好き勝手に生きたいですから」
海塚の言葉に、孫一郎はまた絶句。ナギサは思わず突っ込んだ。
「町人なら好き勝手に生きられるっていうの」
「今はまだ無理ですよ。でも見ていてごらんなさい、いつか町人がのさばる時代がやってきます。銭さえあれば、誰でも好き勝手に生きられる世の中になるのです」
海塚の目がらんらんと輝いている。さしものナギサも舌を巻いた。この海塚という男、いったい何が見えているのだろう。教養があるとかないとかのレベルではない。生まれる時代と場所を間違っているのではないか。
鎚の音は響いている。少女もまだ見入っているが、頭領が孫一郎に刀を返しに来た。そろそろ鍛冶場を出る頃合いだろうか。だが頭領から茶に誘われた。ナンパではない。お点前を披露する、あの茶である。こんな所に茶室なんてあるのかとナギサは訝ったが、孫一郎も海塚も、迷惑そうにはしていない。鍛冶場を見せてもらったのだ、それくらいは付き合うという事か。
自分が暮らしていた時代の社会に比べれば、何事にも鷹揚なのだな、とナギサは思った。難しく考える必要もないのかも知れない。仕方がないので、ピクシーに茶道の基本的なマナーを教えてもらおう。寺内町に帰るのは、夕方くらいになるのだろうか。
「あなた和泉守だったのですか」
海塚が孫一郎に興味を持ったのは、初めてではなかろうか。孫一郎は慌てて手を振る。
「いえ、別に和泉国に領地があったとか、そういうんじゃないですよ。ただ先祖が一代限りでそういう名前をもらったっていうだけです。でもまあ、それがあって和泉国に行ってみたいと思った訳ですけど」
「へえ、お武家はよくわかりませんね」
「はは、かも知れません」
ナギサと少女が金床に近付き過ぎたので、慌てて引っ張り戻す。大鎚の可動域に立っていると、殴られる危険性があるからだ。二人に厳重に言い聞かせて、孫一郎は海塚の隣に戻ってきた。
「ところで海塚さまは、何処かに仕官なされたりはしないのですか」
孫一郎の問いに、海塚はギョッとした。
「しませんよ。所詮地侍は地侍、お武家になどなりたいとも思いません」
「もしかして、武家が嫌いなのですか」
「何故嫌いじゃないと思ったのです」
「だって、あんなに凄い腕前をしているのに」
「あんなものは我流も良いところです。あれで飯を食おうなどと思うほど、無謀でも世間知らずでもありません」
「我流では食えないのですか」
思わず口をついて出たその言葉は、孫一郎の包み隠さぬ本心であった。我流の何が悪いのだ。強い剣が振るえるのなら、我流でも良いのではないのか。美しい刀が打てるのなら、我流でも構わないのではないのか。しかし海塚は即答した。
「食えませんね」
そしてため息をつくと、諭すようにこう言った。
「武芸であれ何であれ、飯が食いたいのなら他人に教える事です。教えられれば飯は食えます。しかし教えるためには、そのための技や理が要るのです。言葉にするのも大事でしょう。けれど私は誰かに教わった事がありません。どうやって他人に教えれば良いのかの筋道を知りません。だから私の剣は私にしか使えないのです。息子にすら教えられません。それが我流の限界です」
つまり教育のためには体系的な技術と理論と、その言語化が重要という事だ。聞くとはなしに会話を聞いていたナギサであったが、海塚をちょっと見直した。ただの嫌みったらしいオヤジではないようだ。
鎚音が重く響く。赤く焼けた鉄が形を変えていく。口を利けぬ少女は魅入られたようにそれを見つめていた。
「だけどさ」
ナギサは会話に割って入った。
「そこまでわかってるんなら、侍になった方が得なんじゃないの、逆に」
「何が逆なのか良くわかりませんが、武家になど、なりたくはありません」
海塚は首を振る。しかしナギサには納得がいかない。
「何でそこまで嫌がるの」
「だって、つまらないじゃないですか」
この答には、さすがに虚を突かれた。ナギサも孫一郎も、しばし言葉が出てこない。
「……えーっと、そういうもんなの?」
首を傾げるナギサに、海塚は呆れたような顔でこう言った。
「戦国の世はもうすぐ終わります。羽柴か徳川かは知りませんが、誰かが天下を平定するでしょう。そうなれば武家の天下になります。でもね、武家の天下とは、武家が好き勝手できる世の中という訳ではないのですよ」
「そうなのですか」
孫一郎も意外そうだ。
「京の公家を知ってるでしょう。彼らとて昔々、本を正せば田舎の土豪に行き着くのです。武家と変わらないのですよ。武家が天下を平定すれば、いずれ武家が公家のようになるだけです。公家が好き勝手にできていますか。地位ばかり高くても何も出来ずに、帝の顔色をうかがっているだけでしょう。そんなのつまらないじゃないですか」
ナギサは思う。何もできないとは、何ができない事を意味しているのだろう。権力を持っているからこそ、自由にできる物事も多いはずなのだが、海塚の言いたいのは、そういう事ではないらしい。
「では生涯、地侍を続けるおつもりですか」
孫一郎の問いに、海塚はこう答えた。
「地侍など、すぐに居なくなります」
「えっ」
「あちこちの大名が刀狩りをしているのです。知りませんか。天下が平定されれば、村にある刀や鉄砲は取り上げられるのですよ。刀のない地侍など、百姓と何が違うのですか」
それは歴史的に正しいと言えるね。ナギサの脳にピクシーが伝える。
「では海塚さまは百姓になるのですね」
孫一郎は少し残念そうだ。だが。
「いいえ、私は町人になります。好き勝手に生きたいですから」
海塚の言葉に、孫一郎はまた絶句。ナギサは思わず突っ込んだ。
「町人なら好き勝手に生きられるっていうの」
「今はまだ無理ですよ。でも見ていてごらんなさい、いつか町人がのさばる時代がやってきます。銭さえあれば、誰でも好き勝手に生きられる世の中になるのです」
海塚の目がらんらんと輝いている。さしものナギサも舌を巻いた。この海塚という男、いったい何が見えているのだろう。教養があるとかないとかのレベルではない。生まれる時代と場所を間違っているのではないか。
鎚の音は響いている。少女もまだ見入っているが、頭領が孫一郎に刀を返しに来た。そろそろ鍛冶場を出る頃合いだろうか。だが頭領から茶に誘われた。ナンパではない。お点前を披露する、あの茶である。こんな所に茶室なんてあるのかとナギサは訝ったが、孫一郎も海塚も、迷惑そうにはしていない。鍛冶場を見せてもらったのだ、それくらいは付き合うという事か。
自分が暮らしていた時代の社会に比べれば、何事にも鷹揚なのだな、とナギサは思った。難しく考える必要もないのかも知れない。仕方がないので、ピクシーに茶道の基本的なマナーを教えてもらおう。寺内町に帰るのは、夕方くらいになるのだろうか。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
妹がいなくなった
アズやっこ
恋愛
妹が突然家から居なくなった。
メイドが慌ててバタバタと騒いでいる。
お父様とお母様の泣き声が聞こえる。
「うるさくて寝ていられないわ」
妹は我が家の宝。
お父様とお母様は妹しか見えない。ドレスも宝石も妹にだけ買い与える。
妹を探しに出掛けたけど…。見つかるかしら?
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
《勘違い》で婚約破棄された令嬢は失意のうちに自殺しました。
友坂 悠
ファンタジー
「婚約を考え直そう」
貴族院の卒業パーティーの会場で、婚約者フリードよりそう告げられたエルザ。
「それは、婚約を破棄されるとそういうことなのでしょうか?」
耳を疑いそう聞き返すも、
「君も、その方が良いのだろう?」
苦虫を噛み潰すように、そう吐き出すフリードに。
全てに絶望し、失意のうちに自死を選ぶエルザ。
絶景と評判の観光地でありながら、自殺の名所としても知られる断崖絶壁から飛び降りた彼女。
だったのですが。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
婚約者の浮気相手が子を授かったので
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ファンヌはリヴァス王国王太子クラウスの婚約者である。
ある日、クラウスが想いを寄せている女性――アデラが子を授かったと言う。
アデラと一緒になりたいクラウスは、ファンヌに婚約解消を迫る。
ファンヌはそれを受け入れ、さっさと手続きを済ませてしまった。
自由になった彼女は学校へと戻り、大好きな薬草や茶葉の『研究』に没頭する予定だった。
しかし、師であるエルランドが学校を辞めて自国へ戻ると言い出す。
彼は自然豊かな国ベロテニア王国の出身であった。
ベロテニア王国は、薬草や茶葉の生育に力を入れているし、何よりも獣人の血を引く者も数多くいるという魅力的な国である。
まだまだエルランドと共に茶葉や薬草の『研究』を続けたいファンヌは、エルランドと共にベロテニア王国へと向かうのだが――。
※表紙イラストはタイトルから「お絵描きばりぐっどくん」に作成してもらいました。
※完結しました
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる