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【三ノ章】闇を奪う者

第四十九話 国外遠征終了

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 あの後、墓前の前で手を合わせ、ルシアにちゃんと休むように言ってから。
 俺達は避難場所に戻り、初めて《ディスカード》以外の世界を目にするセリスと子ども達を連れて、オルレスさんが働く病院へ向かった。
 セリスを筆頭に怪我をした子達の本格的な治療、及び体調に異常が無いかを詳しく調べる為だ。可能な限り手を尽くしたが、それで十分という訳にもいかないしな。
 その過程で世間の情報量の多さに放心している子達もいたが、フォローはエリックとカグヤに任せた。というのも病院への道中、救援に応じてくれた分校の生徒──サイネ達に礼を言っている最中に俺は気を失って倒れたらしい。糸が切れた人形のように、顔面から豪快に。
 翌日、目覚めた視界に入った白い天井とカラフルな管が左腕に集約している光景に既視感を抱きながら、心配した様子のシルフィ先生から説明を受けた。

『粉砕骨折した左腕全体と右手、治りかけたまま放置してたと思われる腹部の傷による出血多量、一部の内臓損傷。……調合手順を誤ったのでしょう、消えない霊薬の副作用による筋肉痛および断裂──本当に、意識を保っていたのが不思議なくらいの重傷ですよ』
『日本だったら間違いなく集中治療室へ突っ込まれてますね。ちなみに、先生に問答無用で殴られたのも関係してますか? いや、恨んでる訳ではないんですけど』
『…………内臓は、私のせいです。……ごめんなさい』
『いえ、ぶっちゃけ不審者な格好してた俺が悪いので気にしてないです。マジで』

 先生とオルレスさんの手によって一応の処置は施されていたが、その他にも蓄積した疲労が気の緩みによって解放された結果、気絶したのだとか。全く軟弱な身体だぜ。
 しかし魔力の過剰行使による血管の損傷などはないので、血液魔法で自然治癒を促進させてじっくり傷を癒すことにした。短期間に何度も重傷を負っているので身体へ負担を掛けたくないし。
 あと、これ以上この話題を掘り返すと先生が自罰的になりそうだったので全力でフォローした。


 俺が気絶している間に色々と段取りは進んでいたようで。セリス達の検査も滞りなく済んだ為、分校側に事情を伝えてそっちの方で皆を預かってもらっているそうだ。
 十数人ほどの集団だが押しかけても問題はないし、《ニルヴァーナ》や学園の説明をするとしても最適だろう。後で先生も合流するみたいだし。
 国外移動については驚くべきことに、学園長が《ニルヴァーナ》行きの特急列車一台を貸し切ってくれたらしい──明日の始発列車だけど。急過ぎませんかね?
 なんでも崩脚した《デミウル》の騒動の熱が冷めない《グリモワール》に必要以上に滞在して、また何かしらの事件に巻き込まれても困るという判断を下したそうな。
 俺だって好きで巻き込まれてる訳じゃないんですけど?
 ため息と一緒に溢した愚痴に、先生は苦笑を返してくれた。


 明日の早朝にオルレスさんと一緒に迎えに来るので、それまで安静にしているように、と。
 いつもより優しげな雰囲気で病室を出た先生を見送り、大人しく備え付けのテーブルに置いてあった新聞を読みふける。
 大きな見出しにはやはりというべきか、《デミウル》とカラミティ関連の情報が載っていた。
 一般人ですら噂程度に知っていたカラミティという組織が、明確に表舞台に出てきたことによる各企業の反応。血の海と化した本社ビル実験棟の内容と人体実験を行っていた施設の内部調査など、流出させた情報が良く回っているようだ。
 苛烈で非人道的な悪事を繰り返してきた医療系企業トップの行為は、メディアにとっては弄りがいのあるネタだろう。《デミウル》を運営していたファラン家も、くみしていた貴族連中もまとめて罰を受けるはずだ。悪事の対象が異種族だから、国内に根付いていた異種族排斥を問題視する意見も相まって批判を後押ししているみたいだし。
 すぐにでもとは言わないが、これで《グリモワール》に住む異種族の待遇が良い方向に傾けばいいと思う。
 ……ところで、この“《デミウル》社長、大手情報メディア企業ビルのロビーに全裸で放り込まれた!?”って記事は何? 縄で縛られた局部丸出しで青アザだらけの男の写真が載ってますけど。モザイクが仕事してるのに隠しきれてないよ、これ。
 ファーストが“最後の仕上げにコイツが必要だ”とか言って連れ帰ったはずだが、ジンの奴、こんなことがしたかったのか……?
 現在は警察が身柄を拘束して聴取を取っているらしいが、何かに怯えた様子で“赤い悪魔が、悪魔が来る……血のように赤い、悪魔が”と繰り返し、まともな受け答えが出来ていないと書かれている。ふーん、大変っすね。


 他に目を引く記事と言えば、襲撃当時に冒険者ギルドと警察が連携して被害を抑えていたことや、今も精力的に復興活動を行っている彼らへのインタビューくらいか。軍関係は一切話題に出てない……いや、今回の件で最も役立たずだったとか言われてるな。
 カラミティが退散してから駆けつけてきたみたいだし、軍の内部で足の引っ張り合いが起きてるとしか思えない。《デミウル》と繋がってた連中だっているだろうし、芋づる式に吊り上げられるのも時間の問題か。
 サウスさんはどうなったのかな……タロスも軍の方に戻ったみたいだし、心配だ……と、唸っていたら新聞の横に置かれていたデバイスの画面に、新着メッセージが来ていた。
 誰からだろう、と覗いてみれば。正に頭に思い浮かべていた人物であるサウスさんからのメッセージだった。

『君が入院したという話を聞いて色々と報告も兼ねて見舞いに行こうと思ったが、軍の方がゴタゴタしていて離れられそうにない。故に、メッセージで報告させてもらう──』

 内容は簡潔で、タロスが担っていた監視の解除や指示していた上位貴族の処罰、無関係な学生を軍の暗部に深く巻き込ませてしまったことへの謝罪、これからより密に冒険者ギルドや警察と提携して国家の腐敗に立ち向かっていく意気込みなど。
 堅苦しく事務的だが、どこか人情味が感じられる文章で。まだしばらく混乱が続くだろうが二度とこのような過ちが起きないよう努めていく、と締められていた。
 タロスのその後に関しては何も言及されていないので、そこが少し気になるが……返信したメッセージで聞けばいいか。


 一息ついて、窓の外を見る。燦燦さんさんと輝く太陽の下で変わらず蒸気を噴き出し、大地を蝕みながら繁栄する鉄と魔導の国は、徐々に変革の兆しをあらわしている。
 今回の事件がこの国にどんな波紋を及ぼすのか。
 日常の裏側に潜む闇は未だうごめきき続け、平穏を脅かしていく。それでも絶望せず、立ち向かう心を持つ人達がいるなら、きっとこの国は良くなっていくだろう。
 犠牲も挫折も、幾度となく繰り返すかもしれない。けれど、歩き続けた果ての終着点を望むのなら、いばらの道であろうと進んでいける。
 信念と意志を抱く人の強さは俺もよく知ってるから、頑張ってほしいと思う。








 ──翌日、快晴。朝早くだというのにも関わらず多くの人々が賑わいを見せる、二度目の利用となる《グリモワール》駅の中へ。
 シルフィ先生と、《ニルヴァーナ》への帰国を早めて着いてきてくれたオルレスさんを先頭に駅の構内を進んでいく。

「《デミウル》の件で怪我人も多く出たみたいですし、どこの医療機関も人手不足だと思いますけど……いいんですか? 帰っちゃって」
「構わないさ。元々無理を言って長く勤めていただけだからね、病院側も理解してくれたよ。何より、君という患者を診ておかないと心配になってきてしまったのでね。半月で二度も病院に、瀕死の状態で搬送されるような子を見捨てる真似はしたくないよ。……君のように治癒魔法、回復魔法が得意な子はその能力を過信して無茶をする。“後で治すから大丈夫”なんて甘い考えで身を滅ぼす冒険者を何人も見てきた。──君もその一人にはなりたくないだろう? ちゃんと最後まで付き合うさ」
「いやほんとすみませんお手数をお掛けします……」

 にこやかに笑っているが、内心すごい怒ってそう。
 昨日も凄まじい怒気を滲ませながら経過観察で熱心に診てくれて、気に掛けてもらっているのがよく分かった。
 緊急事態で仕方なかったとはいえ、怪我人の俺に子ども達の応急処置をさせたくなかったみたいだし。医者として、大人としても責任感の強い人なんだ。
 俺の怪我も骨折以外は完治したが、まだ安静にしておかないと怒鳴られる可能性が高い。ふふっ、自業自得とはいえツラいぜ。
 自嘲気味な思考を欠伸と共に噛み砕き、吊り下げた左腕の鈍痛を我慢しながら駅のホームへ続く階段を降りる。
 そういえば昨日サウスさんにメッセージを返信したら、タロスは《ネルガル工業》の方に引き取られてしまったから、詳細は分からないって言ってたな。イヴもあの日から会えてないし、色々世話になったからせめて挨拶あいさつぐらいはしておきたかったけど……仕方ないか。
 二人の魔導人形オートマタの姿を考えながら向かう先で、既に止まっている列車の窓から顔を出したエリックと目が合った。

「あれ、なんで……ってそういえば先に向かったって先生が言ってたか」
「おう、もう全員乗り込んでるぜ。お前の荷物もちゃんと全部持ってきたから、後で確認してくれ」
「そういや宿に置きっぱなしにしてたっけ。すっかり忘れてたよ、ありがとう。……っと、カグヤ」

 エリックの後ろでせわしく動いていたカグヤに声を掛ける。

「おはようございます、クロトさん」
「おはよう。なんだか忙しそうだけど、どうかした?」
「大したことではないと思いますが、セリスさん達が……」
「ん? セリス達に何か……うわぁ」

 気になったので中を覗き込むと、そこにはまるでギャンブルで金を溶かしたような表情のまま、背もたれに身体を預けるセリス達の姿が。

「《ニルヴァーナ》や学園の説明を聞いてからずっとあの調子なんです。白昼夢でも見ているかのようでして」
「正しく夢見ていた外の世界に連れ出されて、情報量の多さに圧倒されて思考を手放したか……まあいいや。その内、再起動するでしょ。そっとしておこう」
「お前、さりげなくひでぇな……」

 エリックの小言を聞き流しながら、列車へ乗り込もうとして──不意に、どこからか視線を感じた。
 振り返った視界の端。ホームに降りる階段の裏へ姿を消した二人組に、意識が向いた。
 傍から見れば、どこかの小国から流れてきた冒険者のように見える出で立ちの二人組だ。だが、その内の一人に、どこか見覚えがあった。

「あー……先生、俺、ちょっと飲み物買ってきます。まだ出発まで時間ありますよね?」
「え? そうですね……あと十分ほどで出発しますから、それまでに戻ってきてくださいよ?」
「分かりました」

 言い終わる前に、俺は小走りに駅のホームを駆け出した。




 自販機にメル硬貨を数枚入れて、缶飲料を三本購入。
『おしるこソーダ』に『ようかんコーラ』と『きんつばラムネ』──これを販売しようとした奴の気が知れないな。買った俺が言うのもアレだけど。
 すれ違う人の奇異の視線を無視してポケットに押し込めて、飲み慣れた『おしるこソーダ』を右手に、すぐそばにある背中合わせのベンチに腰掛ける。
 そのままプルタブを開けようと……開け……指が痛くて開けられねぇ。
 じわじわと痛む、包帯に巻かれた右手を忌々しげに見つめていると。背後から伸びてきた手に『おしるこソーダ』を取られた。
 炭酸の抜ける音の後に差し出された缶を受け取る。背中に感じる重量感が、誰かが後ろに座った事実を伝えてきた。

「すまないね、苦労してるように見えたので。余計なお世話だったかな?」
「いや、助かるよ。──それよりも、こんな所に何の用があってきたんだ。ジン・・

 独特な甘さと炭酸の不協和音を口の中で転がしてから、先ほど見掛けた二人組の片割れの名前を呼ぶ。

「……いやはや、やっぱり君にはバレてしまうか」
「異質な視線ってのには敏感なんだ。それに会話のテンポや癖ってのは中々変えられないから、直に聞けば見破るのは割と簡単だ。あと、単純に怪し過ぎる」
「これでもカラミティのトップとして素顔を晒す訳にはいかないからねぇ。これから外国に向かうぞー、っていう冒険者風に見せかけたんだけど」
「不審者にしか見えないよ。……で、最初の質問に答えてもらおうか。わざわざルシア・・・まで連れて、何の用だ」

 息を呑む音と同時に、ジンの隣に座った彼女──ルシアの気配が変わった。
 おそらく隠密系スキルを使っていたのだろう。霧のように掴みどころのない雰囲気が確かな形となって、最初からそこに居たのが当たり前と言わんばかりに自然と姿を現した。
 戸惑いと驚愕の視線に混じって、ふう、とジンがため息を吐いた。

「まったく、君には驚かされてばかりだな。カラミティ屈指の隠密技術を持ったセカンドの存在を暴くとは……本当に学生?」
「時間が無い。さっさと答えろ」
「はいはい。まあ、一つはカラミティという組織の新たな一歩を手伝ってくれた礼と、君をわずかにでもあなどっていた非礼を詫びようと思っていてね──ありがとう。そして、すまなかった」
「……暗部組織のトップに直接お礼を言われる経験なんて滅多にないし、共犯者の立場として素直に受け取っておくよ。もう二度と関わらないだろうしな」
「ふふっ、それはどうかな?」
「……なんだと?」

 聞き返した俺の反応に、ジンは心の底から楽しそうな口調で。

「もう一つ、伝えておくよ。──君は既に、僕が用意した遊戯盤の上にいるんだ。カラミティが掲げた思想を成し遂げる為の、ゲームの駒の一つ。キングではないが、ジョーカーと例えるのも違う……そうだね、あえてバグ特異点とでも言おうか。敵も味方も関係なく、ありとあらゆる可能性へ繋ぎ、変化させる力を持った特異点だ」
「何の話か分からないけど、勝手に盤上の存在にされても困るんだが?」
「力の一端を知ってしまったのだから、もはや逃れられないよ。君という個がカラミティという群に対し、どう動くのかが楽しみで仕方がない。ああ、僕の心がこんなにも好奇心で溢れるなんて……」
「ルシア、そいつの頭を斜め四十五度の角度でぶん殴るんだ。ショック療法で治そう」
「いや、さすがにそれはちょっと……」

 なんでだよ、お前の上司の頭がパーになってるかもしれないんだぞ。
 恍惚な笑みを垂れ流すジンに少し引いた様子のルシアに、ポケットから取り出した『ようかんコーラ』と『きんつばラムネ』を差し出しながら立ち上がる。

「これ、よければ二人で飲んで。俺はもうお腹いっぱいだから」
「え、なにこのゲテモノ……飲み物?」

 うんうん、それが常人の感想だよね。俺も『おしるこソーダ』を好んで飲もうとは思わないもの。
 訳の分からない妄言をまくし立てられて疲れたので、さっさと退散しようとした背中に。

「おっと、待ちたまえ。まだ話は終わってないぞ」
「あと五分くらいで始発が出るんですけど」
「なんだって!? くそ、やはり病院に無理矢理にでも侵入して話すべきだったか……!」

 恐ろしいこと言ってるな、こいつ。背中向けてるから表情が分からないけど、相当焦ってるみたいだし。

「仕方ない、君に立ちはだかる相手のヒントをやろう。そうすれば少しは不公平ではなくなるし、考察もはかどるだろう」
「もう反論する気も失せたけど、わざわざ敵に塩を送るような真似をあろうことかそのトップがやるのか……」
「ええい、やかましい! いいか、よく聞け! 君がこれから相対する者は全員が──適合者だ! 適合者同士はおのずと引かれあい、戦う運命に呑まれていく! そして君はその中でも稀有な特性を持っているが故に、遊戯盤に乗る十分な資格があったッ!!」
「何を言ってるんだ、魔剣なんて」
「既に手にしただろう? 暴虐を振るう烈火の如き紅の意思を、君は体験したはずだ」

 ジンの口走ったフレーズに、聞き覚えがあった。脳裏に閃く光景が鼓動を早める。
 身体を取り戻した際に一瞬だけでも感じた驚異的な破壊の力。シオンが持っていた青の双剣も同様に特別な能力を持っていた。
 あんな超常の力を持った魔剣が他にも存在していて、適合者とやらがカラミティ側に複数人いるってのか……? しかもそいつら全員、なんでか分からないけど俺に刃を向けてくる……え、理不尽過ぎない?

「とにかく君はこのゲームから降りられない、それは確定事項だ。戦わないという選択をしたら、君の周囲にも危害が及ぶだろう。不幸を振りまく存在になりたくなければ──戦いたまえ、特異点クロト

 宣戦布告とも取れる、子どもの癇癪のような。しかし根底にある揺るがない目的を宿した声を最後に、二人の気配は離れていった。
 飲みかけの『おしるこソーダ』を片手に、静かに天井を見上げる。

「……闇組織の手なんて借りなければ、変な因縁つけられなかったのかなぁ」

 呆然と呟いた言葉は誰にも届かず、流れ込んできた新情報の波に流されていった。




「ん、クロト、戻ってき……なんでそんな疲れ切った顔してんだ?」
「気にしないで……いや、やっぱり後で話すよ。今はとりあえず、休ませて……」
「お、おう」

 引き攣った表情のエリックに首を振りながら、空いていた窓際の座席に深く座り込む。
 変質者に絡まれ訳の分からない妄言に付き合わされ、挑戦状じみた宣言を叩きつけられるという、朝から濃い時間を過ごす羽目になって俺の精神はボロボロである。
 なんなんだよ、遊戯盤の特異点バグって。《異想顕現アナザーグレイス》なんて得体の知れない厄ネタに悩まされてるのに、今度は適合者同士の戦いに強制参加? 俺ってのろわれてるのかな。
 そもそも魔剣は回収されて専用施設に保管されているはずだ。手元に実物が無い以上、適合者とどうやって戦えと?

「はあ……」
「にぃに……」
「んお? どうした、ユキ」

 ぼ~っと窓の外を眺めていると、孤児院組では誰よりも早く復帰したのか。ユキが眠そうに目をこすりながら、俺の隣にちょこんと座った。

「あのね、夢、見たの。背の高い人がね、二人でね。頭を撫でてくれて、あったかくて、ふわふわで優しくて……でも、どこかに飛んでいっちゃうの。いかないでって、言っても、大丈夫だからって。……これ、なんなんだろ」
「……そっか」

 ユキは攫われた日の出来事をあまり覚えていない。
 ルーザー率いる《デミウル》の特殊部隊が孤児院に押し入り、セリスが襲われそうになった所を助けようとして麻酔で眠らされたようだ。
 だから、その後の──本社ビルで戦った、ユキの父親については何も知らない。
 自分の名前以外の記憶を失っていた彼女に事の顛末てんまつを伝えても、実感がないだろうから言うつもりはない。
 その辺の踏ん切りはエリックと話して決着がついたから、聞かれたら正直に話すが。
 でも、親に貰った初めての贈り物名前だけは忘れていなかった。その事実は、愛し愛されていたという無意識の自覚のおかげだろうと思っている。
 だからこそ──。

「これから始まる新しい生活に、寂しさを感じてるんじゃないかな? 《ディスカード》だけが皆の世界で、危険もあるけど間違いなくホッと出来る居場所だったから。そこから離れちゃうってのは、確かに寂しいよ」
「さびしい、かぁ……」
「うん。だけど《ニルヴァーナ》や学園にいてもそうならないように頑張るし、不安や分からないことがあれば遠慮なく俺とかエリック、カグヤ、先生を頼ってくれ。出来る限り、力になるからさ」

 こくりこくりと船を漕ぐユキの頭を撫でて。
 ポケットから取り出した、二つの指輪に紐を通しただけの簡素なペンダントを手渡す。

「これ、お守り代わりに持っておいて。《ディスカード》のアクセサリー屋さんほどの物とはいかないけど、きっとユキを守ってくれるよ」
「わあ、いいの? ありがとう……──なんだか、懐かしい匂いが、するね……」
「…………ユキにとっては、そうかもしれないな」

 ペンダントを胸元に抱き寄せながら、背もたれに身体を預けて寝息を立て始めた。
 子どもとはいえ、激動の毎日だったし疲れが溜まってたんだろうな。ゆっくりと寝かせてやろう。

「……はぁ、平穏で何事もなくダンジョン攻略しながら鍛冶したいなぁ。炉の熱と槌の感触が懐かしく感じる……」
「やっほ! クロト!」
「びゅおッ」

 現実逃避に願望を独りちていたら、窓の外からの挨拶に身体が跳ねた。ぶつけた身体に生じる衝撃が痛みを増幅させる。
 今度はなんだ? そう思いつつ、声の主へ目を向けると。
 そこに居たのは分校の生徒、サイネだった。

「びっくりした……サイネか。どうしてここに? わざわざ見送りに来てくれたの?」
「本当は遠征依頼に参加した皆で来ようと思ったんだけど、分校に復興活動の依頼が入っちゃってさ。他の皆はもう始めてるんだけど、わたしはどうしてもコレを届けたかったから来たんだ」

 そう言ってサイネが差し出してきたのは、銀色に輝く小型のアタッシュケースだった。

「ナニコレ……?」
「色々お世話になったし、同じロマンを求める者として君になら託せると思ったからさ。中身は向こうに着いてから確認してね。それじゃ、お気をつけてー……!!」

 疑問符で埋まった頭の中を整理する暇も無く。サイネは手を振りながら、駅のホームを駆け抜けていった。嵐のように現れて嵐のように去っていったな。
 ズシリと重量感のあるケースを足下に置いて。出発のアナウンスを聞き流しながら、目を閉じる。
 本当に、本当に……色々なことがあった。《グリモワール》を去る最後の日だというのに、次から次へと頭を悩ませる問題がやってくる。
 今後を考えると頭痛がしてくるが、それはひとまず置いといて。
 エリックやセリス、子ども達の新しい門出となる今日を喜ぼう。
 揺れる列車の振動を感じながら、ささやかな出会いから始まった関係に思いを馳せて。
 途端に湧き上がる吐き気を抑えながら。
 俺は静かに意識を手放した──。
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