未来神話SUSANOWO

塚本正巳

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【三】《30》

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「言ったことを覚えてないのは、たぶん夢中だったからだと思う。坂本の件で腹が立ったり、悔しかったり、あと元気のない橘を見たくなくて……。とにかくあのときは気持ちが忙しかったから」
「あのとき困ってたのは、唯野じゃなくて私のほうなのにね。唯野ってほんと、変わってる」
「そうかな。でもそれだけじゃない。橘に音楽をやめてほしくないって気持ちもあったんだ。せっかく頑張ってきたのに、あんな形で活躍の場を奪われるなんてあまりにも理不尽だよ」
 いつになく物静かな橘。今まで秘めていた思いが、どんどん口からこぼれていく。
「まだ数えるほどしか聴いていないけど、橘の演奏はやっぱりすごいよ。その上、曲も作っちゃうんだもん。僕らなんかよりずっと大人だよね。だから、幼稚な僕たちに付き合わせることになって本当によかったのかなって、今でも思う」
 彼女はしばらく黙っていたが、そのうち急に深呼吸をしたかと思うと、考えていることを丁寧に指でなぞるように話し始めた。
「私、ずっとピアノを習っててね。自分で言うのもなんだけど、結構上手かったんだ。だから曲を作ったり、それを譜面に起こしたりするのは苦じゃない。というか、かなり好き」
 そう言えば、橘の過去はまったく聞いたことがなかった。クラスメイトより、バンド仲間より、もっと近い位置にいないと知り得ない彼女の姿だ。
「でもね、中二のとき体育の授業で突き指しちゃって。それから指がうまく動かなくなった。だからピアノを辞めた。将来は音大に入ってピアノの先生になろうと思ってたから、あのときはいっぱい泣いたな」
「ピアノが弾けなくなるような大怪我だったんだ」
「ううん、右手の中指だけだし、生活に支障はない。ピアノだって続けようと思えば続けられたと思う。でも前みたいに弾けないのが悔しくて、それでピアノが嫌になった。私、あのときからずっとだめなまま。心の弱さは全然変わってない」
「橘は強いよ。ピアノは辞めたかもしれないけど、その分ドラムを頑張ったんだよね? 腕の筋肉を見れば一目瞭然だよ」
 励ましたつもりだったが、彼女にはそう聞こえなかったらしい。真っ直ぐに向けられた厳しい眼差しが、静生の心をたちまち凍りつかせる。
「どうして私が前のバンドを追い出されたか、わかる?」
 答えは、坂本が彼女を足手まといに感じていたから。もしくは、彼女が作った曲を体よく奪うため、だ。今さらそんなことを蒸し返して何の意味があるのか。
 返事をためらっていると、彼女は小さく溜め息をついて不吉な笑みを浮かべた。
「私の音が、あのバンドにとってベストじゃなかったことは認める。でも本当はね、あいつの仕返しなんだ。音楽しか取り柄のない私への、最も効果的な報復」
「報復……? 坂本との間に何かあったの?」
「別に。ただ誘いを断っただけ」
 彼女は自嘲的に口角を上げると、淡々と話を続けた。
「駅前で口論になった日の前日、坂本に言われたんだ。〝俺の女になる?〟って。坂本は練習に遅れてばかりだし、いつだってお酒臭い。ギタリストとしては認めるけど、あんなだらしない奴と付き合うなんて絶対無理。だから迷わず〝遠慮しておきます〟って答えた。坂本は、私がミュージシャンとしてのあいつに憧れてバンドに入ったことを知ってるから、断られるとは夢にも思わなかったはず」
 一気に捲し立てた彼女は、胸に手をあてて深呼吸を繰り返した。興奮を抑えようとしているようだが、その荒いリズムは一向に落ち着く気配がない。
「交際を断られた腹いせ? そんなことで橘の一番大切なものを奪うなんて……」
「坂本は、自分が世界の中心だと思ってる。相手の気持ちなんて理解できない」
「だからって、泣き寝入りしかないなんておかしいよ。やっぱり見返して、追い出したことを後悔させてやらなきゃ!」
 感情のままに訴えたそのとき、思わず足が止まった。彼女の潤んだ瞳から涙がこぼれ、ゆっくりと頰を伝っている。それは街灯や通り過ぎる車のライトを反射して様々な色彩を見せ、彼女の顔色がすっかり失われていることをひどく際立たせた。
「唯野の言う通り、泣き寝入りせず必死に食らいつくべきだった。今まで真剣に、全力でやってきたことだから。でも私、またピアノのときみたいに逃げ出してた。これ以上悔しい思いをしたくなくて、今までの努力も、好きなことも全部投げ出すなんて……」
 涙声を絞り尽くした彼女は、立ちすくんだまま嗚咽に肩を揺らしている。今にもぽきりと折れてしまいそうなその姿は、いつも勝気で奔放な橘とはとても思えない。
 弱気な彼女を見ているのは辛かった。出来ることなら支えてやりたい。こんな自分でも、彼女のためにできることが一つくらいはあるはずだ。
吾此地われこのちに来て、我が御心みこころすがすがし──」
 呪文のような言葉が口を衝いて出た。すっかり塞ぎ込んでいた彼女が、俯いていた顔を少しだけ上げている。
「──今の、なに?」
 はっとして、たった今口からこぼれた言葉を振り返った。まさかこんなときにこの言葉が出てくるとは。
「今のは、僕にとってのおまじない。辛いときや不安になったとき、この言葉を念じると楽になる。いや、そんな気がするだけかな」
「どんな意味?」
「──ここに来たら心が爽やかになった、みたいな感じ」
「われ、このちにきて……」
「いつ、どこで覚えたかは忘れたけど、たぶん小学生の頃読んだ本に書いてあったんだと思う。その頃は拓巳や賢三みたいな友達がいなかったから、学校でも家でも本ばっかり読んでたし」
「わがみこころ、すがすがし──」
 雨模様だった彼女の表情が、少しずつ光を取り戻していく。
「……確かに、そうかもしれない」
「そうかも、って何?」
「私の心、あの頃より清々しくなってるような気がする」
「おまじないの効果があったのかもね。でも〝あの頃より〟っていうのは大袈裟かな。さっきより、じゃないの?」
 彼女はこれ見よがしに眉を寄せて、静生の顔をまじまじと覗き込んだ。おかしなことを言ったつもりはないのだが……。
「そんなこと言ってるようじゃ一生モテないって。本ばっか読んでないで、もっと人を見なさいよ」
 いつもの溌剌はつらつとした口調に戻っている。胸を撫で下ろさずにはいられなかった。
 それにしても、一生モテないとはどういうことだろう。いくら地味で不器用で取り柄がなくても、一生に一度くらいはモテてもいいのではないか。
「お礼も言ったし、駅に戻る。練習サボんなよ」
 彼女はそう言い残すと、今来た道を軽快に引き返していった。小さくなっていく彼女の背中を呆然と見送る。やがて姿が見えなくなると、急に夢から覚めたような気持ちになった。
 独りで夜道を歩くうち、モテないと言われた理由も何となく察しがついてきた。彼女が言った〝あの頃〟とは、坂本たちと活動をしていた期間のことではないだろうか。だとすると彼女は、プロになるほど活躍している坂本のバンドにいるより、今のバンドのほうがいいと思っていることになる。そんなことにも気づかないようでは、女心など理解できるはずもなく、当然モテるはずもない。
 橘が去ったあとの夜道を再度振り返ると、彼女の面影が悪戯っぽく微笑んでいるような気がした。全身がふわふわと浮き上がり、落ち着いたばかりの気持ちが再び夜空へと跳ね上がっていく。
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