愛しいかおり

塚本正巳

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愛しいかおり

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 潮風は穏やかでも、母なる海の匂いは孤独な心に鋭くみる。だから私はいつも、そんな傷だらけの心を優しく包んでくれる琥珀こはく色の香りを持ち歩いている。こんなものをバッグに忍ばせて通勤している女なんて、日本中を探しても私くらいのものだろう。

 仕事帰りは決まって、隅田川沿いの広々とした歩道をのんびりと歩く。綺麗に整備された河岸は駅までのどの道よりも快適だし、遮蔽物だらけの都会では珍しく、辺りの景色をどこまでも見通せる開放感に満ちているからだ。
 そしてある日を境に、私にはもう一つ川沿いを歩く理由が増えた。河岸に設けられた手すりに片手をついて、隅田川のゆったりとした流れを漫然と眺めている男。見たところ私より五、六歳上。三十路をちょっと越えたくらいだろうか。いつもカジュアルな服装をしていて、微かに潮の香りを感じる風に長い髪を揺らすその姿は、彼がいたって平凡な世界しか知らない私とは違う世界の住人だということをありありと想像させた。
 何の取り柄もない私の失敗などいつものことだが、あの日の仕事のミスは自分でも本当に情けなかったと思う。終業間際、上司にきつく絞られた私は、すっかり暗くなった河岸の歩道を缶チューハイ片手にぐずぐず歩いていた。普段なら飲みながら歩くなんて絶対にあり得ないのだが、あの日はそうでもしなければ帰る気力さえ取り戻せなかったのだ。
 そんな私に声をかけてきたのが、いつも川を眺めているあの男だった。いかにもふて腐れた足取りで歩いてくる私を見つけて悪戯っぽく微笑んだ彼は、訊ねてもいないのにいきなり啓太けいたと名乗り、
「お姉さんも一緒にどう?」
 と言って、自分の隣の空間を指差した。
 彼の右手には、見慣れない銀色のボトルが光っていた。あとで知ったがそれはスキットルという、主にアルコール度数の高い蒸留酒を入れて持ち運ぶための小型水筒だった。
 私の手元を見て一緒に飲もうと誘ったようだが、ふと視線を上げると彼の口元には浮薄な笑みがにじんでいる。どうやら私が、ふくれっ面をして通り過ぎる姿を期待しているらしい。からかわれることには慣れていたが、あの日の私は彼の態度に腹を立てずにはいられなかった。ほろ酔いだったし、機嫌も最悪だったのだから無理もない。私は返事もせず、ずかずかと歩み寄って彼の隣に陣取った。そのときの彼の丸く見開かれた目は、今でもよく覚えている。

 それが縁で、啓太とは隅田川を眺めながらたまに飲む仲になった。開放感以外は何もない殺風景な河岸で、たわいない話をしながら飲む酒は意外にも格別だった。啓太は毎日同じ場所で、暗く緩やかな隅田川と向き合いながらスキットルを傾けている。なぜこんなところで飲んでいるのかと訊くと、彼は潮の香りが薄いからだと答えた。確かに河口から十キロほど離れたこの河岸に、海の気配はほんのわずかしか届かない。
 啓太には妻と子供がいた。まれに家族の話をするときの彼は、心なしか少し寂しげに見えた。もしかすると家庭がうまくいっていないのかもしれない。そう感じてはいても、その質問を口にする勇気はなかった。一度でもそこに踏み入ってしまうと、心がおぞましい奈落に落ちて抜け出せなくなりそうな気がしたからだ。
 目の前に横たわる冷たい川の底に、啓太やその周辺の人たちを引きずり込んでしまいそうな予感。そんなどす黒くグロテスクで、でも心のどこかではその甘さと香りに痺れてしまうような、私をたびたび襲い続けるカルーアのロックみたいな想像──。
 そういうとき私は、努めて明るく自分の家族の話を持ち出した。
彩乃あやのさんも家庭持ちなんだ」
「何? その意外そうな顔」
「だって見たところかなり若そうだし、話しぶりや雰囲気からも家庭の匂いなんて全然感じられないから」
 口の減らない啓太が、珍しく申し訳なさそうな顔をしている。私は彼がひるんでいるのをいいことに、すねた口調でさらに畳みかけた。
「確かにこれまでの人生、引く手数多あまたってわけじゃなかったけど、ちゃんと私の良さに気づいてくれる人もいるの。今夜だって本当は、あんたの立ち飲みに付き合っているほど暇じゃないんだから。少しは感謝してよね」
 横目で啓太の様子を窺うと、さっきまでの酔った表情がすっかり真顔になっている。ちょっと嫌味がすぎただろうか。
「──俺も気づいてるよ。彩乃さんの良いところ」
 思いもよらない切り返しに、それ以上言葉が出なくなった。気を利かせてくれたのか、啓太は私のだんまりに追い討ちをかけるようなこともなく、その後は独り静かに川の流れと対話していた。

 店で飲み直すこともなく、飲まずに別の場所で会うこともない。そんな不思議な飲み友達の関係が一年ほど続いた頃だった。その日の啓太は、私が通りかかったときにはすでに見たこともないほど酩酊していた。おそらく普段よりかなり早く、夕方頃からずっと飲んでいたのだろう。
「どうしたのよ、そんなに酔っ払っちゃって。何かいいことでもあった?」
 返事がない。彼の肩に手をかけて何気なく顔を覗き込むと、たちまち視界が真っ暗になった。何が起こったのかすぐには理解できず、なす術もなく全身を強張らせる。しかし状況が少しずつ呑み込めてくると、今度は逆に力が抜けて立っていられなくなった。
 いきなり抱きついてきた啓太が、一心に私の唇を吸っている。この世のすべてを溶かしてしまうような熱い感触と、むせ返りそうなウイスキーの香り。当然、頭の中は真っ白だ。私は抵抗することも忘れて、ただただその状況に酔い痴れた。
 胸の奥に押し込めていたものの栓がすぽりと抜けて、身体が衝動のままに動き出す。気がつくと私は、我を忘れて啓太の首に絡みついていた。このままいつまでも、この香りに包まれていたい。もしこれが夢なら、この香りを永遠に私だけのものにできるのに──。

 その夜を境に、彼は隅田川から姿を消してしまった。その後、私はスキットルを携帯するようになり、今も彼に代わって夜の河岸に立ち続けている。
 ウイスキーなんて、口に含むとすぐに咳き込んでしまうし、まして味が美味しいと思ったこともない。それでも私はまたここに立って、琥珀色の香りが詰まったスキットルの蓋を開けている。こうすると何度でも、彼が残していったあの一夜を蘇らせることができるから。
 潮の香りを忘れられなかったあいつ。それでもたった一度だけ、潮の香りを断ち切って私だけを見つめてくれた。あの夜、私が正直に「本当は家庭なんてない」と白状していたら、彼はあのまま永遠に潮の香りを忘れてくれただろうか。
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