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「大変なことになっちまった……」
 ソファーの上で膝を抱えて、そんなことを言うトリスには呆れてしまう。
「断ればよかったじゃない。どうして受けちゃったのよ」
「断る前におまえの母親が既に返事を出してた」
「あー……」
 そうだった。あの人はイジーへ届いたものを全て執事に検閲させて報告させているのだった。忘れていたわ。気の毒に、と優しく肩を叩く。責めるような言い方をしてしまったが、これに関してはトリスに非はない。
 ふと視線を感じたのでナーバルの方を見ると、彼は何とも言えない絶妙な顔をしていた。眉間に皺を寄せてはいるが、怒っているという風ではない。
「なに? 何か言いたいことでもある?」
「いや……、」
 そこまで言って言葉を止める。言い淀むなんて珍しい。何か小言でも返ってくるかと思ったが、代わりに話題を変えることにしたらしい。「で、いつなんだ? 王子様とやらがヴォルフハート家に来るのは」
「明日だ」
「万事休すね。諦めましょう」
「体調不良とか言って中止にできないか?」
「そんなこと私のお母様が許すはずないでしょう。王族からのお茶のお誘いだなんて、仮に全身から緑の液体を垂れ流してようが引きずり出してくるわ」
「幻覚のイズでも出して誤魔化すか?」
 ナーバルの提案にパッとトリスは顔を上げるが、すぐに「それじゃダメだ」とまた顔を伏せてしまう。
 どうしてダメなの?と首を傾げるが、ナーバルはすぐに得心いったようだった。
「魔力探知ができるんだろう? その王子様とやらは。だから幻覚だとバレるのは時間の問題だ。しかしすごいな。おまえらと同じ年齢でそこまで魔法を使えるのは珍しい」
「そうだ。マルクスは魔力操作については誰よりも優れてる。あいつ相手に小細工なんか通用しないんだ」
 魔力探知というのは、確か現時点で自身の周辺で魔法が使用されているか否かを判定できるものだっただろうか。幻覚魔法は魔力行使時にしか魔力を使用しないはずだ。使用者の魔力をずっと消費するわけではない。どうして探知できるのかが分からない。
 得心がいっていないイズにナーバルが簡単に説明をする。
「幻覚魔法の種類が違うんだ。この前、ミンネにかけたのはイズが言うとおり一度魔力を行使すれば良いもの。状況に応じて変化させる必要がないから、単純な魔法で事足りたんだ。つまり、決められた炎の動きを対象の周囲で繰り返せばいいだけ。対して、今回かけるべきなのは常に対象の動きに合わせて幻覚の動きも変える幻覚魔法。魔法をかける対象であるコイツの所作はもう騎士のそれだから、全体的に上書きさせるような高度な魔法を常にかけ続けないといけないんだ。魔力探知ができるやつが相手なら一発で分かってしまう」
 うんうんとトリスは頷いているが、本当に理解しているのだろうか。分かったわと返事をするが、話を聞いていて思いついたことがある。
「それなら、私の顔をイジーに見えるような幻覚をかければいいじゃない。あ、でも声は変えられないわね。いいわ。風邪をひいてるとでも言って黙ってましょうか」
 良い提案だわとニコニコしていると、トリスもナーバルも驚いたような顔をしていることに気付く。私、何か変なこと言ったかしら。
「……前にも聞いたかもしれないけど、まだアレのこと好きなのか?」
「アレ? マルクス様のことかしら」
 頷く二人を前に少し考える。好きかどうかで考えると、好きではないというのが今の正直な気持ちだろう。あんな手酷い振られ方をしたものの、彼に対する未練は残っていない。確かに婚約破棄されて体が入れ替わってすぐの頃は深く落ち込み、寝る前にはひっそりと何度もベッドで泣いた。
 だが、どうしてだろう。いつの間にか元婚約者への気持ちは薄らいでいた。あんなに好きだったのにどうしてかしらと、うーんと頭を抱えて悩んでいると、二人とも変に察したらしい。
「いい。答えなくていいから。なんかその、ごめんな」
「無理すんなよ。まだ辛いんだろう。毎晩泣いてたもんな。いつもオレの部屋までメソメソ泣く声が聞こえてきてた。ひどい男に引っかかったな」
「え? ええ、まあ、そうね」
 もうそれ以上思い出さなくていいと気を遣うようなことを言われて、今となってはもうそこまで大袈裟に慰めてもらう必要はないけれど、何か言おうにも止められるので反論すること自体を諦めた。そんなことより泣いていることを知られていたことのほうが恥ずかしい。ナーバルが夜仕事に出るまで我慢すればよかった。壁が薄すぎるわ、あの家。
「おい、ナーバル。気合い入れて魔法かけろよ。イズがこれだけ体張るって言ってるんだからな。リスよりアリより心臓が小さい癖に無茶しやがる……」
「ああ。分かってる。もし泣き出しても表情には出ないように何重にも魔法を重ね掛けしてやるからな」
 何も分かっちゃいないが、普段はふざけてばかりの二人が今までになく神妙な顔するので黙っておくことにした。
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