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 アレクに向き直ったフィファナはさっと軽く膝を折り挨拶の格好を取ると口を開いた。

「殿下、お見苦しい所を大変失礼致しました。また、危ない所を助けて頂き誠にありがとうございます」
「いや、礼には及ばない。それよりご令嬢、大丈夫か? 大分強い力で掴まれていただろう。怪我は?」

 先程、酔っ払った男がフィファナ嬢、と口走った所を聞いていたのだろう。
 アレクはフィファナの事を未婚の令嬢、と勘違いをしているようで。
 フィファナはその事を訂正せねば、と慌てる。

「お気遣い頂き、ありがとうございます。申し遅れました、私フィファナ・タナストンと申します」
「──タナストン……、?」

 フィファナの言葉にアレクの形の良い眉がぴくり、と反応する。

「恥ずかしながら、夫とはぐれてしまい、先程の方達に話し掛けられてしまいどうしたものか、と困っておりました。本当にありがとうございます」
「夫……、そうか」

 アレクは感情の読めない顔でぽつり、とそう零しフィファナを見やる。
 すると、フィファナの指先が微かに震えている事に気付いた。

「タナストン夫人。手が震えている。大丈夫か……?」

 先程の恐怖からだろう。
 助かった、と分かった今になって恐怖が湧き上がり、フィファナは恐怖に体が震えてしまった。
 だが、心配してくれるアレクを有難くは思えど、フィファナはにこりと笑顔を浮かべてアレクに言葉を返す。

「大丈夫ですわ、これは、その……武者震いのような物ですので」
「武者震い? ──ふっ、ははっ。ご夫人はとても心の強い方だ。失礼した、貴女が恐怖で震えている、と勘違いしてしまった。許して欲しい」
「ふふっ、私が殿下を許す、など……恐れ多いですわ」
「貴女をか弱い女性と勘違いしてしまった私をそのように言ってくれるとは、有難い。せめてものお詫びでご夫人を会場までエスコートさせて頂いてもいいか?」
「まあ。断る理由がございませんわ。どうぞよろしくお願い致します、殿下」

 二人はにこにこと笑顔を浮かべながら会話をする。
 すっ、とアレクに腕を差し出されたフィファナは微笑みを浮かべながらその腕を取り、フィファナの歩幅に合わせて歩いてくれるアレクに心の中で感謝した。

(──人の感情の機微にとても聡い方だわ……武勇ばかりが噂になっているけど……それだけじゃない)

 フィファナが恐怖に震えてしまった事を認めたく無い、と言う気持ちを瞬時に察してああ言う言葉を掛けてくれた。

 今もドレスの下の膝は震えていて、ゆっくり歩く事しか出来ないフィファナをそれとなく気遣い、そして気付いている、と言う事を微塵も感じさせず明るい話題を振ってくれている。



「ああ、見えて来たな。会場にいる貴女の夫も慌てているだろう」
「……そうですね」

 一瞬だけ言葉に詰まってしまったフィファナはすぐに取り繕い、笑顔で言葉を返す。
 だが、その違和感にアレクはちらり、とフィファナを見下ろして、そしてぎょっと瞳を見開いた。

「──ご夫人っ! 腕に手形が……っここまで跡が残っていては痛みがあっただろう、気付かずにすまない」
「えっ、? あっ、ああっ! これですか? 大丈夫ですわ、先程の件とは無関係です」

 フィファナの白く、細い腕にくっきりと指の跡が残っている事に気付いたアレクは焦って謝罪する。
 会場の明かりに近付き、その跡に気付いたのだが改めて見てみれば手形はどう見ても痛々しい。
 先程あの酔っ払いの男に相当強い力で握られて、痛かっただろうに。と思ったがどうやら違うらしい。

 きょとん、とするアレクにフィファナはにっこりと笑顔を浮かべ、会場に到着した所でさっとアレクから腕を離した。
 そして軽くドレスの裾を摘んで自分の腕を胸元に持って行くと軽く頭を下げる。

「殿下、ここまでありがとうございました。夫が心配しているかもしれませんので、失礼致します」
「──あ、ああ。気を付けて……」
「ありがとうございます。……では」

 くるり、と振り返り夜会会場に向かって進んで行く小さな背中をアレクはずっと見続けてしまう。

「……先程、あの男に掴まれた跡では無い……? では、誰が……」

 アレクがぽつりと呟いた所で、先程酔っ払いの男を会場に連れて行かせた部下が戻って来る。

「──殿下、戻りました」
「ああ。帰したか?」
「はい。馬車に詰め込み、そのまま帰宅させました」
「良くやった。……さて、庭園をもう一度見回ろうか。先程のような事が再び起きぬとも言えない」
「承知致しました」

 アレクは名残惜しむようにフィファナが去って行った方向をもう一度見詰めた後、くるりと踵を返して庭園に足を向けた。



 さくさくと庭園を進みながら、アレクと部下はなんとなしに会話を続けていた。

「甥っ子と婚約者の目出度い記念の夜会で、まさかこんな事が起きるとはなぁ」
「会場警備に回って正解でしたね。殿下が庭園を見回ろうとしなければ、あのご令嬢……危ない所でした」
「ああ。……そう言えばご令嬢では無かったぞ。れっきとした奥方だ。夫とはぐれてしまったらしい」
「──それは残念でしたね、殿下」
「……何がだ。やめろ」
「長い付き合いですが、殿下が女性に見蕩れるお姿を初めて拝見したものですから」
「……傷心中だ。傷を抉ってくれるな」

 どこかむすっとした、不貞腐れた態度のアレクに珍しいものを見た、と部下は目を見開く。

 王弟、と言う身分柄今まで女性は嫌と言う程寄って来ていた。
 だが、どの女性にも態度を変えず、いつも変わらぬ笑顔を張り付けたまま。
 仕事ばかりの上司にやっと春が来たか、と喜んだのも束の間。
 その女性は既に夫が居る身だった。

「残念ですね……」

 ぽつり、と零す部下に横腹を殴ってやろうか、とアレクが拳を握った所で。

 薄暗い庭園から男女の会話する声が聞こえて来た。


「ヨード、酷いわ……っ! 私っ、一人で寂しかったし、怖かったんだから!」
「すまない、すまないリナリー。もう一人にしないから」
「もうイヤっ、疲れたしっ、ドレスも汚れてしまったわ……。私もう帰る……っ」
「分かった、分かったから。俺たちの家に帰ろうか」

 恋人同士の喧嘩だろうか、と二人が思ってそのまま足を進める。
 風紀が乱れる事をせず、このまま帰宅してくれればいいが、と二人の姿を目にした時にアレクは目を見開いた。

 男女はまるで想い合う二人のようにひしっと抱き締め合い、そして手を繋ぎながら更に暗い庭園の方角に去って行く。
 あちらの方向は裏門がある方向だ。
 そこから帰宅するつもりだろうか。

 アレクの隣に居た部下が「あれは……」と小さく声を零した。


「あの男の方、見覚えがあります……。確か、ヨード・タナストン伯爵ですよね、最近爵位を継いだ。と言う事はあの女性が奥方ですか。綺麗な人だ、と聞いていたのですが人の噂とはあてにならないですね。どちらかと言えば可愛いらしい女性だ」

 ほけほけと言葉を紡ぐ部下の傍ら。
 アレクは「どう言う事だ」と呟き、無意識に拳を握り締めた。
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