12 / 43
2nd day
聖霊
しおりを挟む
―――とても幸福な、夢を見た。
それは、僕がこの都市で目覚めてから時折見るようになった不思議な夢。
古い屋敷の軒下から、木と、畳と、日向の匂いがする。
夢の中にはいつも黒髪の小さな女の子が出てきた。
顔は霞んで、声は遠くて、名前さえ思い出せなかったけど。
その子が自分にとって大切な存在だということは、どうしてか分かった。
ともに過ごす穏やかな日常。
ともに笑いあった幸せな想い出。
―――今はもう遠い日々の名残を、僕はずっと夢見てる。
†
重く沈もうとする瞼に、カーテンの隙間から仄暗い光が差しこんでくる。
少年は気怠そうにむくりとベッドから起き上がると、きょろきょろと辺りを見渡した。
そこは見慣れた教会の寝室よりもはるかに広く、部屋の内装も明らかに上流階級のそれと分かるものだった。
寝起きで呆とする頭で、少年はようやくここがどこなのかを思い出す。
「……ああ、そういえば昨日セリアさんの屋敷に泊まったんだっけ」
少年――ソラはそう呟く。
教会でのやりとりの後、ソラはセリアとアウローラに連れられこの屋敷に戻り、夕食をご馳走になったあと、そのまま屋敷に泊まったのだ。
教会の安布団で子供たち数人と雑魚寝していた身としては屋敷のベッドは広すぎて落ち着かなかったが瞼を閉じてしまえば後はぐっすりと快眠できた。
くあぁとソラは大きな欠伸を零す。
壁に備え付けられた柱時計を見れば、時刻は五時五十五分。
起きるにはまだ少々早い時間だ。
ソラは、うん、と頷き、もう少しだけ眠ろうとベッドへ身体を沈めようとして―――
「いやいや、目が覚めたんならそのまま起きなよ。良い一日は快適な目覚めから始まるって言うだろう?」
「―――うぉうっ⁉」
突如ベッド横から聞こえた呆れた声に、ソラは思わずその場から飛び起きる。
バランスを崩し、そのままベッドから転げ落ちてしまった。
「ふげっ⁉︎」
ごん、と後頭部をぶつけたソラは頭を押さえて悶絶する。
「何してるんだい、キミ? もしかして最近だとそういう風に頭をぶつけて眠気を飛ばす起床法が流行ってるの?」
「……あのな、そんなのが流行ってるわけないだろ。起き抜けに誰かが急に真横に現れたら普通の人間はびっくりするに決まってるだろ」
ソラはむくりと起き上がり、恨みがましそうに対面のベッドサイドを見上げる。
先ほどまで誰もいなかったはずのそこには不思議そうに首を傾げている少女の姿があった。
ただ佇んでいるだけで気品があり、どこか神々しさのような雰囲気を醸し出す不思議な少女だった。
歳の頃は十二、三といったところだろうか。
染み一つない白い肌に黄金色の真っ直ぐな長い髪。
透き通るような黄昏の瞳は微かな光しかない仄暗い部屋の中でも煌びやかな輝きを放っていた。
「そうなのかい? それはすまなかったね。何しろボクは人と関わる機会というのがそうそうないからさ。次からは気を付けるとしよう」
説明するも当の本人はあまりピンときていないようだった。
諦めたようにソラは溜め息を吐いて、ベッドに胡坐をかく。
目の前の存在はどうにも天然というか、どこか常識に欠けるきらいがある。
それがここ数日の短い付き合いの中で知ったことだ。
もっとも、人ではない存在に人間の常識を押し付けることの方が間違っているのかもしれないが。
「アルカ。いつからそこにいたのさ」
「ん? 来たのはついさっきだよ。せっかく会いに来たっていうのにキミが二度寝しようとするから慌てて声をかけたんだ」
「ドアには鍵かけてたんだけど……」
「あははっ。おかしなことを言うね。ボクに対して鍵なんて何の意味もないとキミは知っているだろうに」
そう言って少女はふわりと浮かび上がり、そのまま、ぽすん、とソラの足の間に収まった。
少女の身体には一切の重みはなく、それどころか触れ合っているはずなのに何の感触もありはしない。
今でも時折、ソラは彼女が自分の妄想が生み出した幻なのではないかと考える。
けれど、そんな考えは目の前の屈託ない笑顔ですぐに打ち消される。
何しろ、自分のちっぽけな想像力ではこんなにも美しい存在を描き出すことなど出来ないだろうから。
自らを〝聖霊〟と名乗る少女――アルカは無邪気にソラを見上げながら話を続ける。
「それに、これでも一応気を遣ったんだぜ? 本当は昨日の晩に話したかったのに部屋に来たらキミはもう寝ちゃってたし。疲れてるだろうと思って起こさずにずっと待ってたんだよ?」
「そうなのか? 別に部屋に入るまで待たなくてもいつでも話しかけてくれればよかったのに」
「おいおい。忘れたのかい? 僕の姿は基本的に他人には見えないんだよ? キミも周りの人間に一人で会話するような痛いヤツだって思われたくないだろ? ただでさえ微妙な立ち位置なんだからさ」
「…………」
確かに、それはごめんだと、ソラは苦々しい顔で押し黙る。
やがて根負けしたように肩を落とした。
「分かったよ、アルカ。でもさ、アルカのことが見える人って他にも誰かいないの? それこそシスターとかそっち関係は専門家なんじゃないか?」
「そっち関係って……キミ、もしかしてボクのことそこらの幽霊と同じように考えてないかい?」
「……ごめん。ぶっちゃけ違いがよく分からない」
見えないし、触れないし。
呼び方が違うだけで、正直ソラはどちらも同じようなものだと思っている。
「全然違うだろう、不信人者め⁉ 幽霊って言い方だとなんか暗くてひょろっちいイメージしか湧いてこないじゃないかっ!」
「え、そこっ⁉」
ふしゃーっ、と噛みついてくるアルカにソラは驚きを返す。
「当たり前だろ。あのね、イメージってのはボクらみたいな〝あやふや〟な存在にとっちゃ結構重要なんだ。とりわけボクはある種の信仰対象として永い間崇められてきたんだぜ? 幽霊なんかと一緒にされちゃたまっもんじゃないよ」
「そりゃ悪かったよ。で、アルカ。他にもいるの、見える人?」
「まあ、キミ以外にも見えるのは何人かいるよ。ちなみにあのシスターは違うよ? ボクを認識することができるのは〝条件〟を満たした者だけさ」
「条件?」
「そ。ボクを見ることができるのは〝系譜に連なる者〟か〝欠片を持つ者〟だけだ。この街で僕が見えるのはキミ以外に一人だけかな」
「ふーん?」
ぴんと指を立て得意げに語るアルカだったが、ソラには彼女の言葉が何を差しているのかまるで分からない。
ただ不可解そうに首を傾げるばかりだった。
「……よく分からないけど、他にも話せる人がいるならそっちに行けばよかったんじゃないか?」
「むっ。つれないことを言うなよ。ボクは他の誰でもなく〝キミ〟と話がしたかったんだ……そもそもその子とはもう何年も会話をしていないし、何よりボクはその子に嫌われているからね」
「嫌われてる? アルカはその人に何かしたの?」
「いいや? 何かをしたわけではなく、何もしてくれなかったと詰られたのさ。まったく、自分の無力を棚に上げてひどい言いぐさだよ。神様にだって出来ないことはあるっていうのにね。ともあれボクは彼女に恨まれ、その子は息をしているだけのつまらない人生を送るようになったというわけさ。ま、前相棒のたっての頼みだから一応最後まで付き合ってやるけどね」
そう言ってアルカはやれやれと肩をすくめてみせる。それから身体を反転させ、向かい合うようにソラの顔を覗き込んだ。
「けどさ、そんな何の変化もないつまらない人生を見るくらいならボクはキミの傍らでキミの先行きを見ていたい。何しろキミの物語はきっと波瀾万丈で面白いものになるだろうからね」
「……あのさ、僕みたいな一般人に変な期待されても正直困るんだけど」
「ははっ。心配しなくてもキミは特別さ。それはボクが保証するよ。さっき話したボクが見える条件。片方を満たしている者だけなら何人かいる。それでも――両方を満たしているのはこの世界でキミだけだ」
その瞬間、ソラは驚きに目を見開く。
彼女が何気なく発した言葉は少年の胸に波紋を呼び起こす。
ちょっと待て。
彼女は今、まるで。
少年が何者なのか知ってるようなことを言わなかったか?
「アルカは、知ってるのか。僕のこと。僕の失くした記憶を」
喉から出た声は震えていた。
心臓がバクバクと波打つ。
緊張と期待。それから微かな不安を伴って。
アルカは少年を見上げ、にやりと嗤って。
「知っているよ。キミが何者で、どこから来たのか。キミの過去の全てをボクは知っている」
「――ッ、アルカッ!」
事もなげに答えるアルカに、ソラは掴みかかるように身を乗り出す。
けれど、その手は空を切り、勢いのままにソラはベッドに倒れこむ。
アルカは重力に逆らいふわりと浮かび上がった。
「……意外。そんなに激しく反応するとは思わなかった。平気なふりを装っていても、キミも内心では焦っていたようだね」
「アルカッ!」
頭上のアルカをソラは、きっ、と睨みつける。
「教えてくれ! 知ってること全部! 欲しいものがあるなら何だって用意してみせる! だからっ!」
形振り構わないソラの懇願。
アルカをそれをただ静かに見下ろした。
「必死だね。どうしてキミそんなに自分の過去に拘るんだい? 今の立ち位置に対する不安? アイデンティティの喪失による恐怖? 現状キミはこうして何不自由なく生活できているじゃないか。そしてキミの身柄は今後もこの屋敷の主人が保証するだろう。なら記憶が戻ろうと戻るまいとどうだっていいじゃないか」
「……どうでもいいわけないだろう」
ぎり、とソラは拳を握りしめる。
アルカの言う不安が無いわけじゃない。
自分が何者なのか解らないのは正直言って、怖い。
でも、それ以上に―――
「記憶が戻らないと帰れない……会いに行けない。きっと寂しがってる。会ってちゃんと、安心させてやりたい」
帰る場所があるかも、待っている人がいるかどうかさえも分からない。
でも、確信がある。
あれは絶対にただの夢なんかじゃない。
夢で見たあの子に会いたいと、こんなにも心が叫んでいる。
「……くふ」
そして、アルカはソラの必死の表情を見て――恍惚な笑みを浮かべた。
「くふ、ふふふふ。そこで真っ先に出てくるのが他人の心配か――ああ、やっぱり良いよ、キミ。キミが全てを知り、どんな表情を浮かべるのか、今すぐ見てみたい気もするけれど――」
アルカはソラの唇に人差し指を当てる。
触れている感触はないはずなのに、何故かソラはそれ以上動くことが出来なかった。
「でも、駄目だ。教えない。物語はまだ始まったばかり。序盤にネタバレはNGだからね」
「……人が苦しんでるのを上から眺めるのが愉しいのか? 趣味が悪すぎるだろ」
「そうさ。ボクは座し、ただ見守るのみ。キミはキミ自身の力で己と向き合い、記憶を取り戻していくんだ。そこには苦難があり、煩悶があるだろう。だからこそ、物語は彩られていく」
少女は微笑う。
踊るように。唄うように。
眩く、柔らかく、想いを馳せるように少年に微笑みかける。
「ああ、本当に楽しみだ。キミはその数奇な運命を辿り、やがてどんな答えを出すのだろうか――期待しているよ。その結末が喜劇であれ、悲劇であれ、キミの行動はきっとこの退屈な日々に刺激を与えてくれるだろう」
少女の姿に似つかわしくない妖艶な眼差しに、背筋にぞくりと冷たいものが走った。
ここまでか、とソラは押し黙る。
これ以上言ったところで、今の段階ではアルカはソラの過去を教えてくれはしないだろう。
もちろんアルカがソラの過去を知っているという確かな証拠があるわけではない。
ただ、彼女の語った言葉に嘘はないだろうと、ソラはなんとなく思った。
彼女は純真だ。そして純真であるがゆえに自身の欲望に対して忠実でもある。
そこに嘘が入り込む余地はない。
どんなに親しく振舞ってこようとも、彼女との間には決して解りあうことのできない大きな隔たりがあると、その時ソラは感じた。
ああ、やはり。
人のカタチをして、同じ言葉を口にしようとも――目の前に在るのは、人間ではないのだ。
それは、僕がこの都市で目覚めてから時折見るようになった不思議な夢。
古い屋敷の軒下から、木と、畳と、日向の匂いがする。
夢の中にはいつも黒髪の小さな女の子が出てきた。
顔は霞んで、声は遠くて、名前さえ思い出せなかったけど。
その子が自分にとって大切な存在だということは、どうしてか分かった。
ともに過ごす穏やかな日常。
ともに笑いあった幸せな想い出。
―――今はもう遠い日々の名残を、僕はずっと夢見てる。
†
重く沈もうとする瞼に、カーテンの隙間から仄暗い光が差しこんでくる。
少年は気怠そうにむくりとベッドから起き上がると、きょろきょろと辺りを見渡した。
そこは見慣れた教会の寝室よりもはるかに広く、部屋の内装も明らかに上流階級のそれと分かるものだった。
寝起きで呆とする頭で、少年はようやくここがどこなのかを思い出す。
「……ああ、そういえば昨日セリアさんの屋敷に泊まったんだっけ」
少年――ソラはそう呟く。
教会でのやりとりの後、ソラはセリアとアウローラに連れられこの屋敷に戻り、夕食をご馳走になったあと、そのまま屋敷に泊まったのだ。
教会の安布団で子供たち数人と雑魚寝していた身としては屋敷のベッドは広すぎて落ち着かなかったが瞼を閉じてしまえば後はぐっすりと快眠できた。
くあぁとソラは大きな欠伸を零す。
壁に備え付けられた柱時計を見れば、時刻は五時五十五分。
起きるにはまだ少々早い時間だ。
ソラは、うん、と頷き、もう少しだけ眠ろうとベッドへ身体を沈めようとして―――
「いやいや、目が覚めたんならそのまま起きなよ。良い一日は快適な目覚めから始まるって言うだろう?」
「―――うぉうっ⁉」
突如ベッド横から聞こえた呆れた声に、ソラは思わずその場から飛び起きる。
バランスを崩し、そのままベッドから転げ落ちてしまった。
「ふげっ⁉︎」
ごん、と後頭部をぶつけたソラは頭を押さえて悶絶する。
「何してるんだい、キミ? もしかして最近だとそういう風に頭をぶつけて眠気を飛ばす起床法が流行ってるの?」
「……あのな、そんなのが流行ってるわけないだろ。起き抜けに誰かが急に真横に現れたら普通の人間はびっくりするに決まってるだろ」
ソラはむくりと起き上がり、恨みがましそうに対面のベッドサイドを見上げる。
先ほどまで誰もいなかったはずのそこには不思議そうに首を傾げている少女の姿があった。
ただ佇んでいるだけで気品があり、どこか神々しさのような雰囲気を醸し出す不思議な少女だった。
歳の頃は十二、三といったところだろうか。
染み一つない白い肌に黄金色の真っ直ぐな長い髪。
透き通るような黄昏の瞳は微かな光しかない仄暗い部屋の中でも煌びやかな輝きを放っていた。
「そうなのかい? それはすまなかったね。何しろボクは人と関わる機会というのがそうそうないからさ。次からは気を付けるとしよう」
説明するも当の本人はあまりピンときていないようだった。
諦めたようにソラは溜め息を吐いて、ベッドに胡坐をかく。
目の前の存在はどうにも天然というか、どこか常識に欠けるきらいがある。
それがここ数日の短い付き合いの中で知ったことだ。
もっとも、人ではない存在に人間の常識を押し付けることの方が間違っているのかもしれないが。
「アルカ。いつからそこにいたのさ」
「ん? 来たのはついさっきだよ。せっかく会いに来たっていうのにキミが二度寝しようとするから慌てて声をかけたんだ」
「ドアには鍵かけてたんだけど……」
「あははっ。おかしなことを言うね。ボクに対して鍵なんて何の意味もないとキミは知っているだろうに」
そう言って少女はふわりと浮かび上がり、そのまま、ぽすん、とソラの足の間に収まった。
少女の身体には一切の重みはなく、それどころか触れ合っているはずなのに何の感触もありはしない。
今でも時折、ソラは彼女が自分の妄想が生み出した幻なのではないかと考える。
けれど、そんな考えは目の前の屈託ない笑顔ですぐに打ち消される。
何しろ、自分のちっぽけな想像力ではこんなにも美しい存在を描き出すことなど出来ないだろうから。
自らを〝聖霊〟と名乗る少女――アルカは無邪気にソラを見上げながら話を続ける。
「それに、これでも一応気を遣ったんだぜ? 本当は昨日の晩に話したかったのに部屋に来たらキミはもう寝ちゃってたし。疲れてるだろうと思って起こさずにずっと待ってたんだよ?」
「そうなのか? 別に部屋に入るまで待たなくてもいつでも話しかけてくれればよかったのに」
「おいおい。忘れたのかい? 僕の姿は基本的に他人には見えないんだよ? キミも周りの人間に一人で会話するような痛いヤツだって思われたくないだろ? ただでさえ微妙な立ち位置なんだからさ」
「…………」
確かに、それはごめんだと、ソラは苦々しい顔で押し黙る。
やがて根負けしたように肩を落とした。
「分かったよ、アルカ。でもさ、アルカのことが見える人って他にも誰かいないの? それこそシスターとかそっち関係は専門家なんじゃないか?」
「そっち関係って……キミ、もしかしてボクのことそこらの幽霊と同じように考えてないかい?」
「……ごめん。ぶっちゃけ違いがよく分からない」
見えないし、触れないし。
呼び方が違うだけで、正直ソラはどちらも同じようなものだと思っている。
「全然違うだろう、不信人者め⁉ 幽霊って言い方だとなんか暗くてひょろっちいイメージしか湧いてこないじゃないかっ!」
「え、そこっ⁉」
ふしゃーっ、と噛みついてくるアルカにソラは驚きを返す。
「当たり前だろ。あのね、イメージってのはボクらみたいな〝あやふや〟な存在にとっちゃ結構重要なんだ。とりわけボクはある種の信仰対象として永い間崇められてきたんだぜ? 幽霊なんかと一緒にされちゃたまっもんじゃないよ」
「そりゃ悪かったよ。で、アルカ。他にもいるの、見える人?」
「まあ、キミ以外にも見えるのは何人かいるよ。ちなみにあのシスターは違うよ? ボクを認識することができるのは〝条件〟を満たした者だけさ」
「条件?」
「そ。ボクを見ることができるのは〝系譜に連なる者〟か〝欠片を持つ者〟だけだ。この街で僕が見えるのはキミ以外に一人だけかな」
「ふーん?」
ぴんと指を立て得意げに語るアルカだったが、ソラには彼女の言葉が何を差しているのかまるで分からない。
ただ不可解そうに首を傾げるばかりだった。
「……よく分からないけど、他にも話せる人がいるならそっちに行けばよかったんじゃないか?」
「むっ。つれないことを言うなよ。ボクは他の誰でもなく〝キミ〟と話がしたかったんだ……そもそもその子とはもう何年も会話をしていないし、何よりボクはその子に嫌われているからね」
「嫌われてる? アルカはその人に何かしたの?」
「いいや? 何かをしたわけではなく、何もしてくれなかったと詰られたのさ。まったく、自分の無力を棚に上げてひどい言いぐさだよ。神様にだって出来ないことはあるっていうのにね。ともあれボクは彼女に恨まれ、その子は息をしているだけのつまらない人生を送るようになったというわけさ。ま、前相棒のたっての頼みだから一応最後まで付き合ってやるけどね」
そう言ってアルカはやれやれと肩をすくめてみせる。それから身体を反転させ、向かい合うようにソラの顔を覗き込んだ。
「けどさ、そんな何の変化もないつまらない人生を見るくらいならボクはキミの傍らでキミの先行きを見ていたい。何しろキミの物語はきっと波瀾万丈で面白いものになるだろうからね」
「……あのさ、僕みたいな一般人に変な期待されても正直困るんだけど」
「ははっ。心配しなくてもキミは特別さ。それはボクが保証するよ。さっき話したボクが見える条件。片方を満たしている者だけなら何人かいる。それでも――両方を満たしているのはこの世界でキミだけだ」
その瞬間、ソラは驚きに目を見開く。
彼女が何気なく発した言葉は少年の胸に波紋を呼び起こす。
ちょっと待て。
彼女は今、まるで。
少年が何者なのか知ってるようなことを言わなかったか?
「アルカは、知ってるのか。僕のこと。僕の失くした記憶を」
喉から出た声は震えていた。
心臓がバクバクと波打つ。
緊張と期待。それから微かな不安を伴って。
アルカは少年を見上げ、にやりと嗤って。
「知っているよ。キミが何者で、どこから来たのか。キミの過去の全てをボクは知っている」
「――ッ、アルカッ!」
事もなげに答えるアルカに、ソラは掴みかかるように身を乗り出す。
けれど、その手は空を切り、勢いのままにソラはベッドに倒れこむ。
アルカは重力に逆らいふわりと浮かび上がった。
「……意外。そんなに激しく反応するとは思わなかった。平気なふりを装っていても、キミも内心では焦っていたようだね」
「アルカッ!」
頭上のアルカをソラは、きっ、と睨みつける。
「教えてくれ! 知ってること全部! 欲しいものがあるなら何だって用意してみせる! だからっ!」
形振り構わないソラの懇願。
アルカをそれをただ静かに見下ろした。
「必死だね。どうしてキミそんなに自分の過去に拘るんだい? 今の立ち位置に対する不安? アイデンティティの喪失による恐怖? 現状キミはこうして何不自由なく生活できているじゃないか。そしてキミの身柄は今後もこの屋敷の主人が保証するだろう。なら記憶が戻ろうと戻るまいとどうだっていいじゃないか」
「……どうでもいいわけないだろう」
ぎり、とソラは拳を握りしめる。
アルカの言う不安が無いわけじゃない。
自分が何者なのか解らないのは正直言って、怖い。
でも、それ以上に―――
「記憶が戻らないと帰れない……会いに行けない。きっと寂しがってる。会ってちゃんと、安心させてやりたい」
帰る場所があるかも、待っている人がいるかどうかさえも分からない。
でも、確信がある。
あれは絶対にただの夢なんかじゃない。
夢で見たあの子に会いたいと、こんなにも心が叫んでいる。
「……くふ」
そして、アルカはソラの必死の表情を見て――恍惚な笑みを浮かべた。
「くふ、ふふふふ。そこで真っ先に出てくるのが他人の心配か――ああ、やっぱり良いよ、キミ。キミが全てを知り、どんな表情を浮かべるのか、今すぐ見てみたい気もするけれど――」
アルカはソラの唇に人差し指を当てる。
触れている感触はないはずなのに、何故かソラはそれ以上動くことが出来なかった。
「でも、駄目だ。教えない。物語はまだ始まったばかり。序盤にネタバレはNGだからね」
「……人が苦しんでるのを上から眺めるのが愉しいのか? 趣味が悪すぎるだろ」
「そうさ。ボクは座し、ただ見守るのみ。キミはキミ自身の力で己と向き合い、記憶を取り戻していくんだ。そこには苦難があり、煩悶があるだろう。だからこそ、物語は彩られていく」
少女は微笑う。
踊るように。唄うように。
眩く、柔らかく、想いを馳せるように少年に微笑みかける。
「ああ、本当に楽しみだ。キミはその数奇な運命を辿り、やがてどんな答えを出すのだろうか――期待しているよ。その結末が喜劇であれ、悲劇であれ、キミの行動はきっとこの退屈な日々に刺激を与えてくれるだろう」
少女の姿に似つかわしくない妖艶な眼差しに、背筋にぞくりと冷たいものが走った。
ここまでか、とソラは押し黙る。
これ以上言ったところで、今の段階ではアルカはソラの過去を教えてくれはしないだろう。
もちろんアルカがソラの過去を知っているという確かな証拠があるわけではない。
ただ、彼女の語った言葉に嘘はないだろうと、ソラはなんとなく思った。
彼女は純真だ。そして純真であるがゆえに自身の欲望に対して忠実でもある。
そこに嘘が入り込む余地はない。
どんなに親しく振舞ってこようとも、彼女との間には決して解りあうことのできない大きな隔たりがあると、その時ソラは感じた。
ああ、やはり。
人のカタチをして、同じ言葉を口にしようとも――目の前に在るのは、人間ではないのだ。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
王子妃だった記憶はもう消えました。
cyaru
恋愛
記憶を失った第二王子妃シルヴェーヌ。シルヴェーヌに寄り添う騎士クロヴィス。
元々は王太子であるセレスタンの婚約者だったにも関わらず、嫁いだのは第二王子ディオンの元だった。
実家の公爵家にも疎まれ、夫となった第二王子ディオンには愛する人がいる。
記憶が戻っても自分に居場所はあるのだろうかと悩むシルヴェーヌだった。
記憶を取り戻そうと動き始めたシルヴェーヌを支えるものと、邪魔するものが居る。
記憶が戻った時、それは、それまでの日常が崩れる時だった。
★1話目の文末に時間的流れの追記をしました(7月26日)
●ゆっくりめの更新です(ちょっと本業とダブルヘッダーなので)
●ルビ多め。鬱陶しく感じる方もいるかも知れませんがご了承ください。
敢えて常用漢字などの読み方を変えている部分もあります。
●作中の通貨単位はケラ。1ケラ=1円くらいの感じです。
♡注意事項~この話を読む前に~♡
※異世界の創作話です。時代設定、史実に基づいた話ではありません。リアルな世界の常識と混同されないようお願いします。
※心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。
※外道な作者の妄想で作られたガチなフィクションの上、ご都合主義です。
※架空のお話です。現実世界の話ではありません。登場人物、場所全て架空です。
※価値観や言葉使いなど現実世界とは異なります(似てるモノ、同じものもあります)
※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。
【完結】記憶を失くした貴方には、わたし達家族は要らないようです
たろ
恋愛
騎士であった夫が突然川に落ちて死んだと聞かされたラフェ。
お腹には赤ちゃんがいることが分かったばかりなのに。
これからどうやって暮らしていけばいいのか……
子供と二人で何とか頑張って暮らし始めたのに……
そして………
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
拝啓、私を追い出した皆様 いかがお過ごしですか?私はとても幸せです。
香木あかり
恋愛
拝啓、懐かしのお父様、お母様、妹のアニー
私を追い出してから、一年が経ちましたね。いかがお過ごしでしょうか。私は元気です。
治癒の能力を持つローザは、家業に全く役に立たないという理由で家族に疎まれていた。妹アニーの占いで、ローザを追い出せば家業が上手くいくという結果が出たため、家族に家から追い出されてしまう。
隣国で暮らし始めたローザは、実家の商売敵であるフランツの病気を治癒し、それがきっかけで結婚する。フランツに溺愛されながら幸せに暮らすローザは、実家にある手紙を送るのだった。
※複数サイトにて掲載中です
《勘違い》で婚約破棄された令嬢は失意のうちに自殺しました。
友坂 悠
ファンタジー
「婚約を考え直そう」
貴族院の卒業パーティーの会場で、婚約者フリードよりそう告げられたエルザ。
「それは、婚約を破棄されるとそういうことなのでしょうか?」
耳を疑いそう聞き返すも、
「君も、その方が良いのだろう?」
苦虫を噛み潰すように、そう吐き出すフリードに。
全てに絶望し、失意のうちに自死を選ぶエルザ。
絶景と評判の観光地でありながら、自殺の名所としても知られる断崖絶壁から飛び降りた彼女。
だったのですが。
【完結】【勇者】の称号が無かった美少年は王宮を追放されたのでのんびり異世界を謳歌する
雪雪ノ雪
ファンタジー
ある日、突然学校にいた人全員が【勇者】として召喚された。
その召喚に巻き込まれた少年柊茜は、1人だけ【勇者】の称号がなかった。
代わりにあったのは【ラグナロク】という【固有exスキル】。
それを見た柊茜は
「あー....このスキルのせいで【勇者】の称号がなかったのかー。まぁ、ス・ラ・イ・厶・に【勇者】って称号とか合わないからなぁ…」
【勇者】の称号が無かった柊茜は、王宮を追放されてしまう。
追放されてしまった柊茜は、特に慌てる事もなくのんびり異世界を謳歌する..........たぶん…....
主人公は男の娘です 基本主人公が自分を表す時は「私」と表現します
最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません
abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。
後宮はいつでも女の戦いが絶えない。
安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。
「どうして、この人を愛していたのかしら?」
ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。
それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!?
「あの人に興味はありません。勝手になさい!」
もう二度とあなたの妃にはならない
葉菜子
恋愛
8歳の時に出会った婚約者である第一王子に一目惚れしたミーア。それからミーアの中心は常に彼だった。
しかし、王子は学園で男爵令嬢を好きになり、相思相愛に。
男爵令嬢を正妃に置けないため、ミーアを正妃にし、男爵令嬢を側妃とした。
ミーアの元を王子が訪れることもなく、妃として仕事をこなすミーアの横で、王子と側妃は愛を育み、妊娠した。その側妃が襲われ、犯人はミーアだと疑われてしまい、自害する。
ふと目が覚めるとなんとミーアは8歳に戻っていた。
なぜか分からないけど、せっかくのチャンス。次は幸せになってやると意気込むミーアは気づく。
あれ……、彼女と立場が入れ替わってる!?
公爵令嬢が男爵令嬢になり、人生をやり直します。
ざまぁは無いとは言い切れないですが、無いと思って頂ければと思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる