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第四章

第17話 戸惑い

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 その日、東京にはめずらしく小雪がちらついていた。
 頼りなげに舞い落ちる雪。
 私の気持ちも今日の雪のように揺れて落ちていた。

 やっと杉田に会えたというのに、最悪の「姫初め」になってしまった。
 海辺の渇いた砂の上を歩くようなもどかしさが、私の心を苦しめた。

 (聞こえないふりをすればよかった)

 そう思った。
 杉田には奥さんや他の愛人がいることも承知している。
 それなのにあの日だけは許せなかった。
 生理前でイライラしていたせいなの?
 杉田は私のことを嫌いになってしまったのかもしれない。
 でも、杉田とは別れたくはなかった。
 杉田と一緒にいるだけで、安心出来る自分がいたからだ。



 桜井が声を掛けて来た。

 「どうしたんですか専務? 明日にも地球が破滅しそうな顔をして?」
 「いっそそうなってくれたらどんなにラクか・・・」

 私は深い溜息を吐いた。

 「ようやく僕にもチャンスが巡って来たという訳ですね?
 どうです? 今夜、ディナーでも?
 今夜は僕が奢りますから」

 私は彼の誘いを承諾した。
 このモヤモヤを何とか吹き飛ばしたかったからだ。

 「自分で焼く、煙だらけの串焼の店なんですけどかまいませんか? でもすごく旨いんですよ。おススメです」
 「今日はお洒落な服じゃないから大丈夫よ」
 「じゃあ今夜はそこにしましょう」



 その店は飲み屋街の細い路地の奥にある、入口の狭い縄暖簾の店だった。
 換気扇から香ばしいお醤油の香りと、脂の焦げるいい匂いが漂っていた。


 引戸を開けると中はカウンターが7席と、小上がりには円卓が3つあった。
 仕事帰りのサラリーマンやOLで、店は賑わっていた。


 「こんばんはー」
 「おっ、桜井ちゃん、今日はベッピンさんといっしょかい? じゃんじゃん食べてガンガン飲んでけよな?」
 「ありがとうございます。このカウンター席でいいですか?」
 「おう、今すぐに片付けるから、それまで串を選んでな」
 「わかりました」


 入口近くには様々な串焼きのネタを入れた冷蔵のショーケースがあった。

 「ここで自分の好きな物を取って、自分で焼くんです。
 何がいいですか?」
 「任せるわ。私、好き嫌いはないから」
 「そうですか? では最初は僕の好きな物にしますよ」

 桜井はベーコンで巻いたホタテ串を経木の上に乗せた。

 「これ、すごく旨いんですよ」

 それから豚バラで巻いたエノキ茸、エリンギ、しし唐に
若鳥のネギ間、レバー串。
 そして最後に銀杏を乗せた。

 「僕は銀杏が大好きなんですよ」
 「私も大好き」

 私はその時、前の夫のことを思い出していた。
 新婚の時、せっかく作った茶碗蒸しを前に夫はこう言った。

 「まさか銀杏は入れてないよね?」
 「えっ? 銀杏嫌いなの?」
 「あんなの食べる人間の気持ちが僕には理解出来ないよ」

 彼はその茶碗蒸しに手をつけることはなかった。
 思えばあの時に離婚するべきだったのかもしれない。


 私たちはカウンターに座り、桜井は目の前に置かれた素焼きの長火鉢にホタテベーコンと豚バラエノキを乗せた。


 「お酒は何にしますか?」
 「ビールで」
 「わかりました。すみません、生を2つ下さい」

 この店は大ジョッキしかなかった。


 「大ジョッキなのね?」
 「悦ちゃんと大将だけでやってるので手が回らないんですよ。残ったら私が飲みますから」
 「その心配はいらないと思うけど」
 「では乾杯」
 
 大将は白髪のパンチパーマにねじり鉢巻きをし、眼鏡は燻されて少し曇っていた。

 「ホタテ、もういいぞ」

 私が慌ててそこにあったタレの壺から刷毛を取り出そうとすると、

 「ダメダメ、それじゃない。
 最初は塩で食べてみな? ホタテの甘味をよく感じるから」
 
 私は言われた通り、塩を振って食べてみた。

 「美味しい!」
 「だろう? 次からは俺の特性タレで食べてみな」
 「そうしてみます」
 「ねっ? 美味しいでしょう?」
 「ここへはよく来るの?」
 「月に2回ほどです。街に呑みに出る時はいつもここがスタートなんですよ」
 「ビールもとっても美味しいわ」
 「専務に喜んでもらえて良かった。
 専務にはフレンチとかイタリアンの方が良かったかと後悔していましたから。
 でもやっと僕の夢が叶いました。
 こうして専務とお酒を飲めることが」
 「随分と大袈裟ね?」」
 「専務は「高嶺の華」ですから」

 おそらく10人の女がいれば、桜井を好む女は6人はいるだろう。
 会話も食事も嫌味がない。

 「専務の彼氏さんってどんな人ですか?」
 「私を泥沼から引き上げてくれた恩人よ。
 ぶっきらぼうだけどやさしい人」
 「会ってみたいなあ。専務がそこまで惚れたその男性に」
 
 私は話題を変えた。
 杉田のことを詮索されることが面倒だったからだ。

 「部長はどうしてガールフレンドを作らないの?」
 「妻への謝罪です。離婚して3年間は誰とも付き合わないという、自分へのケジメです。
 僕の浮気が原因で別れましたから」
 「義理堅いのね? イケメン銀行員の割には?」
 「だからずっと我慢して来ました。絹世さんを誘惑することを」

 桜井は私を専務と呼ばず、「絹世さん」と名前で呼んだ。      
 いいタイミングだと思った。


 (女の扱いに慣れている)


 女子行員に囲まれての仕事だから無理もない。

 「別に私じゃなくてもいいでしょう?」

 私はビールを飲んだ。少し温くなり始めていたのでジョッキの3分の1まで飲んだ。

 「僕とお付き合いしてくれませんか? 結婚を前提として」
 「だから私にはお付き合いしている人がいるって・・・」

 桜井から急に手を握られた。
 私はすぐに手を引っ込めた。

 「ダメよ、もう酔ってるの?」
 「酔ってなんかいません!」
 「酔っていないなら頭がおかしいんじゃない?
 恋人がいる女を口説くなんてどうかしてるわ」
 「その男性とは不倫ですよね? 僕にはわかります。
 絹世さん、彼氏さんの話をする時、いつもすごく寂しそうですから」

 私は桜井を睨みつけた。

 「あんたに私の何がわかるの! いいかげんにして!
 今日は部長の奢りよね? ごちそうさま! これで失礼するわ!」

 私は怒って店を出た。
 すぐに桜井が私の後を追っかけて来た。

 「絹世さん、さっきはすみませんでした。
 なんだかその人に嫉妬してしまって、つい余計な事を・・・」
 「アンタ私とヤリたいだけなんでしょう?」
 「そうなりたいですけど、それだけじゃありません。
 あなたを笑顔にしたいんです。本当の笑顔に」
 「それが本当かどうか試してあげる。ついて来なさい」

 私はスタスタと、近くのホテルへと入って行った。
 桜井も私の後に続いた。
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