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第1話 花を売るレストラン

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 都会のビルの森がオレンジ色に染まり、京浜東北線、JR赤羽駅の夕暮れには家路を急ぐサラリーマンやOL、学生たちで溢れていた。

 そんな赤羽駅の北口を進んで狭い路地を入ったところにイタリアンレストラン『ナポリの黄昏』はあった。

 店の常連たちはそのレストランテを親しみを込めて「黄昏」と呼んでいた。
 本格イタリアンと花を売る店。オーナーシェフの小室直哉は寡黙だが、温かい包容力を持った男だった。
 精悍な顔立ち、少し白髪の混じった髪。
 岩城滉一のような雰囲気を持った男だった。

 若い時は外資系ホテルのコックをしていたが、イタリア料理を本格的に学ぶためにナポリの二つ星レストランで10年間修業を重ね、帰国してこの店を始めた。開店してから今年で10年になる。
 彼の料理と人柄に惚れ、ファンも多かった。
 食事を終えた客の殆どは、その店で花を買って帰る。
 家族へ、恋人へ、そして自分のために。

 食事、本、花が一般的なプライオリティではあるが、本来の理想の優先順位は花、本、食事であるべきかもしれない。
 嬉しい時も悲しい時も、花は人生を彩ってくれるからだ。
 『ナポリの黄昏』はそんな「花を売るレストラン」だった。
 店はオーナーシェフの小室とコックの高島、そしてカメリエーラの加奈子の3人で営まれていた。
 高島は小太りの金髪で35歳、独身。腕は確かで様々な有名店やホテルから引抜きの話もあるが、どんなにいい待遇、条件でも高島はそれに乗ることはなかった。
 その理由は極めて単純だった。
 高島は店主の小室を尊敬していた。
 いつも陽気で明るい高島は店のムードメーカーだった。

 カメリエーラの加奈子はスタッフになって3年、以前は大手デパートに勤めていたが、上司との不倫が原因で職場を追われ、OL時代から通っていたこの店で働くことになった。
 現在、独身の28歳で彼氏はいない。
 密かに小室に恋心を寄せている。
 彼女は長い髪をアップにした美しい女性だった。接客は抜群で、花屋も彼女が担当していた。
 彼女の作る花束のセンスには定評があった。



 店の常連の遥が幼稚園児の娘、紅葉もみじを連れてやって来た。

 「こんにちはー」
 「いらっしゃいませ。今日は紅葉ちゃんも一緒なんですね?」

 遥はいつものカウンター席に紅葉と並んで座った。

 この席からは厨房が見渡せて、小室や高島とも会話を楽しむことが出来た。
 高島がフライパンを振りながら遥に話し掛けてきた。

 「久しぶりですねえ、遥さん? 今日はプリンセスと一緒ですか?」
 「高島さんのヒラメのカルパチョが恋しくなっちゃったの。やっぱりここは落ち着くわねー? なんだか実家に帰って来たみたい」
 「おかえりなさいませ、女王様、王女様」

 そうおどけて見せる高島と、黙々と料理を作りながら横顔で微笑む小室。

 「幼稚園のお迎えの帰りなの、旦那は会社の飲み会。だから今日は主婦もお休み。手抜きしちゃった。
 私はレーベンブロイの生とヒラメのカルパチョを。娘にはカルボナーラとブラッディ・オレンジジュースをお願いします」

 紅葉は足をぶらつかせ、

 「ママー、紅葉、お腹ペコペコ」

 すると小室がグリッシーニの入った籠を紅葉の前に置いた。

 「これを齧って待っててね? おじさん、すぐに作るから」
 「ありがとう、小室のおじちゃん」
 「よかったね? 紅葉?」
 「うん、ママもどうぞ」

 紅葉は小室から貰ったグリッシーニを一本、小さな手で遥の口元へと運んだ。

 「ありがとう、紅葉」

 屈託のない紅葉の笑顔に遥は心が軋んだ。
 今日、遥は会社を有給で休み、1時間前まで冴島とホテルで男女の関係を楽しんだ後だったのだ。

 (ゴメンね、紅葉。悪いママで・・・)

 遥は心の中で母親としての不貞を紅葉に詫びた。

 だが、夫の光一郎に対しては不思議と罪悪感は無かった。
 遥は出口のないラビリンスの中に迷い込んでいた。

 冴島は取引先の総合商社の営業部長で妻子があり、最悪のダブル不倫だった。
 しかしながら今の遥にとって冴島は、無くてはならない存在になっていた。
 本当の自分をすべて曝け出すことのできる相手は冴島を置いて他にはいなかった。
 夫の光一郎にさえも。
 
 運ばれて来た冷えたビールが、冴島との行為に熱くなった体に滲みた。
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