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第5話
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家の中では壁を伝い、洗面やトイレは自分で出来るようになったが、髪型を整えたり、ヒゲを剃るのは電気シェーバーで静江にやってもらった。服も下着も着せてもらっていた。
自宅では静江と一緒に白杖の練習もしてはみたが、断念した。
「なるべく広く前方を白杖で探った方がいいんじゃない? それでは範囲が狭すぎて、足元ばかりを探っていて危険だから」
「うるさい! こんな杖を頼りに外が歩けるわけがないだろう!」
私は白杖を床に投げつけた。
こんな杖ではとても怖くて街など歩くことは出来ないと思った。
私は家に引き籠もり、苛立っていた。
そんな私を心配してか、静江は私をよく外出へと誘った。
「たまには外食しない? ラーメンとかどう?」
「ラーメンかあ。食えるかなあ?」
私の家での食事はスプーンで食べるのが主体だった。
フォークは危険だし、掬い難い。
箸は手探りでやっと掴めても、中々口へと運べなかった。
「大丈夫、私が食べさせてあげるから」
「そんなの、食べた気がしないよ」
「今日はお天気もいいわ。たまにはお出かけしてみましょうよ」
「お前ひとりで食べて来いよ」
「ひとりで食べても美味しくないでしょう? 一緒に行きましょうよ。家にばかり居たら足腰が衰えてしまうわ。
あなたには長生きしてもらわないと」
「俺は長生きはしたくないけどな?」
外出して一番の屈辱がトイレだった。多目的トイレがあればいいが、ない時は男子トイレに静江が一緒に入るわけにもいかず、女子トイレに自分が盲目であるということを周知させるため、白杖をついて静江に手を引かれて女子トイレに一緒に入るのだ。
周囲からは好奇な目で見られているのがわかる。
「すみません、全盲なのでトイレを使わせて下さーい」
静江はなるべくそう言って明るく振る舞うのである。
私と周囲を気遣いながら。
「どうぞどうぞ」
「奥さんも大変ね?」
「いえ、大丈夫です」
その時、小さな女の子の無邪気な声が聞こえた。
「ママ、あのおじちゃん、女の子のおトイレにいるよ? ダメだよね? 早くおまわりさんに言わないと」
「あの人は特別なの。おメメが見えない人だからいいのよ」
「おメメが見えないの? あのおじちゃん。かわいそう」
「いいから早くして来なさい。ママ、ここで待っているから」
その母親は静江に申し訳無さそうに無言の会釈をしているようだった。
そこはよく行っていたラーメン屋だった。
昼時は混雑しているので午後2時過ぎに訪れた。
入口の券売機の前で静江が私に訊ねた。
「何がいい?」
「チャーシューワンタンメンの醤油で」
「私は中華そばでいいかなあ?」
券売機のある飲食店では、その店のお勧め人気メニューは大抵、券売機の商品ボタンの左一番上にあることが多い。
もちろん私ひとりでそれを購入することは出来ない。
もし自分ひとりだったら店員を呼んで手伝ってもらうしかない。
そして券売機でもたついていようものなら、そこに並んでいる人間から「チッ」と舌打ちされることもあるのだ。
静江がいなければ何も出来ない、そんな自分が腹立たしかった。
私と静江はいつもはカウンターに並んで座ったが、今日は4人掛けのテーブル席に座った。
店員に食券を渡し、やがてラーメンが運ばれて来た。
「お待たせしました、チャーシューワンタンの醤油と中華そばです」
「ありがとうございます。あなた、かなり熱いから気をつけてね?」
「ああ、箸とレンゲをくれないか?」
静江が割箸を割って右手に握らせてくれた。
それから私の左手にレンゲを持たせてくれた。
「スープ、掬ってあげましょうか?」
「いや、大丈夫だ」
私は恐る恐るレンゲでスープを少し掬って飲んだ。
「ああ、うまいなあ」
「良かった」
静江はそんな私を見て、うれしそうだった。
私はラーメン丼ぶりの中を、箸を白杖のように探り、ラーメンを食べていた。
食べるのに時間がかかるので、せっかくのラーメンがどんどん温くなっていった。
私はようやくラーメンを完食した。
「また食べに来ようね?」
「ああ」
家に着いた。
「今日はありがとう。久しぶりのラーメン、美味かったよ」
私は静江を労った。
「また行きましょうね? ・・・!」
静江の様子がおかしい。
「どうした?」
「耳が、耳が聴こえなくなってしまった!」
私はすぐにタクシーを呼び、近くの耳鼻咽喉科に静江を連れて行った。
そのクリニックの院長は気の毒そうに言った。
「これはウチでは難しいので、今、紹介状を書きますので大学病院で精密検査を受けて下さい」
私たちはすぐに大学病院へと向かった。
突発性難聴と診断された。
医者の話だと「極度のストレスにより発症することもありますが、原因は不明です」と言われた。
静江は1週間、投薬入院をすることになった。
幸い静江は話すことは出来たが、耳は聴こえなくなってしまったらしい。
静江はひどく落胆し、私は戸惑った。静江がいなければ何も出来ないからだ。
仕方なく静江が入院している間は、実家から母に来てもらうことにした。
「今度は私の耳が聞こえないなんてね? 夫のあなたは目が見えない、そして妻の私は耳が聞こえない。
障害者夫婦ね? 私たち。
一体私たちが何をしたというの! ただ真面目に生きて来ただけなのに! ううううう」
「元気を出せ静江。お前の耳は必ず良くなる」
だが残念なことに、静江には私の声は聞こえなかった。
すると静江は紙とペンを私に握らせてくれた。
「目は見えるから、ここに話したいことを書いて頂戴」
目は見えなくても字は書ける。指の感覚が字を覚えているからだ。
元気を出せ! 静江!
私は紙に大きくそう書いたつもりだった。
「うん、うん。ううううう」
静江は泣いているようだった。
そして俺たち夫婦は「目の見えない夫と、耳の聴こえない妻」になってしまった。
自宅では静江と一緒に白杖の練習もしてはみたが、断念した。
「なるべく広く前方を白杖で探った方がいいんじゃない? それでは範囲が狭すぎて、足元ばかりを探っていて危険だから」
「うるさい! こんな杖を頼りに外が歩けるわけがないだろう!」
私は白杖を床に投げつけた。
こんな杖ではとても怖くて街など歩くことは出来ないと思った。
私は家に引き籠もり、苛立っていた。
そんな私を心配してか、静江は私をよく外出へと誘った。
「たまには外食しない? ラーメンとかどう?」
「ラーメンかあ。食えるかなあ?」
私の家での食事はスプーンで食べるのが主体だった。
フォークは危険だし、掬い難い。
箸は手探りでやっと掴めても、中々口へと運べなかった。
「大丈夫、私が食べさせてあげるから」
「そんなの、食べた気がしないよ」
「今日はお天気もいいわ。たまにはお出かけしてみましょうよ」
「お前ひとりで食べて来いよ」
「ひとりで食べても美味しくないでしょう? 一緒に行きましょうよ。家にばかり居たら足腰が衰えてしまうわ。
あなたには長生きしてもらわないと」
「俺は長生きはしたくないけどな?」
外出して一番の屈辱がトイレだった。多目的トイレがあればいいが、ない時は男子トイレに静江が一緒に入るわけにもいかず、女子トイレに自分が盲目であるということを周知させるため、白杖をついて静江に手を引かれて女子トイレに一緒に入るのだ。
周囲からは好奇な目で見られているのがわかる。
「すみません、全盲なのでトイレを使わせて下さーい」
静江はなるべくそう言って明るく振る舞うのである。
私と周囲を気遣いながら。
「どうぞどうぞ」
「奥さんも大変ね?」
「いえ、大丈夫です」
その時、小さな女の子の無邪気な声が聞こえた。
「ママ、あのおじちゃん、女の子のおトイレにいるよ? ダメだよね? 早くおまわりさんに言わないと」
「あの人は特別なの。おメメが見えない人だからいいのよ」
「おメメが見えないの? あのおじちゃん。かわいそう」
「いいから早くして来なさい。ママ、ここで待っているから」
その母親は静江に申し訳無さそうに無言の会釈をしているようだった。
そこはよく行っていたラーメン屋だった。
昼時は混雑しているので午後2時過ぎに訪れた。
入口の券売機の前で静江が私に訊ねた。
「何がいい?」
「チャーシューワンタンメンの醤油で」
「私は中華そばでいいかなあ?」
券売機のある飲食店では、その店のお勧め人気メニューは大抵、券売機の商品ボタンの左一番上にあることが多い。
もちろん私ひとりでそれを購入することは出来ない。
もし自分ひとりだったら店員を呼んで手伝ってもらうしかない。
そして券売機でもたついていようものなら、そこに並んでいる人間から「チッ」と舌打ちされることもあるのだ。
静江がいなければ何も出来ない、そんな自分が腹立たしかった。
私と静江はいつもはカウンターに並んで座ったが、今日は4人掛けのテーブル席に座った。
店員に食券を渡し、やがてラーメンが運ばれて来た。
「お待たせしました、チャーシューワンタンの醤油と中華そばです」
「ありがとうございます。あなた、かなり熱いから気をつけてね?」
「ああ、箸とレンゲをくれないか?」
静江が割箸を割って右手に握らせてくれた。
それから私の左手にレンゲを持たせてくれた。
「スープ、掬ってあげましょうか?」
「いや、大丈夫だ」
私は恐る恐るレンゲでスープを少し掬って飲んだ。
「ああ、うまいなあ」
「良かった」
静江はそんな私を見て、うれしそうだった。
私はラーメン丼ぶりの中を、箸を白杖のように探り、ラーメンを食べていた。
食べるのに時間がかかるので、せっかくのラーメンがどんどん温くなっていった。
私はようやくラーメンを完食した。
「また食べに来ようね?」
「ああ」
家に着いた。
「今日はありがとう。久しぶりのラーメン、美味かったよ」
私は静江を労った。
「また行きましょうね? ・・・!」
静江の様子がおかしい。
「どうした?」
「耳が、耳が聴こえなくなってしまった!」
私はすぐにタクシーを呼び、近くの耳鼻咽喉科に静江を連れて行った。
そのクリニックの院長は気の毒そうに言った。
「これはウチでは難しいので、今、紹介状を書きますので大学病院で精密検査を受けて下さい」
私たちはすぐに大学病院へと向かった。
突発性難聴と診断された。
医者の話だと「極度のストレスにより発症することもありますが、原因は不明です」と言われた。
静江は1週間、投薬入院をすることになった。
幸い静江は話すことは出来たが、耳は聴こえなくなってしまったらしい。
静江はひどく落胆し、私は戸惑った。静江がいなければ何も出来ないからだ。
仕方なく静江が入院している間は、実家から母に来てもらうことにした。
「今度は私の耳が聞こえないなんてね? 夫のあなたは目が見えない、そして妻の私は耳が聞こえない。
障害者夫婦ね? 私たち。
一体私たちが何をしたというの! ただ真面目に生きて来ただけなのに! ううううう」
「元気を出せ静江。お前の耳は必ず良くなる」
だが残念なことに、静江には私の声は聞こえなかった。
すると静江は紙とペンを私に握らせてくれた。
「目は見えるから、ここに話したいことを書いて頂戴」
目は見えなくても字は書ける。指の感覚が字を覚えているからだ。
元気を出せ! 静江!
私は紙に大きくそう書いたつもりだった。
「うん、うん。ううううう」
静江は泣いているようだった。
そして俺たち夫婦は「目の見えない夫と、耳の聴こえない妻」になってしまった。
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