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第3話

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 毎日心に病を抱えた患者たちが次々と俺のところへやって来る。
 発達障害、不安症、ジスキネジア、パーソナリティ障害、心的外傷ストレス障害(PTSD)、不眠症、うつ病、レム睡眠行動障害、双極性障害(躁うつ病)、統合失調症に適応障害、パニック障害、摂食障害に自閉症等々・・・。

 普通の医者は患者の体を診て治療をするが、精神科医は人の「心」を探り、普通の精神状態に戻すのが仕事だ。
 つまり精神科医は目に見えない「心」と向き合って治療をするのだ。
 人間の心とは海のようなものだ。いや、宇宙のように「あると思えばある」というように、どこまでも際限なく広がってゆくものだろう。心とは、


      我思う 故に我あり


 なのである。
 太陽が輝く空の下にある海は美しく穏やかでも、深海に向かって進んで行くと、闇はどんどん深くなって行く。
 健在意識と無意識の中にある潜在意識へと心の表情が変わってゆくのである。

 『ジョハリの窓』のように、人間には4つの自分が存在する。


         自分だけが知っている自分
         自分も他人も知っている自分
         自分が知らない他人が知っている自分
         自分も他人も知らない自分


 様々な精神障害と向き合っていると、患者に自分が引き込まれてしまうことがある。
 相楽めぐみはそんな患者のうちのひとりだった。
 死への憧憬。
 俺も時々彼女の世界へと引き摺り込まれそうになる時がある。


 「相楽さん、お亡くなりになったご主人とのツーショットのお写真はお持ちですか?」
 「はい」

 彼女はスマホを取り出し、俺にその待受画面を見せてくれた。
 俺は驚いた。そこには知的でやさしそうなご主人と、頬を寄せて満面の笑みを浮かべている彼女が写っていたからだ。
 
 (これがこの能面のように無表情な女と同一人物だというのか?)

 俺は彼女の顔を二度見してしまった。
 俺にはとても眼の前の彼女が同一人物だとは信じられなかった。

 「素敵なご主人ですね? それに相楽さんもとてもいい笑顔をされていらっしゃる」
 「もう主人はいません。先生、内緒で私に筋弛緩剤を注射していただけませんか?」
 「またそんなことを」
 「主人がいないこの世界で、生きることは死ぬことよりも辛いんです」
 「ご主人を愛していたんですね? でも死ぬほど辛くても死んではいけません。
 生きるのです、ご主人の分まで」
 「お願いです、私を死なせて・・・。先生、私を殺して下さい」

 私は段々この目の前の女が不憫ふびんに思えて来た。

 旦那は自宅の格子階段で首を吊って死んでいたらしい。
 それを買物から帰って来た彼女が見つけたそうだ。
 まるでサンドバッグのように吊るされた、旦那の遺体からは肛門が弛緩しかんし、糞尿が滴り、ペニスは勃起していたことだろう。
 死後硬直だと言えばそれまでだが、私はそうは思わない。
 それは自分の死にひんして、最後に自分の子孫を残そうとする「男の本能」ではないだろうか?
 電車に飛び込んだ人間はその恐怖のあまり髪の毛は一瞬で白髪となって逆立ち、ペニスは硬直している場合がある。
 本来人間は「死にたくない」はずなのだ。
 うつ病を発症する人間の殆どは真面目で自分に厳しく、常に周囲に気を遣い、完璧主義な人間が多い。
 妥協することを嫌い、他人を頼ることもせず、自分にこもりやすい性格の人で、主に女性がかかりやすい心の病だ。つまり真面目で「やさしい人」がおちいりやすい病なのだ。
 うつ病は脳内細胞で起きる脳内伝達物質、セロトニンやドーパミン、ノルアドレナリンなどの異常により引き起こされると考えられているが、未だにその起因システムはわかっていない。


       消えてしまいたい


 「何も考えない自分になりたい」と思ってしまうのだ。
 食欲不振または過食。何もすることが出来ず、気力も湧かず、無気力、無感動、無関心。
 不眠に自己否定感に被害妄想。
 そして自ら死に進んで行こうとする心理が働くのだ。
 そんな自分から逃げたいと。



 それから1ヶ月が過ぎた頃だった。俺も日々、多くの患者に忙殺されて相楽めぐみのことをすっかり忘れかけていた時、事件は起きた。


 「山本先生、相楽めぐみさんという患者さんからお電話です」
 「繋いで下さい」
 
 力の無い彼女の声だった。

 「先生、私、今、手首を切りました・・・」
 「すぐに救急車を向かわせます! 今、ご自宅ですか?」
 「はい・・・、助けて先生、私、死にたくない・・・」
 「大丈夫! あなたは死にませんから!」

 俺はすぐに119番をした。
 そしてすぐに手当が行われ、相楽めぐみは命を取り留めた。

 
 「本当に良かった、めぐみさんが死ななくて」

 俺は親近感を込めて、彼女を苗字ではなく名前で呼んだ。

 「先生・・・、ごめんなさい・・・」
 「大丈夫、もう大丈夫ですから。一緒に治して行きましょうね?」
 「山本先生、私、また笑えるようになるでしょうか?」
 「めぐみさんは笑えるようになります、きっと僕が笑えるようにしてあげます」
 
 めぐみの目から大粒の涙が溢れた。
 この時俺は危うくこの「患者」を抱きしめてしまいそうだった。

 (この患者を、めぐみを救いたい、守ってやりたい)

 俺は自分が精神科医であることを忘れた。
    
 再び俺は彼女を入院させ、カウンセリングと投薬治療を続けた。
 しかし、中々症状の改善は見られなかった。



 今日も多くの「狂人たち」の診察でクタクタになった俺は、自宅には戻らず葵のマンションに行くと、葵がテレビを見ていた。

 「あはははは あはははは」
 「何がそんなに面白いんだ?」
 「だってこのクラウン(道化師)、最高なのよ」

 そこにはパントマイムを演じている白人のピエロがいた。

 「この人ね? 昔、イギリスの優秀な外科医だったんですって。
 自分の恋人が笑わなくなってしまって、その恋人を笑わせてあげるためにドクターを辞めてクラウンになったのよ。あはははは あははははは」
 「恋人を笑わせるためにピエロにか?」
 「うん、いいお話でしょ? でもバカよね? 何も医者を辞めなくてもいいのにね? あはははは」

 俺にはこの元外科医だったという男の気持ちが痛いほど理解出来た。
 恋人の笑顔を取り戻すためにピエロになったというこの男の気持ちが。
 私の頭から、このピエロの姿が離れなくなってしまった。

 俺も医者を辞め、めぐみを笑わせてみたいと思った。

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