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第1話
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俺は渉を乗せたベビーカーを押しながら、めぐみとフードコーナーを一緒に歩いていた。
「チョコミント・アイスが食べたい」
「好きだな? チョコミント」
「甘くて爽快で好きなのよ」
「俺はダメだな? 歯磨き粉味のチョコレート・アイスを食べているみたいで」
「あはははは 自分たちのお笑いコンビと同じ名前じゃないの? 『チョコミント・アイスクリーム』って。
ねえ渉、パパ、面白いね?」
めぐみはそう言って笑った。
めぐみがこうして笑えるようになるまでの道程は長かった。
精神科医の俺はいつも遅刻ギリギリに病院にやって来る。
髭も剃らず、髪は寝ぐせがついてボサボサ。ネクタイもヨレヨレだった。
そんな私を女房の香織はすっかり見放していた。他に男もいるようだった。
「山本、お前、酒臭いぞ。また朝まで飲んでいたのか? ここまで臭うぞ」
「朝までじゃなくて、朝からだ」
イケメン内科医の井上は顔を顰めた。井上とは医学部の同期だった。
私は井上が記入した患者の電子カルテをiPadで眺めていた。
「相楽めぐみ、30歳か? 子供はなく現在は独身。夫は職場の上司からのパワハラが原因で自殺。それによりうつ状態となり、睡眠薬の多量摂取による自殺未遂を図ったと? 今の睡眠薬ではどんぶり一杯でも服用しない限り、死ねないけどな? それでウチの病院に運ばれて来たという訳か?」
「そういうわけだからよろしく頼む」
「わかった、何とかするよ」
俺はまだ酔いが醒めてはおらず、ペットボトルの冷たい水をがぶ飲みした。
「あー、飲んだ後の水は最高だなあ! うめえー!
それじゃあ水谷、患者さんを呼んでくれ」
「わかりました」
看護士の水谷が患者さんを診察室に招き入れた。
「相楽さーん、こちらへどうぞー」
相楽めぐみが診察室に入って来た。それはまるで世界が終わったかのような、能面のように無表情な女だった。
「おはようございます、相楽さん。精神科医の山本です。
辛かったですよねー? 大変だったよねー? いいんですよ、悲しい時は思い切り悲しんでも。
人間はね、嫌なことや辛い記憶はみーんな消えるように、神様が脳をプログラムしてくれているんだよ。 だからそんな顔をしないでほら笑って、スマイル、スマイル。後は時間が解決してくれるから」
だがめぐみは笑わなかった。
「先生、教えて下さい。人間はどうして自殺してはいけないんですか?」
「それは死んじゃダメだからだよ。相楽さんが死んだら、あなたを愛してくれている人たちが悲しむでしょう?
人間の命はね? 神様が与えてくれた大切なものだから粗末にしちゃあダメ、わかるよね?
人間には天寿を全うする義務があるんだ。
人はね? 病気や事故で死ぬんじゃないの、寿命で亡くなるの。
だからそのプログラムを自分で勝手に変更することは神様への冒涜になるんだよ。これはわかるね?
神様は人間が自ら命を終わらせることを望んではいないんだから」
「死んだら人間はどうなるんですか?」
「どうなるんだろうね? 僕は死んだことがないからわからないな?」
「死んだこともないくせに、偉そうなこと言わないで下さい。
そんな先生に私の死にたい気持ちなんか、わかるもんですか」
俺は感情のないロボットと話しているのかと思った。抑揚のない声、彼女はすでに死んでいるかのようだった。
人は生き甲斐がなければ生きられない、俺はこの患者を見てそれを再認識した。
そもそも精神医学とは西洋の考え方であり、クレペリンによって精神障害が分類され、ユングやフロイトがそれを体系付けたものだ。
だが精神科医である俺はそれに対して矛盾を抱えていた。
うつ病だったり躁うつ病だったり分裂病だったりと、程度に差はあれ、精神疾患は誰にでもあるものだと。
それを人は「悩み」と呼ぶ。そして悩みのない人間はいないのだ。
昔の西洋人はロボトミーなどと称して感情を司る前頭葉を外科的に手術をして行動を抑制するかわりに、人格と知性を犠牲にしたのである。
最近では研究も進み、精神治療は薬物治療が主流ではあるが、それで心の病は完治したと言えるのだろうか?
相楽めぐみには感情がなかった。
俺は今朝、愛人の葵からSEXのやり方が最近雑になったと言われてケンカになり、虫の居所が悪かったせいもあり、自分が精神科医であることも忘れ、めぐみにぶちキレてしまった。
「ああ、わかんねえよそんなの!
アンタだけじゃねえんだよ! 死にたい連中なんて山ほどいる!
そんな人たちと俺は毎日のように接して、俺の方がおかしくなりそうだ!
年間の自殺者が何人いるか知ってるか? 2万人だよ2万人!
自殺未遂はその何倍いると思う? そして自殺を考えた事のある人間はさらにその何十倍、何百倍にもなるんだ!
甘ったれんなバーカ!
誰がアンタのウジ虫の湧いた死体を片付けるんだよ!
みんな忙しいのにやれお通夜だ、お葬式だ、四十九日だなんて、香典まで包んで迷惑なんだよ! まったく!
旦那が死んだ奥さんなんてな? 世の中にはいくらでもいるんだ!
ちょっとくらい美人、イヤ、かなり美人だからっていい気になるなよ! バカ貧乳!」
するとめぐみはゆっくりと私に言った。
「そうですよね? 私、甘えていました」
「分かればいいんだよ、分かれば」
「私、今度こそ皆さんにご迷惑をかけないように死んで見せます。
今日は本当にありがとうございました。これで主人のところへ行けます」
「オイオイ、それじゃ何にもならねえだろう?
俺はね? だから死なないでねって言ってるの!
それじゃ俺が自殺幇助になっちゃうでしょうが!
医者が自殺の手助けをしてどうすんの! 俺は患者さんの心を安らかにするのが仕事なんだから!」
「先生のおかげでまた死ぬ勇気が湧いて来ました」
「バカ野郎! 死ぬ勇気じゃなくて生きる勇気を持てよ! 取り合えず入院!」
それが俺とめぐみの初めての出会いだった。
「チョコミント・アイスが食べたい」
「好きだな? チョコミント」
「甘くて爽快で好きなのよ」
「俺はダメだな? 歯磨き粉味のチョコレート・アイスを食べているみたいで」
「あはははは 自分たちのお笑いコンビと同じ名前じゃないの? 『チョコミント・アイスクリーム』って。
ねえ渉、パパ、面白いね?」
めぐみはそう言って笑った。
めぐみがこうして笑えるようになるまでの道程は長かった。
精神科医の俺はいつも遅刻ギリギリに病院にやって来る。
髭も剃らず、髪は寝ぐせがついてボサボサ。ネクタイもヨレヨレだった。
そんな私を女房の香織はすっかり見放していた。他に男もいるようだった。
「山本、お前、酒臭いぞ。また朝まで飲んでいたのか? ここまで臭うぞ」
「朝までじゃなくて、朝からだ」
イケメン内科医の井上は顔を顰めた。井上とは医学部の同期だった。
私は井上が記入した患者の電子カルテをiPadで眺めていた。
「相楽めぐみ、30歳か? 子供はなく現在は独身。夫は職場の上司からのパワハラが原因で自殺。それによりうつ状態となり、睡眠薬の多量摂取による自殺未遂を図ったと? 今の睡眠薬ではどんぶり一杯でも服用しない限り、死ねないけどな? それでウチの病院に運ばれて来たという訳か?」
「そういうわけだからよろしく頼む」
「わかった、何とかするよ」
俺はまだ酔いが醒めてはおらず、ペットボトルの冷たい水をがぶ飲みした。
「あー、飲んだ後の水は最高だなあ! うめえー!
それじゃあ水谷、患者さんを呼んでくれ」
「わかりました」
看護士の水谷が患者さんを診察室に招き入れた。
「相楽さーん、こちらへどうぞー」
相楽めぐみが診察室に入って来た。それはまるで世界が終わったかのような、能面のように無表情な女だった。
「おはようございます、相楽さん。精神科医の山本です。
辛かったですよねー? 大変だったよねー? いいんですよ、悲しい時は思い切り悲しんでも。
人間はね、嫌なことや辛い記憶はみーんな消えるように、神様が脳をプログラムしてくれているんだよ。 だからそんな顔をしないでほら笑って、スマイル、スマイル。後は時間が解決してくれるから」
だがめぐみは笑わなかった。
「先生、教えて下さい。人間はどうして自殺してはいけないんですか?」
「それは死んじゃダメだからだよ。相楽さんが死んだら、あなたを愛してくれている人たちが悲しむでしょう?
人間の命はね? 神様が与えてくれた大切なものだから粗末にしちゃあダメ、わかるよね?
人間には天寿を全うする義務があるんだ。
人はね? 病気や事故で死ぬんじゃないの、寿命で亡くなるの。
だからそのプログラムを自分で勝手に変更することは神様への冒涜になるんだよ。これはわかるね?
神様は人間が自ら命を終わらせることを望んではいないんだから」
「死んだら人間はどうなるんですか?」
「どうなるんだろうね? 僕は死んだことがないからわからないな?」
「死んだこともないくせに、偉そうなこと言わないで下さい。
そんな先生に私の死にたい気持ちなんか、わかるもんですか」
俺は感情のないロボットと話しているのかと思った。抑揚のない声、彼女はすでに死んでいるかのようだった。
人は生き甲斐がなければ生きられない、俺はこの患者を見てそれを再認識した。
そもそも精神医学とは西洋の考え方であり、クレペリンによって精神障害が分類され、ユングやフロイトがそれを体系付けたものだ。
だが精神科医である俺はそれに対して矛盾を抱えていた。
うつ病だったり躁うつ病だったり分裂病だったりと、程度に差はあれ、精神疾患は誰にでもあるものだと。
それを人は「悩み」と呼ぶ。そして悩みのない人間はいないのだ。
昔の西洋人はロボトミーなどと称して感情を司る前頭葉を外科的に手術をして行動を抑制するかわりに、人格と知性を犠牲にしたのである。
最近では研究も進み、精神治療は薬物治療が主流ではあるが、それで心の病は完治したと言えるのだろうか?
相楽めぐみには感情がなかった。
俺は今朝、愛人の葵からSEXのやり方が最近雑になったと言われてケンカになり、虫の居所が悪かったせいもあり、自分が精神科医であることも忘れ、めぐみにぶちキレてしまった。
「ああ、わかんねえよそんなの!
アンタだけじゃねえんだよ! 死にたい連中なんて山ほどいる!
そんな人たちと俺は毎日のように接して、俺の方がおかしくなりそうだ!
年間の自殺者が何人いるか知ってるか? 2万人だよ2万人!
自殺未遂はその何倍いると思う? そして自殺を考えた事のある人間はさらにその何十倍、何百倍にもなるんだ!
甘ったれんなバーカ!
誰がアンタのウジ虫の湧いた死体を片付けるんだよ!
みんな忙しいのにやれお通夜だ、お葬式だ、四十九日だなんて、香典まで包んで迷惑なんだよ! まったく!
旦那が死んだ奥さんなんてな? 世の中にはいくらでもいるんだ!
ちょっとくらい美人、イヤ、かなり美人だからっていい気になるなよ! バカ貧乳!」
するとめぐみはゆっくりと私に言った。
「そうですよね? 私、甘えていました」
「分かればいいんだよ、分かれば」
「私、今度こそ皆さんにご迷惑をかけないように死んで見せます。
今日は本当にありがとうございました。これで主人のところへ行けます」
「オイオイ、それじゃ何にもならねえだろう?
俺はね? だから死なないでねって言ってるの!
それじゃ俺が自殺幇助になっちゃうでしょうが!
医者が自殺の手助けをしてどうすんの! 俺は患者さんの心を安らかにするのが仕事なんだから!」
「先生のおかげでまた死ぬ勇気が湧いて来ました」
「バカ野郎! 死ぬ勇気じゃなくて生きる勇気を持てよ! 取り合えず入院!」
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