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第1話

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 「上村うえむら部長! 今夜みんなで飲みに行くんですけど部長も一緒にいかがですか?」

 私がデスクで帰り支度をしていると、こずえが声を掛けて来た。

 「今日は華金だもんな?」
 「たまには部長も行きましょうよ! 部長の石原裕次郎、また聴かせて下さいよお!」

 私は財布から3万円を抜き取り、梢に渡した。

 「これで1次会の足しにしてくれ」
 「お金じゃなくて、部長と飲みたいんですう」
 「いいから取っておきなさい。悪いが今日は人と会う約束があるんだ」

 私は嘘を吐いた。

 「もしかしてデートだったりして?」
 「まあそんなところだ」
 

 私は5年前に妻を亡くしていた。
 子供がいなかったのは良かったのか悪かったのか? 今ではよくわからない。


 「部長はダンディーですからね? まだまだイケてますよ!
 いいんですか? こんなにいただいても?
 いつもすみません、ありがとうございます!
 次回は必ず参加して下さいね、それじゃあ遠慮なく。
 みなさあーん! 部長から3万円もカンパしていただいちゃいましたあ!」

 梢はヒラヒラと札を振ってみんなに見せた。

 「ありがとうございます」
 「部長、いつもすみません」
 「ゴチになります!」
 「部長大好き!」


 私は部下に気を遣うのも、遣わせるのも面倒だった。
 そしてそれは残された貴重な時間を、そんなことで使いたくはなかったからだ。
 私は余命宣告を受けていた。



 「残念ですが、上村さんは心筋梗塞のようです。
 上村さんの心臓は現在、30%しか動いていません」
 「つまりそれは余命宣告と理解してよろしいのでしょうか?」
 「取り敢えず今、狭窄しているこの動脈を開放する必要があります」
 「先生、この閉塞している血管が通れば心筋が再生されるわけではありませんよね?
 このまま放置するとどうなりますか?」
 「最終的には肺に水が溜まり、プールで溺れたような状態になります」
 「それだけ伺えば十分です。私は自分の人生に後悔はありません。
 戦国時代であれば、50年が男の寿命でしたよね?
 しかもまともな医者なんていなかったわけだし、私は貝原先生が主治医で本当に良かったと思っています。
 出来ることなら苦しくなる前に死にたいものです。
 そんな溺れる状態になる前に死にたい。
 死んだ女房もあの世で待ってるでしょうしね?
 「あなた、モタモタしていないで早くこっちに来なさいよ」ってね?」

 貝原医師は明らかに困惑しているようだった。

 「大丈夫ですよ、すぐにそうなるわけではありませんから」

 この医者はやさしい医者だった。
 最後に気休めを言うのを忘れることはなかった。


 誰も私がそんな病気を抱えているとは思わない筈だ。




 月曜日の午後、銀行の三浦が会社にやって来た。
 打ち合わせも終わり、淹れたお茶もすっかり温くなった頃、三浦が言った。

 「それでは上村部長、今期の決算書が出来上がりましたらお知らせ下さい、取りに伺いますので。
 今期もかなり好調なようで何よりです」
 「三浦次長、聞きましたよ、今度、本店にご栄転されるそうじゃないですか? おめでとうございます」
 「それも御社のおかげですよ。どうです? そのうち一杯?」
 「では私にご馳走させて下さい。次長のご栄転のお祝いに」
 「とんでもありません、私に接待させて下さいよ。
 お世話になっているのは私の方ですから」
 「でもなんだか寂しくなりますね? 三浦次長が弊社の担当から外れてしまうのは」
 「ありがとうございます上村部長。それは私のセリフですよ。
 部長とお付き合いさせていただき、私もすごく勉強になりました」
 「逆ですよ。私の方こそです」

 私は空虚なこのやり取りに疲れ、話を打ち切ることにした。
 所詮、銀行は晴れた日に無理やり傘を押し付け、雨が降りそうになるとそれを簡単に奪い去るのだ。
 この三浦は典型的なそんな銀行員だった。


 「申し訳ありませんが三浦次長、これからお客様がいらっしゃるのでそのうち、こちからお誘いしますね?」
 「これは失礼いたしました。上村部長とお話しをしていると、つい時間を忘れてしまいます。
 では今後とも当行をよろしくお願いします。次回は私の後任を連れてご挨拶に伺いますので」
 「わかりました。三浦次長さんのような優秀な方だといいのですが」
 「私よりもはるかに優秀な女性行員ですよ。うちの女性役員候補ナンバーワンですから」
 「女性の次長さんなんですか?」
 「おそらく次の人事異動では本店の支店長に昇格するはずです。それにかなりの美人ですしね?
 ご期待下さい、上村部長。
 銀行内でも彼女は高嶺の華ですから」


 
 そして一週間後、三浦が連れて来た後任の女性を見て私は息を呑んだ。
 それは高校生の時に付き合っていた、大谷梨奈だったからだ。
 梨奈は私が銀行との窓口になっていることを事前に知っていたようで、私を見て静かに微笑んでいた。


 「私の後任になります、大谷でございます」

 すると梨奈はいかにも初対面だという感じで私に名刺を出して丁寧に挨拶をした。


 「初めまして、福邦銀行の大谷でございます。今後とも三浦の時と同様、引き続き当行と良いお付き合いをお願いいたします」
 「こちらこそ、よろしくお願いします」


 私はあの時の淡い初恋を思い出していた。
 それは手を握ることもない、青臭い恋だった。
 あれからもう20年が過ぎていたのか?

 梨奈は中森明菜や松田聖子のように、美しく年令を重ねて円熟味えんじゅくみを増していた。
 左手の薬指には結婚指輪が光っていた。

 「それでは上村部長、次の挨拶周りがございますのでこれで失礼いたします」
 「お気をつけて。わざわざご丁寧にありがとうございます」
 「ではこれからも、当行をよろしくお願いいたします」

 三浦と梨奈は帰って行った。



 その日の夜、私の携帯に梨奈から電話が掛かって来た。


 「びっくりしたでしょう? 私があなたの会社の担当になるなんて?」
 「君が銀行員になったのは噂では知っていたが、まさかウチの担当になるとはね?
 お手柔らかに頼むよ」
 「そうなるように私が仕向けたのよ。あの三浦ってイヤな奴でしょう? 私、あの男、大っ嫌い。
 部下の手柄は全部自分の手柄にして、そしてミスは部下のせいにする。
 銀行では「モズ」って渾名あだなされているわ。
 ほら、モズってあんなに小さな鳥なのに、小賢こざかしくて惨忍な鳥でしょう?」
 「モズのか?」
 「ところで奥さん、大変だったわね?」
 「知っていたのか?」
 「ええ。あなた、同級会にも来ないから、太田君から聞いたの。ねえ、今度、一緒に食事でもしない?」
 「いいけど」
 「じゃあ今日でもいい?」
 「今? もう22時だぜ?」
 「大丈夫、いま私、洋ちゃんの家の前にいるから」

 カーテンを開けると、家の前にシルバー・メタリックのクーペが停車し、ハザードランプが点滅していた。


 私はすぐにスーツに着替え、梨奈の助手席に乗り込んだ。

 「ごめん、もう飲んでいるから運転が出来なくて」
 「急に押しかけて来てごめんなさい。なんだかすごく懐かしくて。
 変わってないわね? あなたはあの時と同じ瞳をしていたわ。
 近くのファミレスでもいいかしら?」
 「ああ」

 私たちの長い思い出話が始まろうとしていた。

 
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