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第11話

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 連日、尾形さんからの厳しいレッスンが続いた。
 ヘトヘトになって家に帰ると、清彦が心配そうに言ってくれた。

 「今日も遅かったな? カラダ、大丈夫か?」
 「うん、デビューのためだから。ごめんね? 家のこと全部清彦に任せっきりで」
 「俺は大丈夫だよ、家事は好きだから苦にはならない。
 腹減っただろう? うどんでも作るか?」
 「ありがとう、でももう遅いからシャワーを浴びて早めに寝るね?」
 「そうか?」

 少し不機嫌そうな清彦。それもそのはずだった。清彦は自分が選ばれなかったことに落胆していたからだ。
 最近は私も疲れていることもあり、清彦の相手もしてあげられず、夜の方はご無沙汰だった。
 清彦も無理に私を求めようとはせず、ゴミ箱にザーメンの付いたティッシュが捨てられていることもあった。
 どうやらマスターベーションで我慢しているようだった。



 そんな中、東北への出張の話が出た。

 「出張って何をするんですか?」
 「路上ライブだよ。武者修行だ。JAZZに興味のない東北の地方都市を一週間掛けて巡回することにした」
 「新幹線を使ってわざわざ東北まで行かなくても、東京で十分じゃないですか?」
 「新幹線? 何を贅沢なことを言っているんだ。ワゴン車で回るんだよ。寝るのもワゴン車だ」
 「ワゴン車?」
 「当たり前だ。まだ売れてもいないんだから」

 (デビューまで全力でバックアップするって言ってたくせに)

 私はムッとした。

 「ワゴン車で寝泊まりするなんて無理です。売れない演歌歌手じゃあるまいし。
 わかりました。それなら旅費と宿泊費は自己負担で構いません。新幹線とホテルは自分で手配します」
 「それは許可しない。君はそれでもJAZZシンガーのつもりなのかい? いつまででいるつもりなんだ」
 「ドサ回りをすることがアーティストのやることだとは思えません!」
 「アーティスト? 今の君は場末の演歌歌手以下だ。
 そこまで言うなら東北の繁華街でどれだけ君の歌が通用するか、試してみようじゃないか?
 それじゃあこうしよう、路上ライブでいただいたチップはすべて君のギャラでいい。そのカネで一週間生活をする、それでどうだ?」 

 そこまで言われては私にもプライドがある。

 「わかりました。そのお金を食事代やホテル代に使っていいんですね?」
 「もちろんだ。すべて君の自由にしていいカネだ」
 
 薄ら笑いをしている尾形さんに私は怒りを覚えた。



 家に帰って清彦に出張の話をした。

 「来週から一週間、東北に出張に行くことになったの」
 「何のために?」
 「東北の地方都市で路上ライブの武者修行だって」
 「路上ライブ? 早紀が?」
 「うん」

 清彦は何か少し考えているようだった。

 「路上ライブは止めた方がいい」
 「どうして?」
 「路上は厳しいからだ。早紀が挫折するのは目に見えている」
 「それは私の歌では路上は駄目だって言う事?」
 「路上はそんなに甘くはない。特にJAZZは」
 「清彦は私の歌を認めていなかったのね!」
 「そうじゃない、それは君の歌が良くないんじゃなくて、路上で歌うということはそういうことだと言いたいだけだ。JAZZは大衆ウケしない。フォークギターで歌う「ゆず」じゃないんだから。
 日本でのJAZZはまだ、BGMなんだよ」
 「悔しいんでしょう? 私が先にデビューすることになって」
 
 私は絶対に言ってはいけないことを言ってしまった。
 すると清彦は静かに言った。

 「そうかもしれない。いや、そうだよ。俺がピアニストとしてデビュー出来ないことが悔しいからだよ」

 私は取り返しのつかないことを言ってしまったと後悔した。
 だがそれは後の祭だった。
 清彦はその日以来、家に帰って来なくなってしまった。

 私は心残りのまま、尾形さんの運転するワゴン車で東北に向かった。
 
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