10 / 18
第10話
しおりを挟む
東京に戻ってからも祥子のことが頭から離れなかった。
(祥子に会いたい、声が聴きたい)
「部長、珍しいですね? 何か考え事ですか?」
「今年も後二ヶ月で終わりなのかと思ってね? 一年は早いな?」
「私は一日がとても長く感じます。まだ若いから」
「歳を取ると時間が早くなるというだろう? あれはね、早くなるんじゃなくて記憶がなくるからだと思うんだ。
朝起きて朝食を食べて会社へ出勤する、昼飯を食べて午後の仕事をこなして会社を退勤して夕食を食べる。食べたという記憶しか覚えていない。そしていつの間にか何を食べたのかすら忘れてしまうようになる。定年退職になるとやるべき仕事がなくなり、一週間から火、水、木、金の記憶がなくなり、一週間が月、土、日の三日間だけに感じてしまう。だから人生はあっと言う間だというわけさ」
「唐沢部長はそうはなりませんから大丈夫です、ボケたりなんかしませんから。でもイヤですよ、早く歳を取るなんて」
そう言って笑う吉田恵が微笑ましかった。しかし歳を重ねることは悪いことばかりではない。歳を取るからこそ分かることもあり、経済的なゆとりも出てくる。物事に対する執着も薄らぎ、生きることに余裕が出てくるのだ。
この娘の人生はこれから今の3倍、4倍の人生を歩むことになるだろう。結婚して出産、子供の成長と反比例するように自分の人生が次第に衰えてゆく。
その時、吉田は思うはずだ。私の言った言葉の本当の意味が。
私は敢えて自分から祥子に連絡をすることはしなかった。それは一種の「賭け」だった。
もし本当に祥子が今の暮らしを捨て、私と今後も付き合いたいと思うのであれば、彼女の方からコンタクトをして来るはずだと思っていたからだ。仮に懐かしさゆえの火遊びだったのであれば、それはそれでいい思い出にすればいいだけの話である。
一週間が過ぎ、私がバランタイン17年のウイスキーを飲みながら、サマセット・モームの『南太平洋』を読んでいると、突然スマホに着信があった。
ディスプレイを見ると祥子からだった。私はすぐに電話に出た。
「もしもし、祥子か?」
「どうして電話してくれなかったのよー、ずっと待ってたんだからあ」
「俺も君からの連絡をずっと待っていた。この賭けは俺の勝ちだな?」
「賭けって何よ?」
「祥子が本気で俺と付き合う気があるのなら、君の方から電話して来るだろし、もしあの時は酔った勢いでの単なる気まぐれだったとしたら、諦めようと思っていたんだ」
「馬鹿な人。そんな軽い気持ちであなたに抱かれたわけじゃないわ」
「それなら良かった。祥子の声が聴きたかった」
「今、ひとり?」
「ずっと一人だよ、言っただろう? 離婚したって」
「男はズルいからわからないわよ。奥さんはいなくてもセフレはいるかもしれないじゃない?」
「愛人がいれば電話にも出ないし君を口説いたりはしない。俺はそんなに器用な男じゃないからな」
「お酒、飲んでるの?」
「ああ、飲み始めたところだ」
「それじゃあ私も飲もうかな? ちょっと待ってて、今、用意して来るから」
スリッパの足音が遠ざかる音が聴こえ、冷蔵庫の開く音がした。
どうやら缶の飲物を持って来たようだった。
「お待たせ。缶チューハイを持ってきちゃった」
プシュっとプルが開く音が聴こえた。
「それじゃ乾杯」
「乾杯」
「あー、美味しいー。ずっと電話が来なかったから不安だったの。私から電話するのもなんだか物欲しげな女みたいでさあ、ちょっと抵抗があったから」
「そうか? お互いに待っていたんだな? 電話を」
「でも電話して良かった。だって電話しなかったら一生あなたと会えなかったかもしれないし」
祥子がゴクリと缶チューハイを飲んだ気配がした。
「たぶん明日には俺の方が耐えられなくなって君に電話していたかも知れないけどな?」
「私も同じ。こうして電話しちゃったもん」
「また会ってくれるか?」
「もちろんよ。来週、そっちに行ってもいい? もちろんあなたの手料理付きのお泊りで」
「それだけか?」
「するわよ、大人のスキンシップも」
「東京駅に迎えに行くから乗る新幹線が分かったら教えてくれ」
「うんわかった。久しぶりだなあ、東京」
「案内するよ、どこに行きたい?」
「上野がいいかな?」
「上野?」
「そう、西洋美術館とかアメ横とか」
「いいよ、案内してやるよ」
「ありがとう、楽しみにしているね?」
それから私たちはどうでもいい話を一時間ほどした。長電話をしたのは妻と結婚する前以来だった。
時計はすでに午前零時を回っていた。
「それじゃあそろそろ寝るか? 今度は俺から電話してもいいか?」
少し返答に間があった。
「また私の方から連絡するわ、夜はお店に出てることが多いから」
「夜の8時以降なら家に帰っているから何時でもいいよ」
「わかった、それじゃまたね? おやすみなさい、清彦さん」
「おやすみ祥子」
電話を切った後、私は現実に引き戻された気がした。祥子には男がいることを忘れていた。
私は新たにウイスキーをグラスに注いだ。
(祥子に会いたい、声が聴きたい)
「部長、珍しいですね? 何か考え事ですか?」
「今年も後二ヶ月で終わりなのかと思ってね? 一年は早いな?」
「私は一日がとても長く感じます。まだ若いから」
「歳を取ると時間が早くなるというだろう? あれはね、早くなるんじゃなくて記憶がなくるからだと思うんだ。
朝起きて朝食を食べて会社へ出勤する、昼飯を食べて午後の仕事をこなして会社を退勤して夕食を食べる。食べたという記憶しか覚えていない。そしていつの間にか何を食べたのかすら忘れてしまうようになる。定年退職になるとやるべき仕事がなくなり、一週間から火、水、木、金の記憶がなくなり、一週間が月、土、日の三日間だけに感じてしまう。だから人生はあっと言う間だというわけさ」
「唐沢部長はそうはなりませんから大丈夫です、ボケたりなんかしませんから。でもイヤですよ、早く歳を取るなんて」
そう言って笑う吉田恵が微笑ましかった。しかし歳を重ねることは悪いことばかりではない。歳を取るからこそ分かることもあり、経済的なゆとりも出てくる。物事に対する執着も薄らぎ、生きることに余裕が出てくるのだ。
この娘の人生はこれから今の3倍、4倍の人生を歩むことになるだろう。結婚して出産、子供の成長と反比例するように自分の人生が次第に衰えてゆく。
その時、吉田は思うはずだ。私の言った言葉の本当の意味が。
私は敢えて自分から祥子に連絡をすることはしなかった。それは一種の「賭け」だった。
もし本当に祥子が今の暮らしを捨て、私と今後も付き合いたいと思うのであれば、彼女の方からコンタクトをして来るはずだと思っていたからだ。仮に懐かしさゆえの火遊びだったのであれば、それはそれでいい思い出にすればいいだけの話である。
一週間が過ぎ、私がバランタイン17年のウイスキーを飲みながら、サマセット・モームの『南太平洋』を読んでいると、突然スマホに着信があった。
ディスプレイを見ると祥子からだった。私はすぐに電話に出た。
「もしもし、祥子か?」
「どうして電話してくれなかったのよー、ずっと待ってたんだからあ」
「俺も君からの連絡をずっと待っていた。この賭けは俺の勝ちだな?」
「賭けって何よ?」
「祥子が本気で俺と付き合う気があるのなら、君の方から電話して来るだろし、もしあの時は酔った勢いでの単なる気まぐれだったとしたら、諦めようと思っていたんだ」
「馬鹿な人。そんな軽い気持ちであなたに抱かれたわけじゃないわ」
「それなら良かった。祥子の声が聴きたかった」
「今、ひとり?」
「ずっと一人だよ、言っただろう? 離婚したって」
「男はズルいからわからないわよ。奥さんはいなくてもセフレはいるかもしれないじゃない?」
「愛人がいれば電話にも出ないし君を口説いたりはしない。俺はそんなに器用な男じゃないからな」
「お酒、飲んでるの?」
「ああ、飲み始めたところだ」
「それじゃあ私も飲もうかな? ちょっと待ってて、今、用意して来るから」
スリッパの足音が遠ざかる音が聴こえ、冷蔵庫の開く音がした。
どうやら缶の飲物を持って来たようだった。
「お待たせ。缶チューハイを持ってきちゃった」
プシュっとプルが開く音が聴こえた。
「それじゃ乾杯」
「乾杯」
「あー、美味しいー。ずっと電話が来なかったから不安だったの。私から電話するのもなんだか物欲しげな女みたいでさあ、ちょっと抵抗があったから」
「そうか? お互いに待っていたんだな? 電話を」
「でも電話して良かった。だって電話しなかったら一生あなたと会えなかったかもしれないし」
祥子がゴクリと缶チューハイを飲んだ気配がした。
「たぶん明日には俺の方が耐えられなくなって君に電話していたかも知れないけどな?」
「私も同じ。こうして電話しちゃったもん」
「また会ってくれるか?」
「もちろんよ。来週、そっちに行ってもいい? もちろんあなたの手料理付きのお泊りで」
「それだけか?」
「するわよ、大人のスキンシップも」
「東京駅に迎えに行くから乗る新幹線が分かったら教えてくれ」
「うんわかった。久しぶりだなあ、東京」
「案内するよ、どこに行きたい?」
「上野がいいかな?」
「上野?」
「そう、西洋美術館とかアメ横とか」
「いいよ、案内してやるよ」
「ありがとう、楽しみにしているね?」
それから私たちはどうでもいい話を一時間ほどした。長電話をしたのは妻と結婚する前以来だった。
時計はすでに午前零時を回っていた。
「それじゃあそろそろ寝るか? 今度は俺から電話してもいいか?」
少し返答に間があった。
「また私の方から連絡するわ、夜はお店に出てることが多いから」
「夜の8時以降なら家に帰っているから何時でもいいよ」
「わかった、それじゃまたね? おやすみなさい、清彦さん」
「おやすみ祥子」
電話を切った後、私は現実に引き戻された気がした。祥子には男がいることを忘れていた。
私は新たにウイスキーをグラスに注いだ。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説

★【完結】ペルセウス座流星群(作品241024)
菊池昭仁
現代文学
家族を必死に守ろうとした主人公が家族から次第に拒絶されていくという矛盾。
人は何のために生きて、どのように人生を終えるのが理想なのか? 夫として、父親としてのあるべき姿とは? 家族の絆の物語です。

★【完結】ペーパームーンの夜に抱かれて(作品240607)
菊池昭仁
恋愛
社内不倫がバレて会社を依願退職させられてしまう結城達也。
それにより家族も崩壊させてしまい、結城は東京を捨て、実家のある福島市に帰ることにした。
実家に帰ったある日のこと、結城は中学時代に憧れていた同級生、井坂洋子と偶然街で再会をする。
懐かしさからふたりは居酒屋で酒を飲み、昔話に花を咲かせる。だがその食事の席で洋子は異常なほど達也との距離を保とうとしていた。そしてそれをふざけ半分に問い詰める達也に洋子は言った。「私に近づかないで、お願い」初恋の洋子の告白に衝撃を受ける達也。混迷を続ける現代社会の中で、真実の愛はすべてを超越することが出来るのだろうか?

【Vtuberさん向け】1人用フリー台本置き場《ネタ系/5分以内》
小熊井つん
大衆娯楽
Vtuberさん向けフリー台本置き場です
◆使用報告等不要ですのでどなたでもご自由にどうぞ
◆コメントで利用報告していただけた場合は聞きに行きます!
◆クレジット表記は任意です
※クレジット表記しない場合はフリー台本であることを明記してください
【ご利用にあたっての注意事項】
⭕️OK
・収益化済みのチャンネルまたは配信での使用
※ファンボックスや有料会員限定配信等『金銭の支払いをしないと視聴できないコンテンツ』での使用は不可
✖️禁止事項
・二次配布
・自作発言
・大幅なセリフ改変
・こちらの台本を使用したボイスデータの販売

★オリオン通りはいつも晴れ
菊池昭仁
現代文学
親子ほど年の離れたナンバー・ワン、キャバ嬢、千秋と、小さな食堂のバツイチ主人、大湊。
ふたりは家族に憧れていた。
家族のような他人同士の共同生活が始まる。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる