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最終話
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ダイニングテーブルの上には菓子箱が3つ、並んで置かれていた。
A5のコピー用紙に大きく黒の太字マジックで書かれた宛名が貼り付けてあった。
花音、純子ちゃん、そして私へと。
私はそれを呆然と眺めていた。まるで他人事のように。
おそらく私の表情には血の気はなく、能面のような顔をしていたはずだ。
私はまた、生きる希望を失くしてしまった。
「花音、純子ちゃんをここに呼んで頂戴。
純子ちゃんが来てからこの箱を開けるから」
花音もまた、感情のない金髪のバービー人形のようだった。
「電話してみる・・・」
花音の落胆は見ていられないほどだった。
尊敬し、慕っていた父親が突然消えた
そしてそれは私も同じだった。
頭の中が真っ白になるとは、こういうことを言うのだろう。
夫は生きることに絶望してこの富山に帰って来た。
自らの手で人生を終わらせるために。
私はそれをすっかり忘れて燥いでいたのだから滑稽だ。
目も不自由になり、心筋梗塞という不治の病を抱え、次第に衰えてゆく体。
夫は生きる気力を既に失くしていたのだ。
だからこそ、私と花音は最期まであの人を支えたかった。
私たちの家族として・・・。
だが、その願いは虚しくも否定されてしまった。
純子ちゃんも花音の電話の様子から、何が起きたのかは察していたようだった。
「これ? どうしたんですか?」
「たぶん、あの人からのメッセージが入っていると思う。
純子ちゃんが来るまで、私と花音もこの箱を開けることが出来なかったの。
正直、開けるのが怖い・・・。
それじゃあ各々、箱の中身を確認しましょうか?」
私たちは震える手で自分宛ての箱を開くと、中には本と手紙、そして小切手が入れられており、さらに私の箱には通帳と銀行印、有価証券と実印、キャッシュカードとクレジットカード、生命保険の証書が入れられていた。
それは私たちの予想通り、夫からの「遺箱」だった。
私の大切な娘、花音へ
君のお陰でパパはとてもしあわせでした。
花音の笑顔は世界一だよ。
太陽に向かって咲く、日向葵みたいだ。
突然、家を出ることを赦して下さい。
ここにいるとしあわせ過ぎて、小説が書けないから。
創作を生業としている私にとって、幸福は作品を産み出すことを阻む。
地位と名声、そして莫大な富としあわせを手にした人間は、みな堕落して
しまうものだ。
それを掴むために、成功するために、プールサイドで水着の美女に囲まれ、
シャンパンを飲むために生きるのならそれもいいかもしれない。
だが、そんな彼らはアーティストではなく、単なる欲にまみれた金持ちなのだ。
パパは小説家のまま、この世を去りたい。
そんなパパの我儘を許して欲しい。
人はどれだけ長く生きたかではない、「いかに生きたか?」なのだ。
自分の納得できる人生を生きたかなんだ。
私は自分の人生に後悔はない。
だからパパは自分の気持ちに素直に生きることにした。
病院で死ぬのは芸術家として相応しくないからね?
このお金は花音がしあわせになるために役立てて下さい。
それからパパの一番のお気に入りの小説を入れて置きました。気が向いたら
是非読んでみて下さい。
ママのことをよろしくお願いします。
純子と仲良くね? お体を大切に。
2023年12月
パパ 有村純一
作家 三枝純一
そして一緒に3,000万円の小切手が箱の中に収められていた。
「パパのバカ・・・、 お金なんか貰ってもしょうがないよ・・・、そうじゃ、ない、の・・・、
私が欲しいのは、お金、じゃなく、て・・・、パパなのに!」
私のカワイイ娘 純子へ
あなたを初めて見た時、息が止まりそうでした。
あまりにもお母さんの若い頃にそっくりだったからです。
お母さんを裏切ってしまったこと、本当に申し訳ありませんでした。
私はこの35年間、あなたのお母さんのことは一度も忘れたことはあり
ませんでした。
前妻と離婚し、その後も結婚をせず、家族を持たなかったのは、せめても
のお母さんへの贖罪のつもりでした。
自分にはしあわせになる資格がないと思ったからです。
あなたのお母さんは、私には勿体ないくらいに素敵な女性でした。
あなたと一緒に飲んだ、クリームが溶けて温くなってしまったウインナー
コーヒーの味は一生忘れることはないでしょう。
お母さんとの思い出の『ピカソ』に連れて行ってくれて、ありがとうござ
いました。
純文学がお好きだとか? とてもうれしかったです。
これでも私は「純文学者」ですからね?
純子とお父さんが、純文学について議論する、素敵じゃないですか?
「純」がいっぱいあって?
私のペンネームは「三枝純一」といいます。
そう、あなたの苗字と同じ名前です。
そうしたのはいつか、あなたのお母さんに気付いてもらいたくてそう
名付けました。
バカでしょう? 純子のお父さんは?
私の代表作『ラスト・ワルツ』を添えておきます。
気が向いたら読んでみて下さい。
感想が聞けないのが残念ですが。
あなたから「お父さん」と呼ばれた時、凄くうれしかった。
純子はずっと私のかわいい娘です。
純子も小説を書いてみてはいかがですか?
純子の小説、読んでみたかった。
このお金はこれからの純子の将来に役立てて下さい。
花音とお母さんをよろしくお願いします。あなたはしっかり者だから。
お体を大切に。
2023年12月
お父さん 有村純一
作家 三枝純一
純子にも3,000万円の小切手が添えられてあった。
「おとうさん・・・、どうして・・・」
本を開くとそこには有村のサインが記してあった。
三枝純一として。
我が麗しの妻、有村梢へ
映画サークルで観た『麗しのサブリナ』を覚えているかい?
梢は俺のオードリーヘップバーンだ。
死ぬのは怖くない。
俺はもう目もよく見えなくなってしまったし、心臓も急速に悪化しているのが自分でもわかる。
ゾウも猫も、自分の死が近づくといつの間にか姿を消すだろう?
だから俺もそうすることにした。
決して梢が嫌いになったわけじゃない、君を愛すればこそ、そうすること
にした。赦して欲しい。
どのみち、俺はもう長くはない。
やはり君たちに俺のオムツを替えてもらうのは気が引けるよ。(笑)
梢、俺は君と再会して一生分のしあわせを貰ったんだ。
毎日がバラ色だった。
正に『Days of Wine & Roses』だったよ。
ありがとう、梢。
人は人生は幸福であるべきだと考えるものだ。
だから苦しみや悲しみが訪れるた時、すぐに落ち込んでしまう。
人生は天気のようなものだ。
1年の天気の半分は曇りなんだよ。
そして雪や雨が15%で晴れの日も15%、そして15%が快晴。
残りの5%が嵐だ。
人生も同じだ、殆どが曇り。
だから快晴はありがたいし、雨や雪は嫌だが、それも生きていくには必
要なことだ。
嵐も時として絆をより強くしてくれる。
哀しみや辛さは人を成長させてくれるものなんだ。
そう、苦悩した分、そこに気付きが生まれる。それが学びだ。
急にプロポーズしてすまなかった。
君をまた傷物にしてしまったね?
夫婦になれば生命保険金や年金、相続などがスムーズだからね?
せめて君たちには遺産を残してあげたかった。
俺にはもう必要のないカネだから。
手続きはすべて終わっているから安心して欲しい。
君に受け取って欲しいんだ。せめてものお礼に。
俺を愛してくれて、本当にありがとう。
梢には悪いが、横浜のマンションとクルマは前妻に渡すことにした。
最期に映画のような恋愛が出来たこと、心から感謝しています。
やっぱり家族っていいものだね?
愛しているよ、梢。
それから梢にひとつお願いがある。
俺がいなくなっても、決して悲しまないで欲しい。
君や花音、純子が悲しむのを見るのは辛いから。
人はいつか必ず死ぬ、ただそれが遅いか早いかだけの違いだ。
俺だけが死ぬわけじゃない。
梢も花音も、純子も、俺や麻里子がそうだったようにいつかは死ぬ
時を迎える。
それが定めだ。
I'm crazy about you.
2023年12月
君の最愛の夫 有村純一
小切手は夫が個人会社を設立し、当座預金まで開設して振出された物だった。
私は左手の薬指の結婚指輪と、右手人差し指のエメラルドの指輪が光る、両手を見て泣いた。
「あなた、エメラルドを見ても、これからどうやってあなたのいない毎日を送ればいいいのかわからないわ・・・、ジュンの嘘つき。
あれほどずっとここに居てねって言ったのに・・・」
「そんなの、そんなのイヤだよ! 絶対におかしいよ!
ずっと一緒だって言ったじゃない!」
「お父さん・・・」
有村の愛した3人の女たちは抱き合って、涙が枯れるまで声をあげて泣いた。
「いくじなし、ジュンのバカ・・・」
新湊の海は12月としては比較的穏やかだった。
正確に押しては返す、メトロノームのようにリズムを刻む波。
海に戻り切れない波が、砂に沁み込んでいくのが聞こえる。
小さな蟹が目の前を横切って行った。
石川啄木 『一握の砂』
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて蟹とたはむる
蟹は居たが、涙は出なかった。
うつろいゆく日々に何もかもが変わり、そして消えて行った。
麻里子と行ったボーリング場も、スカッシュの出来たあの喫茶店も、君と初めてキスをした公園のベンも・・・。
そして君もいなくなってしまった。
でも、この海だけは35年前と何も変わってはいなかった。
私はそれがすこぶるうれしかった。
この世にも変わらないものがあるのだと。
空と海、そして人を愛する想い。
それはこれからも変わることがないはずだ。
「さあ、ピクニックをはじめようじゃないか?
梢はビールだよね? 麻里子はレモンサワーだったね?
そして俺はこれ、ラフロイグ。
人生最期の酒は、これに決めていたんだ」
私は缶ビールとレモンサワーの缶を開け、私の左右の砂浜にそれを静かに置いた。
「よく3人でここに来たよなあ?」
スモークチーズをそれぞれの缶の前に置いて、私はバカラグラスにラフロイグを注ぎ、彼女たちと乾杯をした。
「乾杯。きれいな海だね? ダイヤモンドをばら撒いたようだ。
光る海。
いいウイスキーには、バカラのグラスじゃないとサマにならないからね?」
私はイヤフォンで大貫妙子の『春の手紙』を聴いた。
彼女のやさしい透明感のある唄声が、波のリフレインとシンクロしていた。
「麻里子、梢。花音、純子。
俺たちは海から来たんだ。
だってこんなにも懐かしく感じるじゃないか? 海って。
だからいつかは海に帰らなければいけない。そう思うだろ?」
私はコートのポケットから薬瓶を取り出し、その錠剤をひとつづつ口に入れると酒でそれを流し込んでいった。
「人は何のために産まれ、何のために生きるのだろう?
どうせ、みんないつかは死んでしまうのに・・・。
生きる意味ってあるのかなあ?
教えてくれよ、生きる意味を。
視力も弱くなり、いつ止まるかもわからない心臓を労りながら生きる意味を。
もう疲れたんだ、そして君たちのやさしさに甘えてしまいそうな情けない自分にね?
なんだか君たちのしあわせを邪魔しているようで。
いつも隠れて俺を見つめている死神が微笑んでいる。
「まだ、お前をラクにはさせないよ」
麻里子、もうすぐ君に会いに行くよ。
そして今度こそ、一緒に暮らそう。
こんな時、生きてる人には「さようなら」だろうけど、死んでしまった君には「お待たせ」でいいのだろうか?」
日本海を前に胡坐をかいたまま、項垂れ私は深い闇の中へと落ちて行った。
潮騒の音もカモメも、私に気付くことはなかった。
夕日は沈み、有村純一の人生の幕が静かに下りた。
満天の星たちの煌めきと引き換えにして。
『紅の海』完
A5のコピー用紙に大きく黒の太字マジックで書かれた宛名が貼り付けてあった。
花音、純子ちゃん、そして私へと。
私はそれを呆然と眺めていた。まるで他人事のように。
おそらく私の表情には血の気はなく、能面のような顔をしていたはずだ。
私はまた、生きる希望を失くしてしまった。
「花音、純子ちゃんをここに呼んで頂戴。
純子ちゃんが来てからこの箱を開けるから」
花音もまた、感情のない金髪のバービー人形のようだった。
「電話してみる・・・」
花音の落胆は見ていられないほどだった。
尊敬し、慕っていた父親が突然消えた
そしてそれは私も同じだった。
頭の中が真っ白になるとは、こういうことを言うのだろう。
夫は生きることに絶望してこの富山に帰って来た。
自らの手で人生を終わらせるために。
私はそれをすっかり忘れて燥いでいたのだから滑稽だ。
目も不自由になり、心筋梗塞という不治の病を抱え、次第に衰えてゆく体。
夫は生きる気力を既に失くしていたのだ。
だからこそ、私と花音は最期まであの人を支えたかった。
私たちの家族として・・・。
だが、その願いは虚しくも否定されてしまった。
純子ちゃんも花音の電話の様子から、何が起きたのかは察していたようだった。
「これ? どうしたんですか?」
「たぶん、あの人からのメッセージが入っていると思う。
純子ちゃんが来るまで、私と花音もこの箱を開けることが出来なかったの。
正直、開けるのが怖い・・・。
それじゃあ各々、箱の中身を確認しましょうか?」
私たちは震える手で自分宛ての箱を開くと、中には本と手紙、そして小切手が入れられており、さらに私の箱には通帳と銀行印、有価証券と実印、キャッシュカードとクレジットカード、生命保険の証書が入れられていた。
それは私たちの予想通り、夫からの「遺箱」だった。
私の大切な娘、花音へ
君のお陰でパパはとてもしあわせでした。
花音の笑顔は世界一だよ。
太陽に向かって咲く、日向葵みたいだ。
突然、家を出ることを赦して下さい。
ここにいるとしあわせ過ぎて、小説が書けないから。
創作を生業としている私にとって、幸福は作品を産み出すことを阻む。
地位と名声、そして莫大な富としあわせを手にした人間は、みな堕落して
しまうものだ。
それを掴むために、成功するために、プールサイドで水着の美女に囲まれ、
シャンパンを飲むために生きるのならそれもいいかもしれない。
だが、そんな彼らはアーティストではなく、単なる欲にまみれた金持ちなのだ。
パパは小説家のまま、この世を去りたい。
そんなパパの我儘を許して欲しい。
人はどれだけ長く生きたかではない、「いかに生きたか?」なのだ。
自分の納得できる人生を生きたかなんだ。
私は自分の人生に後悔はない。
だからパパは自分の気持ちに素直に生きることにした。
病院で死ぬのは芸術家として相応しくないからね?
このお金は花音がしあわせになるために役立てて下さい。
それからパパの一番のお気に入りの小説を入れて置きました。気が向いたら
是非読んでみて下さい。
ママのことをよろしくお願いします。
純子と仲良くね? お体を大切に。
2023年12月
パパ 有村純一
作家 三枝純一
そして一緒に3,000万円の小切手が箱の中に収められていた。
「パパのバカ・・・、 お金なんか貰ってもしょうがないよ・・・、そうじゃ、ない、の・・・、
私が欲しいのは、お金、じゃなく、て・・・、パパなのに!」
私のカワイイ娘 純子へ
あなたを初めて見た時、息が止まりそうでした。
あまりにもお母さんの若い頃にそっくりだったからです。
お母さんを裏切ってしまったこと、本当に申し訳ありませんでした。
私はこの35年間、あなたのお母さんのことは一度も忘れたことはあり
ませんでした。
前妻と離婚し、その後も結婚をせず、家族を持たなかったのは、せめても
のお母さんへの贖罪のつもりでした。
自分にはしあわせになる資格がないと思ったからです。
あなたのお母さんは、私には勿体ないくらいに素敵な女性でした。
あなたと一緒に飲んだ、クリームが溶けて温くなってしまったウインナー
コーヒーの味は一生忘れることはないでしょう。
お母さんとの思い出の『ピカソ』に連れて行ってくれて、ありがとうござ
いました。
純文学がお好きだとか? とてもうれしかったです。
これでも私は「純文学者」ですからね?
純子とお父さんが、純文学について議論する、素敵じゃないですか?
「純」がいっぱいあって?
私のペンネームは「三枝純一」といいます。
そう、あなたの苗字と同じ名前です。
そうしたのはいつか、あなたのお母さんに気付いてもらいたくてそう
名付けました。
バカでしょう? 純子のお父さんは?
私の代表作『ラスト・ワルツ』を添えておきます。
気が向いたら読んでみて下さい。
感想が聞けないのが残念ですが。
あなたから「お父さん」と呼ばれた時、凄くうれしかった。
純子はずっと私のかわいい娘です。
純子も小説を書いてみてはいかがですか?
純子の小説、読んでみたかった。
このお金はこれからの純子の将来に役立てて下さい。
花音とお母さんをよろしくお願いします。あなたはしっかり者だから。
お体を大切に。
2023年12月
お父さん 有村純一
作家 三枝純一
純子にも3,000万円の小切手が添えられてあった。
「おとうさん・・・、どうして・・・」
本を開くとそこには有村のサインが記してあった。
三枝純一として。
我が麗しの妻、有村梢へ
映画サークルで観た『麗しのサブリナ』を覚えているかい?
梢は俺のオードリーヘップバーンだ。
死ぬのは怖くない。
俺はもう目もよく見えなくなってしまったし、心臓も急速に悪化しているのが自分でもわかる。
ゾウも猫も、自分の死が近づくといつの間にか姿を消すだろう?
だから俺もそうすることにした。
決して梢が嫌いになったわけじゃない、君を愛すればこそ、そうすること
にした。赦して欲しい。
どのみち、俺はもう長くはない。
やはり君たちに俺のオムツを替えてもらうのは気が引けるよ。(笑)
梢、俺は君と再会して一生分のしあわせを貰ったんだ。
毎日がバラ色だった。
正に『Days of Wine & Roses』だったよ。
ありがとう、梢。
人は人生は幸福であるべきだと考えるものだ。
だから苦しみや悲しみが訪れるた時、すぐに落ち込んでしまう。
人生は天気のようなものだ。
1年の天気の半分は曇りなんだよ。
そして雪や雨が15%で晴れの日も15%、そして15%が快晴。
残りの5%が嵐だ。
人生も同じだ、殆どが曇り。
だから快晴はありがたいし、雨や雪は嫌だが、それも生きていくには必
要なことだ。
嵐も時として絆をより強くしてくれる。
哀しみや辛さは人を成長させてくれるものなんだ。
そう、苦悩した分、そこに気付きが生まれる。それが学びだ。
急にプロポーズしてすまなかった。
君をまた傷物にしてしまったね?
夫婦になれば生命保険金や年金、相続などがスムーズだからね?
せめて君たちには遺産を残してあげたかった。
俺にはもう必要のないカネだから。
手続きはすべて終わっているから安心して欲しい。
君に受け取って欲しいんだ。せめてものお礼に。
俺を愛してくれて、本当にありがとう。
梢には悪いが、横浜のマンションとクルマは前妻に渡すことにした。
最期に映画のような恋愛が出来たこと、心から感謝しています。
やっぱり家族っていいものだね?
愛しているよ、梢。
それから梢にひとつお願いがある。
俺がいなくなっても、決して悲しまないで欲しい。
君や花音、純子が悲しむのを見るのは辛いから。
人はいつか必ず死ぬ、ただそれが遅いか早いかだけの違いだ。
俺だけが死ぬわけじゃない。
梢も花音も、純子も、俺や麻里子がそうだったようにいつかは死ぬ
時を迎える。
それが定めだ。
I'm crazy about you.
2023年12月
君の最愛の夫 有村純一
小切手は夫が個人会社を設立し、当座預金まで開設して振出された物だった。
私は左手の薬指の結婚指輪と、右手人差し指のエメラルドの指輪が光る、両手を見て泣いた。
「あなた、エメラルドを見ても、これからどうやってあなたのいない毎日を送ればいいいのかわからないわ・・・、ジュンの嘘つき。
あれほどずっとここに居てねって言ったのに・・・」
「そんなの、そんなのイヤだよ! 絶対におかしいよ!
ずっと一緒だって言ったじゃない!」
「お父さん・・・」
有村の愛した3人の女たちは抱き合って、涙が枯れるまで声をあげて泣いた。
「いくじなし、ジュンのバカ・・・」
新湊の海は12月としては比較的穏やかだった。
正確に押しては返す、メトロノームのようにリズムを刻む波。
海に戻り切れない波が、砂に沁み込んでいくのが聞こえる。
小さな蟹が目の前を横切って行った。
石川啄木 『一握の砂』
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて蟹とたはむる
蟹は居たが、涙は出なかった。
うつろいゆく日々に何もかもが変わり、そして消えて行った。
麻里子と行ったボーリング場も、スカッシュの出来たあの喫茶店も、君と初めてキスをした公園のベンも・・・。
そして君もいなくなってしまった。
でも、この海だけは35年前と何も変わってはいなかった。
私はそれがすこぶるうれしかった。
この世にも変わらないものがあるのだと。
空と海、そして人を愛する想い。
それはこれからも変わることがないはずだ。
「さあ、ピクニックをはじめようじゃないか?
梢はビールだよね? 麻里子はレモンサワーだったね?
そして俺はこれ、ラフロイグ。
人生最期の酒は、これに決めていたんだ」
私は缶ビールとレモンサワーの缶を開け、私の左右の砂浜にそれを静かに置いた。
「よく3人でここに来たよなあ?」
スモークチーズをそれぞれの缶の前に置いて、私はバカラグラスにラフロイグを注ぎ、彼女たちと乾杯をした。
「乾杯。きれいな海だね? ダイヤモンドをばら撒いたようだ。
光る海。
いいウイスキーには、バカラのグラスじゃないとサマにならないからね?」
私はイヤフォンで大貫妙子の『春の手紙』を聴いた。
彼女のやさしい透明感のある唄声が、波のリフレインとシンクロしていた。
「麻里子、梢。花音、純子。
俺たちは海から来たんだ。
だってこんなにも懐かしく感じるじゃないか? 海って。
だからいつかは海に帰らなければいけない。そう思うだろ?」
私はコートのポケットから薬瓶を取り出し、その錠剤をひとつづつ口に入れると酒でそれを流し込んでいった。
「人は何のために産まれ、何のために生きるのだろう?
どうせ、みんないつかは死んでしまうのに・・・。
生きる意味ってあるのかなあ?
教えてくれよ、生きる意味を。
視力も弱くなり、いつ止まるかもわからない心臓を労りながら生きる意味を。
もう疲れたんだ、そして君たちのやさしさに甘えてしまいそうな情けない自分にね?
なんだか君たちのしあわせを邪魔しているようで。
いつも隠れて俺を見つめている死神が微笑んでいる。
「まだ、お前をラクにはさせないよ」
麻里子、もうすぐ君に会いに行くよ。
そして今度こそ、一緒に暮らそう。
こんな時、生きてる人には「さようなら」だろうけど、死んでしまった君には「お待たせ」でいいのだろうか?」
日本海を前に胡坐をかいたまま、項垂れ私は深い闇の中へと落ちて行った。
潮騒の音もカモメも、私に気付くことはなかった。
夕日は沈み、有村純一の人生の幕が静かに下りた。
満天の星たちの煌めきと引き換えにして。
『紅の海』完
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