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Ⅱ 君とオリンピックに行きたい
8 聞こえない?
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話せないし、聞こえない?何でだ?
彼女が視界から遠ざかっていく。
あほか、俺は。
足が勝手に前に出た。どこだ?
人通りの多い駅前の広場を走る。
やっと後ろ姿が見えてきた。
追いついた時、彼女の前に回りこみ、両手を広げてとうせんぼをした。
驚いて目を見開いた彼女に、手を合わせてから腕時計を指さした。
1時間は無理か。指を三本立てた。せめて30分だけ。駅前のファミレスを指さした。
彼女は首を横に振る。
「じゃあ10分だけでもいい。頼むよ、お願いだ」、と声に出した。
また手を合わせた。困ったような顔で横を向く。
もうどうなってもいい。
思い切って彼女の手をつかみ、店の方に引っ張った。
予想外に強い抵抗があり、泣き出しそうな顔をしている。
手をつかんだまま途方に暮れた。
ため息をつき手を離した。手をつなぐのが嫌なのか?それとも俺が嫌なのか?
あきらめたように彼女が小さくうなずいた。やれやれだ。
土曜日の夕方、ファミレスは混んでいた。ここは昨年までバイトしていた店だ。
しばらく待つと奥のテーブルに案内された。知らないバイト生だ。
座るとすぐに、彼女は手を合わせてこする仕草をした。
手を洗いたいのなら、横に水道があるだろう。指をさすと首を振った。
「ト・イ・レ」と声を出さずに言うと、立ち上がって行ってしまった。
恥ずかしい思いをさせてしまった。そういえば俺だって。
だめだ。ちゃんと相手の気持ちや体調を考えないと。
でも話せないのにどうする?ノートなんか持って来ていない。
彼女が帰って来ると、淳一もトイレに行った。まさか帰ってしまってなんかないよな。
急いで席に戻ると、彼女はメニューを見ていた。よかった。いてくれた。
「何でもいいよ。おごるから」
そう言ってから聞こえないことを思い出した。もっと落ち着こう。
メニューをもらった。時間がない。スープを指さし彼女を見た。
「これでいい?」
淳一の唇の動きを見ている。うなずいてくれた。
通じた。スープ二つとポテト。これは夕食としてこの店で食べ比べ、比較的ましだと思ったメニューだ。温めるだけですぐできる。
さて筆談か。
そうだ。ここのファミレスは、お客様の要望という小さなアンケート用紙と安っぽい鉛筆が机の上に置いてある。これを使おう。
小さな鉛筆を持って、お客様アンケートの裏に書いた。
「今日はありがとう。君が来てくれたので一位になれた」
リュックから箱を取り出し、優勝メダルを見せた。
「これは君のおかげだ。ありがとう」
彼女は新しいアンケート用紙の裏に書いた。
「おめでとう。見ていて感動したよ。疲れた?」
分かりやすい、きれいな字だ。その下に付け足した。
「君が来てくれたからしんどくなかった」
「あんなに速かったら、オリンピックに行けるね」
「君が応援してくれたら行ける・・・かな?」
首をかしげて微笑んだ。やっと笑ってくれた。
「私も、あの場所で競技をしたことがある」
「何の種目?」
「走り高跳びで優勝した」
「すごいな。記録は?」
「教えない」
「どうして?」
「私たちの大会、レベル低いから」
陸上のことはもういい。
注文したスープがきて口をつけたが、熱くてむせた。それを見て、彼女が口を押えて笑った。
「以前、君とお寺で会わなかった?」
「覚えている。あのお寺、私の伯父が住職」
「あそこで何をしていたの?」
「去年までお寺の掃除を手伝っていた。だれのお墓なの?」
「僕の母。三年前死んだ」
突然、彼女は胸ポケットから携帯を取り出した。ああ、メールの着信か。
画面を見て、アンケート用紙に書き込んだ。
「母が心配をしている。すぐ帰りなさいって」
彼女はまた微笑んだ。黒目がちの目がよく動き、表情がとても豊かだ。続けて書いた。
「倉本君に拉致されたと伝えるよ」
笑いながら何度もうなずいた。拉致という漢字を知っているんだ。
「後、半時間したら解放する。そう伝えて」
彼女がメールを送る間にコーヒーを注文した。空腹ではあるが、食べる時間がもったいない。
「来週会えないかな?できたら日曜日に」
「来週はデート」
彼女の整った顔を改めて見つめた。
付き合っている彼がいたのか。可愛いし誰もいないはずないな。
今日最大のミスか。ため息をついて、力なく最後のアンケート用紙に書いた。
「ごめん。君はきれいだから、彼がいて当たり前だな」
なぐり書きになった。無理に引き留めていたのか。体の力が一気に抜けてしまった。
彼女は紙を探しているが、もうアンケート用紙はなくなった。
今日もらった表彰状を取り出し、半分に折って白い方を彼女に差し出した。
もうこんな紙きれなんかどうでもいい。
淳一の落胆した顔を見た彼女は、左上に手早く書いた。
「来週は親友の女の子とデート。再来週なら空いている」
にこにこしている彼女を見つめた。
やれやれだけど、すぐには気持ちを切り替えられないよ。
思い切って向かい合った席から、彼女の横に座った。これで同じ方向を向いて字が書ける。
彼女は淳一から遠ざかろうとして間を取った。少し性急だったか。
「再来週、どこがいい?」
筆談は長引き、表彰状の半分を二人の会話で埋め尽くした。動物園?海岸?映画?食事?
結局、ハイキングに行くことになった。待ち合わせ場所と時間も決まった。
彼女は駅前で待っていた父親の車で帰った。店に入ってから1時間が過ぎている。
申し訳なくて三田島先生と目を合わすことができず、車に向けて深々と頭を下げた。
顔を上げるともう車は見えなくなっていた。あの先生怒っているだろうな。
彼女が視界から遠ざかっていく。
あほか、俺は。
足が勝手に前に出た。どこだ?
人通りの多い駅前の広場を走る。
やっと後ろ姿が見えてきた。
追いついた時、彼女の前に回りこみ、両手を広げてとうせんぼをした。
驚いて目を見開いた彼女に、手を合わせてから腕時計を指さした。
1時間は無理か。指を三本立てた。せめて30分だけ。駅前のファミレスを指さした。
彼女は首を横に振る。
「じゃあ10分だけでもいい。頼むよ、お願いだ」、と声に出した。
また手を合わせた。困ったような顔で横を向く。
もうどうなってもいい。
思い切って彼女の手をつかみ、店の方に引っ張った。
予想外に強い抵抗があり、泣き出しそうな顔をしている。
手をつかんだまま途方に暮れた。
ため息をつき手を離した。手をつなぐのが嫌なのか?それとも俺が嫌なのか?
あきらめたように彼女が小さくうなずいた。やれやれだ。
土曜日の夕方、ファミレスは混んでいた。ここは昨年までバイトしていた店だ。
しばらく待つと奥のテーブルに案内された。知らないバイト生だ。
座るとすぐに、彼女は手を合わせてこする仕草をした。
手を洗いたいのなら、横に水道があるだろう。指をさすと首を振った。
「ト・イ・レ」と声を出さずに言うと、立ち上がって行ってしまった。
恥ずかしい思いをさせてしまった。そういえば俺だって。
だめだ。ちゃんと相手の気持ちや体調を考えないと。
でも話せないのにどうする?ノートなんか持って来ていない。
彼女が帰って来ると、淳一もトイレに行った。まさか帰ってしまってなんかないよな。
急いで席に戻ると、彼女はメニューを見ていた。よかった。いてくれた。
「何でもいいよ。おごるから」
そう言ってから聞こえないことを思い出した。もっと落ち着こう。
メニューをもらった。時間がない。スープを指さし彼女を見た。
「これでいい?」
淳一の唇の動きを見ている。うなずいてくれた。
通じた。スープ二つとポテト。これは夕食としてこの店で食べ比べ、比較的ましだと思ったメニューだ。温めるだけですぐできる。
さて筆談か。
そうだ。ここのファミレスは、お客様の要望という小さなアンケート用紙と安っぽい鉛筆が机の上に置いてある。これを使おう。
小さな鉛筆を持って、お客様アンケートの裏に書いた。
「今日はありがとう。君が来てくれたので一位になれた」
リュックから箱を取り出し、優勝メダルを見せた。
「これは君のおかげだ。ありがとう」
彼女は新しいアンケート用紙の裏に書いた。
「おめでとう。見ていて感動したよ。疲れた?」
分かりやすい、きれいな字だ。その下に付け足した。
「君が来てくれたからしんどくなかった」
「あんなに速かったら、オリンピックに行けるね」
「君が応援してくれたら行ける・・・かな?」
首をかしげて微笑んだ。やっと笑ってくれた。
「私も、あの場所で競技をしたことがある」
「何の種目?」
「走り高跳びで優勝した」
「すごいな。記録は?」
「教えない」
「どうして?」
「私たちの大会、レベル低いから」
陸上のことはもういい。
注文したスープがきて口をつけたが、熱くてむせた。それを見て、彼女が口を押えて笑った。
「以前、君とお寺で会わなかった?」
「覚えている。あのお寺、私の伯父が住職」
「あそこで何をしていたの?」
「去年までお寺の掃除を手伝っていた。だれのお墓なの?」
「僕の母。三年前死んだ」
突然、彼女は胸ポケットから携帯を取り出した。ああ、メールの着信か。
画面を見て、アンケート用紙に書き込んだ。
「母が心配をしている。すぐ帰りなさいって」
彼女はまた微笑んだ。黒目がちの目がよく動き、表情がとても豊かだ。続けて書いた。
「倉本君に拉致されたと伝えるよ」
笑いながら何度もうなずいた。拉致という漢字を知っているんだ。
「後、半時間したら解放する。そう伝えて」
彼女がメールを送る間にコーヒーを注文した。空腹ではあるが、食べる時間がもったいない。
「来週会えないかな?できたら日曜日に」
「来週はデート」
彼女の整った顔を改めて見つめた。
付き合っている彼がいたのか。可愛いし誰もいないはずないな。
今日最大のミスか。ため息をついて、力なく最後のアンケート用紙に書いた。
「ごめん。君はきれいだから、彼がいて当たり前だな」
なぐり書きになった。無理に引き留めていたのか。体の力が一気に抜けてしまった。
彼女は紙を探しているが、もうアンケート用紙はなくなった。
今日もらった表彰状を取り出し、半分に折って白い方を彼女に差し出した。
もうこんな紙きれなんかどうでもいい。
淳一の落胆した顔を見た彼女は、左上に手早く書いた。
「来週は親友の女の子とデート。再来週なら空いている」
にこにこしている彼女を見つめた。
やれやれだけど、すぐには気持ちを切り替えられないよ。
思い切って向かい合った席から、彼女の横に座った。これで同じ方向を向いて字が書ける。
彼女は淳一から遠ざかろうとして間を取った。少し性急だったか。
「再来週、どこがいい?」
筆談は長引き、表彰状の半分を二人の会話で埋め尽くした。動物園?海岸?映画?食事?
結局、ハイキングに行くことになった。待ち合わせ場所と時間も決まった。
彼女は駅前で待っていた父親の車で帰った。店に入ってから1時間が過ぎている。
申し訳なくて三田島先生と目を合わすことができず、車に向けて深々と頭を下げた。
顔を上げるともう車は見えなくなっていた。あの先生怒っているだろうな。
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