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第六章
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「温かいチャイですね……かしこまりました」
男性が声をかけると、ふわりと空気が動くように感じる。よく注意するとテーブルの上にはメニューが開かれており、「チャイ」という文字の上に小さな葉が落ちていた。
──見えないけど、何かがいるんだ。いや、「誰か」って言うべきか……。
意識をすると美里はその方向ばかりを凝視することが失礼に思えた。ぱらり、と音がしてメニューのページが勝手にめくられる。美里はぎょっとして、視線を逸らした。
「チャイかあ。美味しそうだね。あたしもそれをもらおうかな」
ハツミ叔母さんは見えないお客のことはあまり気にしない様子で、呑気に注文しようとしていた。
体の冷えを感じていた美里も同じものを注文すると、影もそれに倣う。
「あたし、今日はもう運転しないから、ラムチャイにしてくれる?」
ハツミ叔母さんが片手を上げると、店主の男性はひっそりと笑って頷く。
「かしこまりました。ラムチャイお一つに、チャイがお二つですね」
男性はにこやかに復唱すると、奥に入って行ってしまった。すると再びドアが開いて、空気だけがふわふわと移動する。
「おやおや。千客万来だね……」
ハツミ叔母さんはテーブルに頬杖をついていたが、ふいに立ち上がると空いている席に歩み寄って屈みこんだ。
「はい。ホットのオレンジティーとカフェオレね。店主に伝えておくよ。今、キッチンに入っていったからさ……」
叔母さんは美里から見ると、まったく独り言を言っているように見える。
「いやだあ!そんなことないですよ」
ハツミ叔母さんは一方的に照れる。痺れを切らした美里は隣に座っていた影をつついた。
「……ねえ、影にはハツミ叔母さんが誰と話してるか視えてる?」
「うーん、まあぼんやりとね」
影は短く答えると、ハツミ叔母さんの立っているテーブルの方向を凝視した。
「霧の中で見る人影みたいにおぼろなんだけど……人の形に見える」
何度も瞬きをくり返しながら、影は「ダメだ。目を凝らしても変わらない」と首を捻る。
「じゃあ、さっき叔母さんが照れてたのはどうして?」
「ハツミちゃん相変わらず若いねー、というようなことを言われてたように思う」
影はいたって真面目な顔つきをしていた。
「そうなんだ……てことは、知り合い?」
「社交辞令だと思うけどな」
影がつぶやくと、「社交辞令で悪かったね」と言いながらハツミ叔母さんが美里たちのテーブルを通過し、キッチンに顔をつっこんでオーダーを伝えていた。
「ありがとうございます……助かります……」
キッチンから男性の控えめな声が聞こえてくる。影は顔をしかめて「地獄耳」とさっきの叔母さんから言われた言葉を根に持っていた。
ほどなくキッチンからチャイの入ったカップを手にしたハツミ叔母さんが戻ってきた。大きな体の割に、叔母さんはフットワークが軽い。
「お待たせいたしましたー!普通のチャイでございます」
叔母さんはおどけて言いながら美里の前にチャイを置いてくれた。
「ああ……美里はびっくりするよね。この店は、霧の力を借りてあやかしや亡くなった人が入って来られるカフェなんだよ」
美里はよほどもの言いたげな顔をしていたのか、質問をする前にハツミ叔母さんが説明を始めてくれた。
「霧が深い間は、通りを自由に歩くことができる。霧が姿を隠してくれるんだ……そしてこの店に入ると、同じような境遇の存在にしか姿は見えない」
ハツミ叔母さんは椅子に腰かけると、自分の分のチャイを啜った。
「この店の中は彼らにとって安全、ってわけか……」
影が感心したように頷くと、美里は不思議な違和感に陥る。
──「彼ら」にとって安全な場所……。
美里のイメージでは、あやかしや幽霊は人間を怖がらせるような存在だった。しかし、人間から身を隠すようにこの店を訪れ、束の間休息を得ているのかと思うと美里の認識はまったく逆だ。
「ハツミちゃんは肌がキレイだから若く見えるね、って言われちゃったのよ。せっかくの誉め言葉を端折らないでくれる?」
「似たようなもんだろ……」
影とハツミ叔母さんが言い合いをする間も、店主の男性は忙しく飲み物を運んでいた。メニューに書かれていたケーキも彼の手作りなのだろうか。淹れてもらったチャイはとても丁寧な味がした。温かく甘いチャイに、ほっと一息つく。
それにしても、と美里はまめまめしく動き回る男性を無意識のうちに目で追っていた。
──あの人、どこかで会ったような気がするんだよね。
美里はしばらく口をつぐみ、記憶をめぐらせた。
男性が声をかけると、ふわりと空気が動くように感じる。よく注意するとテーブルの上にはメニューが開かれており、「チャイ」という文字の上に小さな葉が落ちていた。
──見えないけど、何かがいるんだ。いや、「誰か」って言うべきか……。
意識をすると美里はその方向ばかりを凝視することが失礼に思えた。ぱらり、と音がしてメニューのページが勝手にめくられる。美里はぎょっとして、視線を逸らした。
「チャイかあ。美味しそうだね。あたしもそれをもらおうかな」
ハツミ叔母さんは見えないお客のことはあまり気にしない様子で、呑気に注文しようとしていた。
体の冷えを感じていた美里も同じものを注文すると、影もそれに倣う。
「あたし、今日はもう運転しないから、ラムチャイにしてくれる?」
ハツミ叔母さんが片手を上げると、店主の男性はひっそりと笑って頷く。
「かしこまりました。ラムチャイお一つに、チャイがお二つですね」
男性はにこやかに復唱すると、奥に入って行ってしまった。すると再びドアが開いて、空気だけがふわふわと移動する。
「おやおや。千客万来だね……」
ハツミ叔母さんはテーブルに頬杖をついていたが、ふいに立ち上がると空いている席に歩み寄って屈みこんだ。
「はい。ホットのオレンジティーとカフェオレね。店主に伝えておくよ。今、キッチンに入っていったからさ……」
叔母さんは美里から見ると、まったく独り言を言っているように見える。
「いやだあ!そんなことないですよ」
ハツミ叔母さんは一方的に照れる。痺れを切らした美里は隣に座っていた影をつついた。
「……ねえ、影にはハツミ叔母さんが誰と話してるか視えてる?」
「うーん、まあぼんやりとね」
影は短く答えると、ハツミ叔母さんの立っているテーブルの方向を凝視した。
「霧の中で見る人影みたいにおぼろなんだけど……人の形に見える」
何度も瞬きをくり返しながら、影は「ダメだ。目を凝らしても変わらない」と首を捻る。
「じゃあ、さっき叔母さんが照れてたのはどうして?」
「ハツミちゃん相変わらず若いねー、というようなことを言われてたように思う」
影はいたって真面目な顔つきをしていた。
「そうなんだ……てことは、知り合い?」
「社交辞令だと思うけどな」
影がつぶやくと、「社交辞令で悪かったね」と言いながらハツミ叔母さんが美里たちのテーブルを通過し、キッチンに顔をつっこんでオーダーを伝えていた。
「ありがとうございます……助かります……」
キッチンから男性の控えめな声が聞こえてくる。影は顔をしかめて「地獄耳」とさっきの叔母さんから言われた言葉を根に持っていた。
ほどなくキッチンからチャイの入ったカップを手にしたハツミ叔母さんが戻ってきた。大きな体の割に、叔母さんはフットワークが軽い。
「お待たせいたしましたー!普通のチャイでございます」
叔母さんはおどけて言いながら美里の前にチャイを置いてくれた。
「ああ……美里はびっくりするよね。この店は、霧の力を借りてあやかしや亡くなった人が入って来られるカフェなんだよ」
美里はよほどもの言いたげな顔をしていたのか、質問をする前にハツミ叔母さんが説明を始めてくれた。
「霧が深い間は、通りを自由に歩くことができる。霧が姿を隠してくれるんだ……そしてこの店に入ると、同じような境遇の存在にしか姿は見えない」
ハツミ叔母さんは椅子に腰かけると、自分の分のチャイを啜った。
「この店の中は彼らにとって安全、ってわけか……」
影が感心したように頷くと、美里は不思議な違和感に陥る。
──「彼ら」にとって安全な場所……。
美里のイメージでは、あやかしや幽霊は人間を怖がらせるような存在だった。しかし、人間から身を隠すようにこの店を訪れ、束の間休息を得ているのかと思うと美里の認識はまったく逆だ。
「ハツミちゃんは肌がキレイだから若く見えるね、って言われちゃったのよ。せっかくの誉め言葉を端折らないでくれる?」
「似たようなもんだろ……」
影とハツミ叔母さんが言い合いをする間も、店主の男性は忙しく飲み物を運んでいた。メニューに書かれていたケーキも彼の手作りなのだろうか。淹れてもらったチャイはとても丁寧な味がした。温かく甘いチャイに、ほっと一息つく。
それにしても、と美里はまめまめしく動き回る男性を無意識のうちに目で追っていた。
──あの人、どこかで会ったような気がするんだよね。
美里はしばらく口をつぐみ、記憶をめぐらせた。
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