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第四章

6.

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  千夏さんが、温かい緑茶を淹れてくれ、一口飲むと美里は妙に気持ちが落ち着いた。
「美味しい……けど、さっき感じたような異常な美味しさではないです」
   美里がしみじみつぶやくと、千夏さんはおかしそうに笑った。
「今は術を使っていないからね」
   千夏さんは自分もお茶を飲むと、遠くを見つめるような目をした。
「さっきは驚かせるようなことを言ってごめんなさいね。でも、本当にあなたをどうこうするつもりはなかったの」
 千夏さんは美里に頭を下げ、影にも詫びた。
「……悪気がなくても、あなたは無意識に美里を誘い込もうとしているように見えました」
 遠慮のない影の言い方だったが、千夏さんは気にする様子ではなく「ごめん」と両手を合わせる。
「波長が合う人が現れたら自然とそういうモードになるってことはあるのかもね」
──そういうモード。
 あのまま千夏さんに導かれてどこかへ連れていかれていたらどうなっていたのか、と美里は改めてぞっとした。
「さっき影くんが説明してくれたように、私は夫と力を合わせて、魚を獲ることで生計を立てているの……昔は人を襲って食べたりもしていたんだけど、そういうの、はやらないでしょ、もう」
 口元に笑みを浮かべながら言う千夏さんは、綺麗だったがぞっとした。
「人を食べ尽くしたって意味がないと気付いたし、今は大人しく暮らしているわ」
「二人とも、キンメダイを人と見間違えたようだけど……あれは海をさまよう元・人間の魂。それをキンメダイに変えているの」
 さらりと異常なことを千夏さんは言ってのける。
 それにしても、華奢で小さな千夏さんが人を取って食べる──過去のこととは言え、容易に想像することができずに混乱した。もう術は解けているのかもしれないが、どうしても美里は千夏さんを嫌いになれずにいた。
「あと影くん、もう一つだけ訂正させて。宿のお客さんを無分別に魚に変えたりはしないわ。この地域にとって悪いことをした人、或いは──自ら人の姿を捨てることを望んでいる人だけしか今は変えていないの」
 そう語る千夏さんの顔は悲しそうで、影も美里も口をつぐんでしまった。
「あの人も元々の性質をコントロールできれば、無闇な殺生を望んだりしていない。根は優しい人なのよ」
 うふふ、と千夏さんは少女のように笑った。
「え、けど……本当は人を食わないと存在を維持できないようなあやかしなんだろう?代わりの物で満足するのか?」
 影の問いかけに、千夏さんは笑いをこらえながら部屋の片隅を指さした。
 そこには大きな酒樽がいくつも積まれ、ビールのケースも山のように積まれていた。丑雄さんをコントロールできる代替品、それはつまりお酒のようだ。
「……なるほど」
 影がつぶやくと、奥のふすまがスパーンと大きな音を立てて開く。
 美里は度肝を抜かれて、椅子から転げ落ちそうになった。部屋から出てきたのは、まだずいぶん大きくはあるが部屋に収まるサイズまで縮小したハツミ叔母さんと、丑雄さんだった。
「さあっ、仮眠もとったし酒盛りよー!!」
 ハツミ叔母さんは丑雄さんと肩を組み、冷蔵庫に突進する。
「はあ? 仮眠?」
「あの膨らんだ状態でお酒を飲むとどうなるんだろう」
 不安をつぶやき合う美里と影をよそに、千夏さんは嬉しそうに立ち上がり、ハツミ叔母さんと丑雄さんのお酒の準備を始めた。
「ハツミさんとうちの人は、とっても気の合う飲み仲間なのよね」
 一度「仮眠」をとったハツミ叔母さんは絶好調で、かぱかぱと冷酒を煽っていた。隣に座った丑雄さんも手酌でどんどん日本酒を飲む。ビールを注ぎ合っていたと思ったのはほんの序盤で、あっという間に空の瓶が床に転がる光景は圧巻だった
 影と美里はサイダーをちびちびと飲みながら、陽気に語り合う二人を呆れて眺めていた

「いやあ、ハツミちゃんぐらい飲める人が近所にいればなあ」
 丑雄さんはお酒が入ると饒舌になった。表情も温和になり、ハツミ叔母さんのキツい冗談も笑って受け入れていた。
「いやだ、あたし、そこまで飲んでないって。丑雄さんと一緒にしないでー!」
「いやあ、実にいい夜だ。楽しい夜だ」
「ねえ、あたし、ワンナイトカーニバルの振り付け全部できるよ。やって見せようか?」
 手酌でどんどん杯を重ねる二人に、千夏さんは甲斐甲斐しく肴を作ったりしながらにこにこと見守っていた。
「……あのさ、二人の会話噛み合ってないよね?」
 美里が影に囁くと、影は眠そうに目をこすりながら頷いた。
「ワンナイトカーニバルの完コピは止めたほうがいいかもしれない。このうちが壊れる」
 影があくびをし始めた頃には、美里の瞼もくっつきそうになっていた。いよいよ宴もたけなわになり、空が白み始めていた。

 ぼんやりとした意識の底で、千夏さんが美里の体に布団をかけてくれる姿が見えた。
「千夏さん……?ありがとうございます……」
 美里の声は眠さにとろけていた。千夏さんは人差し指を唇に当て、囁くように言った。
「いいのよ。眠りながら聞いていて……そして、この話は目を覚ましたら忘れてね」
──どういう意味だろう。
「あのね私、一目惚れをしてしまったの。昔、ハツミさんに会った頃。
 人ではない存在に恋をしてしまって、どうしても忘れられなかった。その頃、私は何の力もない人間だった──それでも好きになった気持ちが強すぎて、命を削るほどに思い詰めて、崖の上に立っていたの」
 ふわふわと、おとぎ話のように千夏さんの声が耳を通り過ぎていく。千夏さんは美里に話しかけているのではなく、過去の自分に語り掛けているのだ。そう思えた。
「そのとき、別にいいんじゃない?ってハツミさんが現れて言ったの。好きな気持ちに人もあやかしもありはしない──人の暮らしを離れる覚悟はあるか、ってハツミさんが訊ねて──私は無意識のうちに頷いていたんだと思う」
 あなたとはご縁があるようだね。
 そう言ってハツミさんは笑った。そのおかげで私はあの人と一緒になれたのよ──。
「美里ちゃん、今、私はとても幸せなの。他の誰かから見た幸せの形が違ったとしても」
 美里は何か言いかけて、意識が完全に遠のくのを感じていた。
 圧倒的な眠りの力に押さえつけられて思考が遮断される。「おやすみ」という千夏さんの甘い声が遠くで聞こえた。
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