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第四章

4.

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   部屋に戻って来てハツミ叔母さんで足の踏み場もないほどだったら、千夏さんに頼めばどこかの部屋を空けてくれるだろうか。
「これは賭けだな」と思いながら、美里はそっと部屋を出た。誰が布団に運んでくれたのかはわからないが、汗を流さないのは気持ちが悪い。
 客室を出て、昨日食事をした小ぶりな宴会場のような和室を通り過ぎると、「浴場」と「露天風呂」と書かれた看板に出くわした。
「せっかくなら露天風呂がいいかな……」
「浴場」と「露天風呂」は矢印が分かれていた。奇妙に思いながらも矢印を辿っていくと、玄関を出ることになってしまった。
 白いベニヤ板に赤いペンキで書かれた矢印が、夜目には何だか恐ろしい。
「……何これ、外……?」
 力なく美里はつぶやく。しかし、何かが起きるような予感がしてそのまま矢印に沿って歩き出した。

 当然、敷地内にあるのかと思ったが、矢印はまだ続いていた。「おいおいこれ、どこまで行くんだよ」と内心で思ったのか口に出したのか、しかし五分歩かないうちに矢印は急に右に折れた。
 夕食前に散歩した岸壁。その内側に小さな木造の小屋があり、例の何だか禍々しい赤いペンキで「露天風呂」と書かれている。
──めちゃくちゃ不用心。
 しかも「男/女」と区別されておらず、混浴のようだった。怖い、いろいろな意味で。
『いい露天風呂だよ』
 ハツミ叔母さんの声が蘇り、一緒に来るべきだったとつくづく思う。
 小屋の前で入ろうかどうか迷っていると、岸壁の近くに人影を見つけた。
 どきん、と心臓が音を立てる。期待と恐怖が入り混じっていた。本当はシルエットを見た瞬間に誰だかわかっていた。
「千夏さん」
 呼びかける自分の声で、美里は闇に向かって話しかけている自分に気がついた。
 シルエットがゆっくりと振り返り、長い黒髪が風に遊ばれて別の生き物のように大きく揺れた。
「……あなたは、美里ちゃん、だったわね」
 朧げな声は宿でかわした会話よりも低かった。一瞬ひるみそうになったが、美里は足元に力を入れる。
「そうです」
 息を吸い込み、美里はまっすぐに千夏さんを見つめる。千夏さんの顔は、闇に塗りつぶされているように真っ黒で表情が伺えない。
 ざざん、と大きな波が打ち寄せられ、船の光だろうか──千夏さんの顔が浮かび上がる。
 千夏さんの目は焦点を結んでおらず、口も半開きだったが、その表情は背中が粟立つほど、綺麗だった。
「ここで、何をしているんですか?」
 美里は動揺していたが、思いのほかしっかりした声が出た。こんな波の高い夜に、船など出ているだろうか、と不思議に思う。
 千夏さんは、鮮やかに笑った。
「何って、漁をしているの。面白いほど獲れるのよ」
「こんな夜に……?」
 美里が訝しむと、千夏さんはほんのわずかに首を傾ける。
「だって……夜のほうが漁が捗るんだもの」
──キンメダイの習性?
 千夏さんがもう一度微笑むと、岸壁をよじ登って大男が現れた。千夏さんの夫の丑雄さんだ。
 ここまで大きかっただろうか。それに、岸壁の高さは人力で越えられるとも思えなかった。
 おまけに、丑雄さんは両脇いっぱいに何かを抱えているのだった。あまりに軽々と抱えているのでそれが人間だと、気付くのに時間がかかる。
「キンメダイ」
 千夏さんがつぶやくと、美里が人間だと錯覚したものは大男の手をすり抜け、砂地の上にバタバタと落ちた。
 それは赤い体にゼリーのような目をした、キンメダイだった。
 あれ、でも今確かに──。

「美里ちゃん、あなたも一緒に船に乗る?」
 砂地に跳ねているキンメダイに目が釘付けになっている美里に、千夏さんがうわ言のようにつぶやく。
「え……?」
 千夏さんは美里の目の奥を覗き込むように見た。吸い込まれそうになり、今度は千夏さんから目が離せない。
「キンメダイが獲れるところ、見せてあげる」
 本能のどこかが警鐘を鳴らすが、「千夏さんともう少し一緒にいられるなら」という気持ちがそれを押しやってしまう。
 反射的に頷きそうになると、背後から声が飛んできた。
「でもさ、あのキンメダイ、元は人間だろ?」
 吹きつける風の音を縫うように、聞き覚えのある声が聞こえた。振り返ると、闇に溶け込むように影が立っていた。
「あら、影法師の坊や……」
 千夏さんはねめつけるような視線を影に向けた。そのとき美里は初めて、少し違和感を覚えた。
「美里ちゃんを助けに来たの?」
「心配になって様子を見に来たの?別に私たち、この子に危害を加えたりしないわよ」
 ただ、あれだけ食事を食べたのに姿が変わらないのが不思議なだけ。
 千夏さんが補足のようにつぶやいた言葉に美里はぎょっとした。
「はい……?」
 美里は頭の中で、千夏さんの言葉をくり返す。
──いや、私、いつも以上に食べたんですけど。それも五杯。
「美里、お前……千夏さんの術にかかってるんだよ」
「術……?」
 口を半開きにして言葉を返す美里に、影は「自覚なしか」と吐き捨てるように言う。
 影は満腹のあまり眠ってしまったのかと思ったが、いつの間に起きてきたのだろう。美里と同じように夢中で食べていて、食事中は一言も交わさなかった。
「千夏さんは「水女」って妖怪で、古くは漁師を魅了して船を転覆させたり、命を奪ったりしていた。丑雄さんも同様に「牛男」って妖怪だ。牛男は凶暴な妖怪だが、水女とともに行動して、意外にも彼女に権力を握られている」
 影はすらすらと淀みなく語り始めた。
「……で、千夏さんたちは民宿のお客を魚に変えたり、漁に出る人を魚に変えたりして生計を立てている」
 そこで言葉を止めて、影は美里の目の奥をじっと覗き込む。
「ふつうは『民宿うしお』で、術のかかった食事をした人間は魚に変わってしまうことになっている」
「じゃあ、私はどうして」
 重大な言葉が出てくるように思えて、美里は息を飲んで待つ。しかし影はあっさりと言い放った。
「まあ、大丈夫かなと思って」
「何でよ!?」
 人をなんだと思っているんだ、と美里は憤慨した。
それまで影とのやり取りを傍観していた千夏さんが、音もなく美里に歩み寄った。
「美里ちゃん、ちょっと手を見せて」
 う、と美里は咄嗟に踏みとどまった。ここで素直に応じれば酷い目に遭うのだろうかと警戒する。なかなか手を差し出さない美里に、千夏さんはやんわりと微笑んだ。
「大丈夫。さっきも言ったでしょ?危害を加えるつもりはないって」
 そう言われて美里はしぶしぶ手のひらを広げて千夏さんに見せた。千夏さんは一目見るなり、深く頷く。
「……やっぱりね。護符が刻印されてる」
「えっ?」
 美里は両方の手のひらをまじまじと見つめる。しかし何も見えなかった。手を開いたり閉じたりしている美里を見て、千夏さんは説明してくれた。
「私たちのような存在にしか見えないんだと思う。でも、強力な護符が美里ちゃんを守っているのよ」
「だから、術がかかった料理を食べても魚にならなかったのね。影くんは、それを知ってたってわけね」
 影くん、と突然呼ばれた影は動揺していた。
「あなたはまだ、体が薄いけどその子に取りつくつもり?」
 千夏さんが美里に視線を送るのと同時に、さっと影の顔色が変わった。
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