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20XX/07/04(月)
p.m.7:30「診療所」
しおりを挟む環音螺島に唯一ある診療所は、集落の端にある。一風は大寿と共に診療所へ向かったが、道中ずっと無言だった。話したいこともないし、そもそも、そんな余裕もない。サンダルでなく靴を履いてくれば良かったと思ったのすら、診療所について、明かりに照らされた泥だらけの爪先を見てのことだった。
診療所の医者は鷲頭(しゅとう)という老人だ。一風が子供の頃から老人で、久しぶりに顔を見ても、やっぱりシワシワの顔の老人だった。ここに運ばれたのが弟の八雲でなければ、再会一番、まだ生きていたんですね、くらいのことは言ったかもしれない。
「……八雲は?」
「階段上ってか、右の大部屋た」
サンダルから診療所のスリッパに履き替えて、暗い階段を駆け上った。後ろから「診療所で走るな!」としゃがれ声がしたが、彼女の耳には届かない。
小さな診療所だ。二階には右側に大部屋、左側に個室がふたつある。一風は上りきってすぐ右手側の大部屋のドアを開けて、中に飛び込んだ。ベッドは四つ。奥の窓際のひとつには少女が眠っており、おそらく伊蔵くるみだろう。その向かい側――同じく窓際に、大きな身体の青年――八雲が身体を横たえていた。
「っ……」
頼りないパイプのシングルサイズのベッドが小さく見える。猫背気味の弟が、真っ直ぐ身体を横にしていると、こんなに大きいのか。
震える足を動かして、八雲の傍へ行く。弟を見下ろした彼女は何も言えなかった。今朝、顔を合わして、言葉を交わした弟が、今は微動だにしていない。ゾク、と脊椎が戦慄く。一風は震える手を、八雲の口元に当てた。
(息、してる……)
生きている確信は持てたが、安心はできない。彼の長い前髪をそっと掻き分ける。目蓋は閉じられていて、開く気配はない。
「八雲」
小さな声で呼びかける。
「八雲」
身体に触れて、揺すった。
何度名前を呼び、身体を揺すっても八雲は目覚めない。家の中で眠る母と同じで、こちらの声なんてまったく聞こえていないかのようだ。意識を深い深い場所へ沈めているのだろうか。体温も呼吸も、生きている証の生命活動は続いているのに、意識だけがどこか遠い場所へ行ってしまっている。
「池に沈んどったて話ばってん、水は飲んどらん」
後ろから、しゃがれた声が聞こえた。
「意識は戻らないの?」
一風は振り返らないまま尋ねる。
「八雲もくるみも、生きとるとが奇跡た」
「それは戻らないってこと? そういうことなら……本渡の、大きな病院で検査してほしい。頼めば、鷲頭先生のほうで手配とかしてくれるの?」
「紹介状ば書いてもよかけど、結果は変わらんど」
振り返れば、シワシワの顔の鷲頭が真面目くさった顔をしていた。一風は眉を寄せ、何が分かるんだクソジジイと言わんばかりの顔をする。
「そんふたりは普通の医者にどうこうできるところにはおらん。医学とは分野が違う。呪いか神の領域か……魂ば囚われとる。現代医学でできるとは、死なんように栄養ぶち込むことだけた」
「呪いとか、神とか、魂とか。そういうの、医者が言ったらオシマイでしょ」
「無駄になるて分かっとって、検査だの薬だの勧める医者のほうがオシマイだろが。意味ないことに意味ないて言うてやるとも医者の役目た」
「……鷲頭先生、本当に医師免許持ってるの?」
やぶ医者という言葉は飲み込んだ。飲み込んだところでニュアンスはしっかり伝わっていたらしい。鷲頭がフンと鼻を鳴らした。
「昔からクソ生意気なガキだと思うとったが、磨きがかかっとるのう。紹介状が欲しいとならいくらでも書いてやる。八雲んとも、彩乃んとも。ばってんな、本渡の病院に入院するこつなって、お前に金ん払えるんか?」
「っ……嫌な医者……」
「なんとでん言え」
一風は鷲頭に背を向けて、八雲が横たわるベッドに腰を下ろす。彼の身体が大きいせいでスペースなんてほとんどない。いつも前髪で隠れている八雲の顔は、目を閉じていると年相応のあどけなさがあった。
「神とか、呪いとか、なんでそんな、見えないものを信じられるのか、分からない。島の人はみんなそう……ううん、島の人っていうか、島自体……気持ち悪い」
「そんなこと言いよると、バチん当たっぞ。神様はいつでん島ば見よらすけんな」
「いいことがあっても神様のおかげ、悪いことが起きたら神様の罰……この島はなんでもそうだね。台風が直撃したら神様の怒り、逸れたら神様の御業って、都合よく使ってる」
「……聞かんかったことにしちゃる。そげんこつ、他の島民の前で言うな。わしは外で学んで来とるけん聞き逃しちゃるんぞ」
鷲頭の言葉に返事はしない。ありがたさなんて微塵も感じなかった。もしも神様がいるのなら、無神論者で無礼なことばかり言っている自分ではなく、心から信じている弟がこんな目に遭っているのか。まさか無神論者への罰で、その身内を傷つけているとでも? だとすればこの島にいるらしい神様とやらは、随分と根性が曲がっている。
苛立つ姉の気持ちなど知らず、弟は穏やかな顔で目を閉じていた。引っ叩いたら、起きたりしないだろうか。一瞬そんなことを考えたが、数年振りに会った弟の顔を引っ叩く気にはならなかった。
いつの間にか鷲頭はいなくなっている。大部屋の病室には静寂が満ちていた。ふと八雲の向かい側のベッドに横たわる少女――伊蔵くるみが目に入る。ベッドは簡素で、シーツや枕は診療所のものだ。子供らしい鮮やかな色だとか、キャラクターが描かれた私物が持ち込まれている様子はない。サイドテーブルも同じだ。何も置かれていなかった。
(誰も来てない?)
気になって見ていると、病室の入口でノックの音がした。そちらに目を向けると、法衣から洋服に着替えた大寿が立っている。Tシャツや上に羽織ったシャツはともかく、パンツの裾が明らかに足りていない。
「その格好……?」
「濡れていたので診療所にあった着替えをお借りしたんです。サイズは合っていませんが、濡れた法衣よりはマシかと……」
「そうですね。風邪を引くよりはいいと思いますよ」
大寿が病室の中に入ってくる。八雲が横たわるベッドの傍ら――彼女の横に立ち、八雲を静かな目で見下ろした。細められた目は剣呑さを帯び、まるで観察するかのように、十八歳の少年を見つめている。
「くるみさんと同じ状態ですね」
「ええ。溺れて、意識不明の重体……目覚めるのは、いつになるのか分からないって、鷲頭先生は言っていました」
大寿が「そうですか」と言い、一風の肩に手を置いた。
「気を落とさないでください。目覚める可能性がまったくないというわけではないんです。月島家の人間の力は強い……時間はかかるかもしれませんが、おそらくあの子よりも可能性は高いでしょう」
それはそうだろう。
小学生の女児と十代後半の青年では体力が違う。どれだけ池に浸かっていたかにもよるが、普通に考えれば青年のほうが生存率が高くなるのは当然だ。伊蔵くるみ。彼女の命が風前の灯火だというのは、誰も口にしないが……誰もが分かっていた。
「あの子の家族は、お見舞いに来ていないんですか?」
「伊蔵家の方は……ええ、そうですね……」
忙しくて足を運ぶ暇がないのか、あるいは――もう助からないと諦めているのか。身内の子供の回復を祈るより、切り捨てる選択をしたのかもしれない。木守家の人間が、花籤花枝の娘である翠子の死を、いとも簡単に受け入れたかのように。
考えたくもないけれど……八雲にもしものことがあれば、一風は決してその事実を受け入れられないだろう。密航してまで島を抜けた花籤花枝の行動に共感できる。受け入れる木守家の人間が、島の人間が異常なのだと、つくづく痛感した。
「一風さん、大丈夫ですよ。貴方のお母様のことも、八雲くんのことも、私が力になります。ふたりが目覚めるまで、安心して島にいてください」
「っ!」
肩に置かれていた手が前に回り、一風は後ろから抱き締められる。
ときめきなんて、覚えなかった。頭の中で警鐘が鳴り響く。八雲が意識不明になった以上、一風は島を離れて福岡へ戻ることはできない。五年前に家を出たのとは、わけが違うのだ。そんなことをすれば、本当に、家族を捨てることになる。
後ろの彼は、八雲と会う約束をしていた男だ。八雲とは会ってないと言っていたけれど、その証拠はどこにもない。そして池で最初に弟を見つけたのは――
――スマホが鳴った。
「っ、すいません」
一風は大寿の腕から逃れるように身をよじり、スマホを手に取る。着信は神々廻からだ。操作して電話に出れば、画面の向こうから神々廻の声が聞こえた。彼女は大寿をちらりと見て、電話を理由に病室を出たのだった――。
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