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20XX/07/03(日)
p.m.5:50「庭にたぬきがいるらしい」
しおりを挟む環音螺島の北部に位置する霊峰には、神が宿っている。国に災いをもたらす存在を封じているだとか、国の繁栄を約束した『もの』が眠っているだとか、外敵から国を守る要だとか、小学校入学と同時に配られる冊子『しまのとも』に、長い祝詞と共に掲載されていた。
「風呂溜まったけん、神々廻さん、先にどうぞ」
「んー、いいの? 八雲くんと一風ちゃんは?」
「おれはメシば作らなんし」
「わたしもこれを終わらせたいので」
一風は手元に目を落としたまま言う。彼女は居間のテーブルにボウルとザルを広げ、もやしの根を取っていた。弟の八雲に頼まれた夕飯の手伝いだが、まるで未就学児に頼むような内容だ。自炊する時はわざわざ取ったりしない。八雲のこだわりというよりも、少しでも美味しい食事を作ろうという気遣いなのだろう。それがわかるからこそ、彼女はおとなしくプチプチ根を取っていた。
「そう? じゃあ、先に入らせてもらおうかな」
「ごゆっくりー」
八雲に見送られ、神々廻が居間を出て行く。出会って三日しか経っていないというのに、弟はすっかり姉の婚約者に気を許しているようだ。おそらくこれまで年上の男性と多く関わってきたからだろう。観伏寺の夏目大寿はもちろん、師匠だという鬼石堂安、島長の興梠鳥座、他にも多くの島民に見守られてきたに違いない。
(可愛がられてるのよね)
月島の名のおかげか、本人の資質か、母の彩乃の威光か。この数日見た限りではあるが、弟が村八分に遭っている様子はない。村を飛び出した身内を抱えたせいで、彼が不遇な目に遭っていれば、申しわけないどころの話ではなかった。
弟は一風の正面に腰を下ろし、茹でた枝豆をさやから取り出している。ポテトサラダに混ぜる分らしい。割高にはなるが、作る手間を考えれば買ったほうがいい料理ランキングの上位にランクインする料理だ。
つけているだけのテレビでは夕方の情報番組が流れている。地方局がご当地のニュースや情報を放映していた。環音螺島にもテレビの電波は飛んでいる。この島の人たちは、どんな気持ちで画面の向こうの、現実を眺めているのか。自分たちの常識を疑わない者の目に、正常な世界は異常に映っているのかもしれない。
正面の弟を見る。八雲は枝豆の房を持ったまま、居間の縦長の窓の外へ顔を向けていた。網戸の向こうには中庭が広がっている。塀と茂みと青々とした葉をつけた木くらいしかない、どことなく寂しげな場所だ。そんなところを弟が凝視している。
「どうしたの?」
問いかければ、八雲の肩が跳ねた。
「何、その反応?」
思いもしない反応に彼女も目を丸くする。八雲は勢いよく窓のほうから目をそらし、正面の一風に顔を向けた。
「ううん、なんでもないけど……」
「なんでもないようには見えないけどね」
「ぐ……えっと、その……た、たぬきがおった、けん……」
「たぬき?」
夕方とはいえ日も明るい内から、庭先にたぬきがいるなんて。彼女も窓の外へ目を向けた。けれどそこに、野生の獣の姿は見えない。風で茂みが揺れた。一風の目に映ったのは、ただそれだけだ。
「たぬきね」
弟のほうを向き直れば、彼が長い前髪の下で、わかりやすく視線を逸らした。
「……ん。たぬき。最近よく見ると。今までは、庭にまで入ってきたりせんかったのに……なんでかわからんけど……」
「エサでもあげたんじゃないの?」
「あげとらんし」
「居つかれても困るでしょ。罠でも作る? それかネット張るとか」
「んー……」
八雲は窓の向こうを見る。一風よりふたつ下の、十八歳の弟の横顔は、大人びていた。高校に通っていれば三年生だ。三年生の夏休みともなれば、受験か就職かで悩む時期で、ちょうど子供と大人の境目の頃だろう。
中庭を見たまま、弟がふっと小さく息を吐いた。
「まあ、いいや。そのままにしとく」
「……八雲がいいなら、いいけど」
そう言って、一風は納得したフリをする。
八雲が気を遣ったということは、察していた。弟は『たぬき』ではない『何か』を見たと言いたかったのだろう。けれどそれを口にすれば一風が不機嫌になるとわかっている。だから咄嗟にたぬきだなんて言ったのだ。
血を分けた姉弟でも、相手の不機嫌になるポイントを意図して踏み抜くことは許されない。そんなことをすれば喧嘩を売るようなものだ。喧嘩を吹っ掛けたいと考えるほど、月島家の姉弟は仲が悪くはなかった。
それからふたりは黙々と手を動かした。テレビの中で地方タレントがSNSで話題のキッチンカーを紹介している。やがて枝豆を取り出す作業ともやしの下準備が終わると、八雲がふと神々廻の名前を出した。
「……うん?」
「だけんね、神々廻さんって、なんばしよらす人なん? どこかの社長さんとか、偉い人だったりすると?」
「急に、何?」
正直に探偵だと話すことはできない。閉鎖的な島に探偵をつれ込んだと知れば、例えやましいことがなくても、面倒な心証を与えるのは明らかだ。しかも今回はやましいことがある。婚約なんて嘘っぱちで、神々廻慈郎は目的を持って島に来た。
一風は爪の間に挟まったもやしの筋を取るフリをして、八雲から自然に目をそらす。弟のように明らかに動揺した様子は見せなかった。
「急じゃないもん。ずっと気になっとった」
「そう……でもなんで社長だと思ったの?」
「だって、高そうなスーツ着とる」
「高そうなじゃなくて、目ん玉ひん剥くほど高いスーツだよ」
「そうなん!?」
「そうそう」
ざっくりとした相場の値段を口にする。続けておそらくオーダーメイドだからもっと高いだろうと教えれば、八雲は「ひえ」と情けない声を漏らしていた。
「姉ちゃん……玉の輿?」
「そうかもね」
彼女が肩をすくめれば、八雲はふっと表情を硬くする。驚いて、興奮して、金額に怯んで、暗い顔をして……大人びていると思ったが、彼の表情はコロコロ変わる。長い前髪を払えば、もっと鮮明に顔に出た弟の感情を読み取れただろう。
「どうしたの?」
一風は先ほどと同じように問いかけた。
答えにくいのか、八雲は口を開き、閉じてを繰り返す。彼女が急かさず待っていると、ようやく弟は「結婚したら――」と、小さな声で紡ぎはじめた。
「――姉ちゃんは、島に帰ってくると? 興梠のじいちゃんとか、島の人とか、みんな、姉ちゃんが婿ば連れて来たって言いよらすけど……本当?」
「八雲は、どう思う?」
「……神々廻さんが社長さんなら、島に住むのは、無理て思う……それに、姉ちゃんは戻ってこんよ……戻ってこん。うん。おれ、それくらい分かっとるよ。合わんけん。この島。姉ちゃんには、合わん」
短く、短く。弟は言葉を区切りながら、声に出していく。それはまるで、自分に言い聞かせているかのようだった。
「島ん人に、おめでとうって言われた。おれは、ありがとうございますって言った。姉ちゃんは帰ってこんとは、言わんかったよ」
「……ん、そっか」
一風は手を伸ばし、正面に座る弟の前髪を掻き上げる。露わになった八雲の瞳は、微かに潤んでいて、涙の膜が張っていた。
機転が利き、鋭く、けれど気遣いを忘れず、相手の気持ちを察し、余計なことは言わない。いいこだ。いい弟だ。
いいこすぎる、弟だ。
「ごめんね」
子供のままでいさせてあげられなくて。きっと彼女が島を出た時から、弟は子供のままではいられなくなった。母とふたりで生きていく人生を背負わせた。その結果がいっそ哀れなほどに周囲に気を遣う、大人びた十代の青年を作り出してしまったのだ。
「っ……姉ちゃんは、おれに謝ってばっかだ……」
「そうだね。お詫びに夕飯はわたしが作るよ」
「え……」
ぱち、と。八雲がまばたきをする。その拍子に瞳を潤ませる膜が割れて、ひと筋の涙が弟の頬を伝った。
「何?」
「お詫びって言うけど……だって、おれが作ったほうが、美味しいだろうし……」
「そうなると『お詫びとは?』って話になるね」
「うん」
「うんじゃないから」
「痛!」
一風は八雲のひたいを指先で弾く。軽い衝撃にも関わらず、もうひと筋、涙がこぼれた。その跡を辿るように、次々と涙が溢れてくる。泣いている。弟が。それなのに心配な気持ちにならなかったのは、八雲が泣きながら笑っていたからだ。
(テーブルがなかったら抱きしめてたかもしれない)
そんなことをする自分の姿を想像して、彼女も笑みをこぼしたのだった――。
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