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20XX/07/01(金)

p.m.9:53「マインドコントロール」

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 それは、もうすぐ夜の十時になろうかという時間――。

 玄関のほうがにわかに騒がしくなり、八雲が顔を出しに行った。食事も風呂もとうに終わり、一風たちは居間で夜の時間を過ごしているところだ。主に神々廻の独壇場である。彼が東京でのことや福岡でのことを面白おかしく、軽快に話すと、素直な八雲が大げさに反応をしていた。そして、それに調子を良くした神々廻がさらに言葉を紡ぐという流れが続いている。

 一風は緑茶の入った湯のみをテーブルに置いた。そして「神々廻さん」と呼べば、彼は氷と焼酎が入ったグラスを手に、こちらへ目を向ける。母が病床に伏して以来、飲む人がいなかった酒だ。軽快に口を動かしていたのは、アルコールのせいもあるのかもしれない。

 風呂に入ったため、神々廻は髪を無造作に下ろし、スーツを脱いでスウェットを着ている。ラフな格好をしていてもモデル然りとしたオーラは消えず、住宅展示場のカタログの、家族団らんのページから抜け出してきたような雰囲気を纏っていた。爽やかで人好きされそうな外見は、人見知りの八雲が懐く要因のひとつになっているに違いない。

「明日は何をするつもりですか?」
「そうだねえ……とりあえず島を見て回ろうかな。いきなり花籤(はなくじ)……じゃなくて、木守(こもり)の家に行っても、話を聞けるとは思えないしね。その後、動きにくくなるのは予想できるし、自由に動ける内に動くよ。だから一風ちゃん、島を案内してくれる?」
「……たいしたガイドはできませんが、それでも良ければ」
「一緒にいてくれるだけで心強いよ」

 神々廻がにっこり微笑んだ。

(黙って笑っていれば、敵は作らないだろうに……)

 彼をひとりで自由にさせておけば、十中八九、敵を作るだろう。環音螺島は閉鎖的で排他的な島だ。一度でも敵だと認定されれば、何をされてもおかしくない。それこそ、彼女の父親のように……。

「神々廻さんは、木守家についてどれくらい知っていますか?」
「うーん……花籤に聞いた話によると、島でもそれなりに発言権のある名士なんだってね。夏目家を支える『四家』のひとつだって言ってたけど、その辺りの島の事情は調べても出てこなかった。花籤も口を開きはしたけど言葉が出なくて、なんでも、詳しいことは言えないってさ」
「そうでしょうね……たぶん、花籤さんは木守家の洗脳下にあるんだと思います」
「洗脳って……そういうの、信じてないと思ってた」

 神々廻が肩をすくめた。一風は誤解するなとばかりに眉を寄せる。

「洗脳……マインドコントロールはオカルトでも、神による不可思議な力でもない、心理学的根拠のある症例です。例えばストックホルム症候群。誘拐や監禁などによって拘束下にある被害者が、加害者と時間や場所を共有することで、好意や共感、さらには信頼や結束の感情まで抱くようになる現象も、洗脳の一種です」

 一風はさらに言葉を続けた。

 ストックホルム症候群以外にも、福岡県の北九州市で起きた監禁及び連続殺人事件は、マインドコントロールされた被害者が加害者となった、悲惨な事件だ。思考を支配し、異常な心理状態へと駆り立てていくマインドコントロール……一風は、それが長らく環音螺島で行われてきたと考えている。それこそ、神の名を借りて。

 神々廻慈郎の大学の後輩で、木守家に嫁いでいた花籤花枝(はなえ)。彼女は木守の人間に洗脳されているのだろう。家の情報や環音螺島の情報を、外の世界で口外しないように、と。

「花籤のことは昔から知ってるけど、そんなに簡単にマインドコントロールされるようなヤツじゃないよ。自分をしっかり持ってるし、気も強いしねえ」
「神々廻さんの後輩なら、せいぜい四十年ほどしか生きていない女性でしょう? 環音螺島の人間は、その手の洗脳のプロですよ。長い間……数百年単位で、脈々と洗脳の手法を受け継いで、無自覚のままそれを行っているんです。人生経験たった四十年の人が、島ぐるみの洗脳に太刀打ちできるとは思えません」
「無自覚?」
「環音螺島で生まれた子供は、この世に生まれた瞬間から……いいえ、母の胎にいる時からすでに、偉大な神の存在と教えが傍らに在るんです」

 偉大な神と話す一風の口元は、皮肉げに歪んでいた。

「親や保育園の先生、島の人たちにそう教えられて育つから、物心がついた時にはもう、神がいることが当たり前なんですよ。義務教育中に祝詞や呪術に関する勉強をするし、目には見えないものの存在を否定することなく大人になって……自分の子供にも同じように語って、育てます」
「……なるほどねえ。大人も子供も、そういう島民ばかりの島へ外部から来た人間は洗脳されるってわけか。たぶんこの島に移住するとなると、結婚か養子縁組って形しか認められないんだろう?」
「ええ、その通りです」
「外から来た人間も最初は訝しんでいても、島に馴染みたいと思えば、時間をかけてゆっくり受け入れていく。愛する自分の伴侶や義理の両親……もしくは生まれた子供が信じているものを、声を大にして否定はしにくい……その心理状況下で、長年培われてきたマインドコントロールを行使されたら……」

 木守花枝……旧姓、花籤花枝がほんの一部ではあるが洗脳を解けたのは、子供が死んだからだろう。マインドコントロールが解ける要因のひとつは、疑いだ。疑問を持てば、綻びが生まれる。

 二年前の七月七日。

 花籤花枝はその日をきっかけに、自分を取り戻し、島から逃げた。そして、大学の先輩という、一風にしてみればそこまで太くない縁を辿って、神々廻慈郎に助けを求めたのだ。

「もしかして、花籤の話に出た『四家』は、その洗脳っていうのに長けていたりするのかな?」
「どうしてそう考えたのかは分かりませんが……正解です。四家は島の人間の血が濃くなりすぎないように、外部の人間の血を混ぜる役目を担っています。木守の他に、火河(ひかわ)、水海(みずうみ)、そして……月島」
「月島って、じゃあ……」
「はい。他の三家とは違って没落寸前ですけどね」

 月島の子供は生まれにくい。母もひとりっ子で、母の母、一風の祖母にあたる人もひとりっ子だったそうだ。その上、短命な者が多く、かつて織田信長が唱えたとされる人間わずか五十年を未だ踏襲するような家系だった。

「わたしが環音螺島を出るのを、比較的、妨害されずに済んだのは、月島の人間だからです。外で種を探して出産できる歳になったら戻ってくればいいと、名士たる他の三家は考えたのでしょう」

 父親が島の外の人間なのも、それが理由だ。

「じゃあ、奇しくも現状は三家が望んだ通りになっているわけだねえ」

 神々廻が笑う。

「そうですね。わたしは外で婚約者を作って、島へ帰省してきた。大学を卒業したら環音螺島に戻ってくるのだと、勝手に誤解してくれそうです」
「いいねえ。そういうの嫌いじゃないよ。となると明日は、仲睦まじい婚約者にいずれ住むであろう島を案内するって体でいこうか。自慢の婚約者だって紹介できるように、バッチリ、キメるから大船に乗ったつもりでいて!」
「スーツと革靴は、この島で目立ちますよ」
「願ったり叶ったりだ」

 見た目はともかく、神々廻慈郎という人間を好きになったわけではない。今でも彼はトラブルメーカーなのだと思っている。ひとりで島をうろつかせれば、必ず敵を作るのは目に見えていた。けれど、口が回りに回る神々廻が、閉ざされた島の人間を翻弄するのだと考えれば、痛快でもあった。

 と、その時、居間に八雲が戻ってきた。長い前髪で分かりにくいが、弟の顔には困惑の表情が浮かんでいる。それに神々廻も気づいたらしい。

「八雲くん、どうしたの?」
「いや、なんか……伊蔵(いぞう)さんちの孫が帰ってこんて……」
「ええ? お孫さんが? 大変じゃない」
「門限が六時で、三十分待っても帰ってこんから家族で探してたけど……見つからんくて、今は近所中で探しとるって……」
「その子いくつなの?」
「えっと、確か陣平(じんぺい)の妹と一緒だったけん……小学二年生だったと思います。女の子で、よく村ばチョロチョロしとる元気な子です」

 時間は夜の十時を回っている。夏とはいえ外は暗く、小学生の女の子がうろつくには、遅い時間だ。にわかに騒がしかったのは島民が捜索しているからだろう。

 胸がざわついた。一風と八雲の父が亡くなり、花籤花枝の娘が亡くなった、七月七日が近いからかもしれない。ちらりと神々廻を見れば、垂れがちの目を細めた彼が、いっそ怖いくらいに真剣な表情で、顎を撫でていた。

 そして、夜は更けていく――。



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