上 下
1 / 52
20XX/06/26(日)

p.m.7:55「秘密を知る男」

しおりを挟む

 福岡県福岡市博多区某所――。

 月島一風(つきしまいちか)が喫茶店『黒小鷺の巣(くろこさぎのす)』でアルバイトをはじめて、かれこれ一年と二か月が経とうとしていた。大学に入学して以来、彼女は毎週、土曜日と日曜日は黒小鷺の巣でシフトに入っている。店員として労働に従事してはいるが、店主の老夫婦や気のいい常連のお客さんたちと過ごせるこの喫茶店は、気を休めるための掛け替えのない場所でもあった。

 黒小鷺の巣は私立病院の傍らに店を構えている。鉢植えや花壇、蔦や木々で覆われた外観は、どことなく隠れ家的な雰囲気を醸し出していた。

 近所の常連客がほとんどだが、時折、初めて来たという人も現れる。例えば、妻の友人のお見舞いに付き添ってきたが、見知らぬ相手なので気まずく逃げてきた、という人だ。そういう人は、隠れ家的な雰囲気のせいか最初は緊張した面持ちで入店してくるが、帰る時には満足そうな顔で出て行く。それもこれも居心地のいい空間を作ることに長けた店主の玻璃木(はりき)夫妻――バリスタの旦那さんと料理担当の奥さんの、なせるわざだろう。

 そんな、たまの一見さんと常連客に支えられた喫茶店に、最近、新たなお客さんがひとり、つきはじめている。店の奥の窓に接していないボックス席には、ここ一か月ほど毎週のように来店している男性客がいた。

 年齢は四十代半ばといったところだろう。大人の男性が読むファッション雑誌の、それこそ“イケオジ特集”から抜け出してきたような風貌だ。高級ブランドのスリーピーススーツを嫌味なく着こなし、長い足の先には綺麗に磨かれた革靴を履いている。店内のオレンジ味がかった照明の下で、ハンバーグセットを食べ、コーヒーを飲み、本を読む姿は、どこを切り取っても絵になっていた。

 奥さんの話によると、男性は必ず土曜日と日曜日に来ており、平日に来店することはないらしい。そして決まったようにランチを食べ、コーヒーを飲み、本を読んで、夕方になると帰って行く。

(見た目は素敵な人だけど、たぶん、ちょっと変わっている人)

 それが、六月になって来店するようになった彼を、これまで七回見てきた一風の印象だった。いつも彼が読んでいるのは、海外の本を翻訳したものだ。『白鯨』『緋色の研究』『ニーチェの格言集』『聖書』『カラマーゾフの兄弟』『オリエント急行の殺人』『星の王子様』――何を読んでいたかハッキリ覚えているし、謎のラインナップだと思っていた。

 三週目の土曜日に『カラマーゾフの兄弟』を読みながら涙しているのを見た時は、泣けるシーンなんてあっただろうかと首を捻り、衝動のまま、ついアルバイト終わりに本屋へ寄って購入してしまった。帰宅してすぐに読んでみたが、高校生の時と同じく、途中で脱落した。

 六月二十六日、日曜日――。

 時間はもうすぐ二十時になろうとしている。そろそろ閉店時間だ。

(どうしたんだろう?)

 店の奥のボックス席には、彼がいた。梅雨入りしたことなど気にもしていないかのように、今日もまたエレガントなブランドスーツを身に纏い、ピカピカに磨かれた革靴を履いている。いつもならとっくに帰っている時間だった。もしかすると閉店時間を知らないのかとも思ったが、他の客は全員帰り、その様子を見ていれば察しがつきそうなものだ。

 すでに奥さんは帰宅している。店に残っているのは、カウンターの奥で片付けをはじめた御年七十五歳を越える旦那さんと、一風だけだ。彼女は時間を告げるために、奥の席へ足を向けた。これまでにその男性と会話らしい会話はしたことがない。せいぜい注文を受ける時と食事やコーヒーを運ぶ時、帰り際の清算の時だけだ。

 少しだけ、緊張していた。

 普通の女子大生が接する機会の多いタイプの男性ではない上、雑誌で特集を組まれそうな風貌だ。平然と、なんの躊躇もなく声をかけられるほど一風の対人スキルは高くなかった。整いすぎた外見の人間なんて、少し離れたところからキャーキャー言いながら見るのが一番楽しい。心底そう思っているが、仕事だ。

「すみません。そろそろ閉店のお時間なのですが……」

 男性に声をかける。内心、心臓はバクバクだった。彼は読んでいた本を閉じる。今日は『ダレン・シャン』だ。彼が一風のほうに目を向ける。垂れがちな目がどことなく楽しげな色を湛えて、一風の姿を捉えていた。

「いやあ、ごめんねえ。遅くまで居座っちゃって」

 品のいい見た目とはかけ離れて、彼の声の調子は軽薄だ。今日はこれまでの七回に輪をかけて軽く聞こえた。やっぱり少し離れたところから見ているくらいがちょうどいい。そんなことを考えながらも、一風は店員として「いえ、大丈夫ですよ」と、笑顔で言葉を返した。

「では、お会計をよろしいですか?」
「うん。はい、これ」

 差し出された伝票を受け取る――瞬間、一風の手は男性の大きな手に掴まれた。反射的に受け取った伝票を落としてしまう。

「っ!?」

 彼の手を振り解こうとしたが、しっかり握られていて離すことができない。なんて無力なのか。男女の力の差にゾッとした。今すぐに大声を上げれば、カウンターの奥にいる旦那さんが気付いてくれるだろう。しかし生気溢れる男盛りの彼と、七十五歳の高齢者が相対した時、後者が勝てるとは思えない。下手をすれば怪我では済まないことくらい、彼女にも想像ができた。

「……離してください」
「月島一風ちゃん」
「え、なんで、名前……?」

 一気に血の気が引いていく。手が震えはじめた。黒小鷺の巣で、彼女は夫妻や常連客から『一風ちゃん』と呼ばれている。名札をつけているわけでも、名乗ったわけでもないのに、どうして苗字まで知られているのか。

 動揺する一風に、男は目を細めて笑った。

「やだなあ、そんなに怖がらないでよ。なんだかオジサン、悪いことしてる気になってくるじゃない」
「悪いことしてると、思いますが……」
「あ、そう? ごめん、ごめん」

 これまでビクともしなかったのが嘘だと思えるくらい、あっさりと、彼の手が離れていく。

 一風は解放された手を勢いよく胸の前に引き、反対の手で包むように握った。数歩後ろに下がって、男を睨みつける。その男は未だに席に腰を下ろしたまま、余裕の態度を崩さないでいた。言葉では謝っていても、悪びれている様子は微塵もない。

「そんなことより大事な話。一風ちゃん、運命って信じる?」
「……はあ?」

 肌の接触がなくなったからか、物理的に距離を取れたからか、一風は相手の機嫌を損ねかねないほど盛大に顔を顰めた。急に手を握ってきたり、唐突に妙なことを言い出したり、危険人物だ。

 見た目は素敵な人だけど、たぶん、ちょっと変わっている人――彼女はその認識を大幅に変更する。見た目は良くても、かなりの変人。怪しい。危険な人間。ロクでもない。警察へ連絡を――

「黙ってないで答えてよ。運命を信じる?」
「信じてません。そんな、目に見えないもの」

 警戒しながらも、答える。

「じゃあ、神様は?」

 警戒心を強めた。

「信じていません。宗教の勧誘か何かですか?」
「違うけど。だけど、へえ、そっか。信じてないのか」
「それこそ目に見えないものですし……っ!?」

 不意に男が立った。身長は百八十センチを超えるくらいあるだろう。女子の平均よりは背が高い一風が、見上げなければならないほど長身だ。彼はボックス席を出てくると、後ずさる一風に迫るようにグッと顔を寄せてきた。

「おかしな話だねえ。だって、君は神の居る島で生まれ育ったんだろう?」
「……は……」

 息を呑む。手を握られた時よりも、男女の力の差を思い知らされた時よりも、名前を知られていると告げられた時よりも、一風の顔から血の気が引いた。背中が冷たくなってくる。

 中学校を卒業し、ひとりで島を出て以来、誰にも『神の居る島』のことを話したことはない。それは彼女にとって、大きな秘密だった。

「なんで……知ってるの?」

 微かに声を震わせる一風を、にこりと笑って目を細めた男が見つめていた。




しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

マンドラゴラの王様

ミドリ
キャラ文芸
覇気のない若者、秋野美空(23)は、人付き合いが苦手。 再婚した母が出ていった実家(ど田舎)でひとり暮らしをしていた。 そんなある日、裏山を散策中に見慣れぬ植物を踏んづけてしまい、葉をめくるとそこにあったのは人間の頭。驚いた美空だったが、どうやらそれが人間ではなく根っこで出来た植物だと気付き、観察日記をつけることに。 日々成長していく植物は、やがてエキゾチックな若い男性に育っていく。無垢な子供の様な彼を庇護しようと、日々奮闘する美空。 とうとう地面から解放された彼と共に暮らし始めた美空に、事件が次々と襲いかかる。 何故彼はこの場所に生えてきたのか。 何故美空はこの場所から離れたくないのか。 この地に古くから伝わる伝承と、海外から尋ねてきた怪しげな祈祷師ウドさんと関わることで、次第に全ての謎が解き明かされていく。 完結済作品です。 気弱だった美空が段々と成長していく姿を是非応援していただければと思います。

闇に蠢く

野村勇輔(ノムラユーリ)
ホラー
 関わると行方不明になると噂される喪服の女(少女)に関わってしまった相原奈央と相原響紀。  響紀は女の手にかかり、命を落とす。  さらに奈央も狙われて…… イラスト:ミコトカエ(@takoharamint)様 ※無断転載等不可

横浜で空に一番近いカフェ

みつまめ つぼみ
キャラ文芸
 大卒二年目のシステムエンジニア千晴が出会ったのは、千年を生きる妖狐。  転職を決意した千晴の転職先は、ランドマークタワー高層にあるカフェだった。  最高の展望で働く千晴は、新しい仕事を通じて自分の人生を考える。  新しい職場は高層カフェ! 接客業は忙しいけど、眺めは最高です!

砂漠の国でイケメン俺様CEOと秘密結婚⁉︎ 〜Romance in Abū Dhabī〜 【Alphapolis Edition】

佐倉 蘭
キャラ文芸
都内の大手不動産会社に勤める、三浦 真珠子(まみこ)27歳。 ある日、突然の辞令によって、アブダビの新都市建設に関わるタワービル建設のプロジェクトメンバーに抜擢される。 それに伴って、海外事業本部・アブダビ新都市建設事業室に異動となり、海外赴任することになるのだが…… ——って……アブダビって、どこ⁉︎ ※作中にアラビア語が出てきますが、作者はアラビア語に不案内ですので雰囲気だけお楽しみ下さい。また、文字が反転しているかもしれませんのでお含みおき下さい。

NPO法人マヨヒガ! ~CGモデラーって難しいんですか?~

みつまめ つぼみ
キャラ文芸
 ハードワークと職業適性不一致に悩み、毎日をつらく感じている香澄(かすみ)。  彼女は帰り道、不思議な喫茶店を見つけて足を踏み入れる。  そこで出会った青年マスター晴臣(はるおみ)は、なんと『ぬらりひょん』!  彼は香澄を『マヨヒガ』へと誘い、彼女の保護を約束する。  離職した香澄は、新しいステージである『3DCGモデラー』で才能を開花させる。  香澄の手が、デジタル空間でキャラクターに命を吹き込む――。

【完結】パンでパンでポン!!〜付喪神と作る美味しいパンたち〜

櫛田こころ
キャラ文芸
水乃町のパン屋『ルーブル』。 そこがあたし、水城桜乃(みずき さくの)のお家。 あたしの……大事な場所。 お父さんお母さんが、頑張ってパンを作って。たくさんのお客さん達に売っている場所。 あたしが七歳になって、お母さんが男の子を産んだの。大事な赤ちゃんだけど……お母さんがあたしに構ってくれないのが、だんだんと悲しくなって。 ある日、大っきなケンカをしちゃって。謝るのも嫌で……蔵に行ったら、出会ったの。 あたしが、保育園の時に遊んでいた……ままごとキッチン。 それが光って出会えたのが、『つくもがみ』の美濃さん。 関西弁って話し方をする女の人の見た目だけど、人間じゃないんだって。 あたしに……お父さん達ががんばって作っている『パン』がどれくらい大変なのかを……ままごとキッチンを使って教えてくれることになったの!!

あまりさんののっぴきならない事情

菱沼あゆ
キャラ文芸
 強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。  充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。 「何故、こんなところに居る? 南条あまり」 「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」 「それ、俺だろ」  そーですね……。  カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。

助けてください!エリート年下上司が、地味な私への溺愛を隠してくれません

和泉杏咲
恋愛
両片思いの2人。「年下上司なんてありえない!」 「できない年上部下なんてまっぴらだ」そんな2人は、どうやって結ばれる? 「年下上司なんてありえない!」 「こっちこそ、できない年上の部下なんてまっぴらだ」 思えば、私とあいつは初対面から相性最悪だった! 人材業界へと転職した高井綾香。 そこで彼女を待ち受けていたのは、エリート街道まっしぐらの上司、加藤涼介からの厳しい言葉の数々。 綾香は年下の涼介に対し、常に反発を繰り返していた。 ところが、ある時自分のミスを助けてくれた涼介が気になるように……? 「あの……私なんで、壁ドンされてるんですか?」 「ほら、やってみなよ、体で俺を誘惑するんだよね?」 「はあ!?誘惑!?」 「取引先を陥落させた技、僕にやってみなよ」

処理中です...