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20XX/06/26(日)
p.m.7:55「秘密を知る男」
しおりを挟む福岡県福岡市博多区某所――。
月島一風(つきしまいちか)が喫茶店『黒小鷺の巣(くろこさぎのす)』でアルバイトをはじめて、かれこれ一年と二か月が経とうとしていた。大学に入学して以来、彼女は毎週、土曜日と日曜日は黒小鷺の巣でシフトに入っている。店員として労働に従事してはいるが、店主の老夫婦や気のいい常連のお客さんたちと過ごせるこの喫茶店は、気を休めるための掛け替えのない場所でもあった。
黒小鷺の巣は私立病院の傍らに店を構えている。鉢植えや花壇、蔦や木々で覆われた外観は、どことなく隠れ家的な雰囲気を醸し出していた。
近所の常連客がほとんどだが、時折、初めて来たという人も現れる。例えば、妻の友人のお見舞いに付き添ってきたが、見知らぬ相手なので気まずく逃げてきた、という人だ。そういう人は、隠れ家的な雰囲気のせいか最初は緊張した面持ちで入店してくるが、帰る時には満足そうな顔で出て行く。それもこれも居心地のいい空間を作ることに長けた店主の玻璃木(はりき)夫妻――バリスタの旦那さんと料理担当の奥さんの、なせるわざだろう。
そんな、たまの一見さんと常連客に支えられた喫茶店に、最近、新たなお客さんがひとり、つきはじめている。店の奥の窓に接していないボックス席には、ここ一か月ほど毎週のように来店している男性客がいた。
年齢は四十代半ばといったところだろう。大人の男性が読むファッション雑誌の、それこそ“イケオジ特集”から抜け出してきたような風貌だ。高級ブランドのスリーピーススーツを嫌味なく着こなし、長い足の先には綺麗に磨かれた革靴を履いている。店内のオレンジ味がかった照明の下で、ハンバーグセットを食べ、コーヒーを飲み、本を読む姿は、どこを切り取っても絵になっていた。
奥さんの話によると、男性は必ず土曜日と日曜日に来ており、平日に来店することはないらしい。そして決まったようにランチを食べ、コーヒーを飲み、本を読んで、夕方になると帰って行く。
(見た目は素敵な人だけど、たぶん、ちょっと変わっている人)
それが、六月になって来店するようになった彼を、これまで七回見てきた一風の印象だった。いつも彼が読んでいるのは、海外の本を翻訳したものだ。『白鯨』『緋色の研究』『ニーチェの格言集』『聖書』『カラマーゾフの兄弟』『オリエント急行の殺人』『星の王子様』――何を読んでいたかハッキリ覚えているし、謎のラインナップだと思っていた。
三週目の土曜日に『カラマーゾフの兄弟』を読みながら涙しているのを見た時は、泣けるシーンなんてあっただろうかと首を捻り、衝動のまま、ついアルバイト終わりに本屋へ寄って購入してしまった。帰宅してすぐに読んでみたが、高校生の時と同じく、途中で脱落した。
六月二十六日、日曜日――。
時間はもうすぐ二十時になろうとしている。そろそろ閉店時間だ。
(どうしたんだろう?)
店の奥のボックス席には、彼がいた。梅雨入りしたことなど気にもしていないかのように、今日もまたエレガントなブランドスーツを身に纏い、ピカピカに磨かれた革靴を履いている。いつもならとっくに帰っている時間だった。もしかすると閉店時間を知らないのかとも思ったが、他の客は全員帰り、その様子を見ていれば察しがつきそうなものだ。
すでに奥さんは帰宅している。店に残っているのは、カウンターの奥で片付けをはじめた御年七十五歳を越える旦那さんと、一風だけだ。彼女は時間を告げるために、奥の席へ足を向けた。これまでにその男性と会話らしい会話はしたことがない。せいぜい注文を受ける時と食事やコーヒーを運ぶ時、帰り際の清算の時だけだ。
少しだけ、緊張していた。
普通の女子大生が接する機会の多いタイプの男性ではない上、雑誌で特集を組まれそうな風貌だ。平然と、なんの躊躇もなく声をかけられるほど一風の対人スキルは高くなかった。整いすぎた外見の人間なんて、少し離れたところからキャーキャー言いながら見るのが一番楽しい。心底そう思っているが、仕事だ。
「すみません。そろそろ閉店のお時間なのですが……」
男性に声をかける。内心、心臓はバクバクだった。彼は読んでいた本を閉じる。今日は『ダレン・シャン』だ。彼が一風のほうに目を向ける。垂れがちな目がどことなく楽しげな色を湛えて、一風の姿を捉えていた。
「いやあ、ごめんねえ。遅くまで居座っちゃって」
品のいい見た目とはかけ離れて、彼の声の調子は軽薄だ。今日はこれまでの七回に輪をかけて軽く聞こえた。やっぱり少し離れたところから見ているくらいがちょうどいい。そんなことを考えながらも、一風は店員として「いえ、大丈夫ですよ」と、笑顔で言葉を返した。
「では、お会計をよろしいですか?」
「うん。はい、これ」
差し出された伝票を受け取る――瞬間、一風の手は男性の大きな手に掴まれた。反射的に受け取った伝票を落としてしまう。
「っ!?」
彼の手を振り解こうとしたが、しっかり握られていて離すことができない。なんて無力なのか。男女の力の差にゾッとした。今すぐに大声を上げれば、カウンターの奥にいる旦那さんが気付いてくれるだろう。しかし生気溢れる男盛りの彼と、七十五歳の高齢者が相対した時、後者が勝てるとは思えない。下手をすれば怪我では済まないことくらい、彼女にも想像ができた。
「……離してください」
「月島一風ちゃん」
「え、なんで、名前……?」
一気に血の気が引いていく。手が震えはじめた。黒小鷺の巣で、彼女は夫妻や常連客から『一風ちゃん』と呼ばれている。名札をつけているわけでも、名乗ったわけでもないのに、どうして苗字まで知られているのか。
動揺する一風に、男は目を細めて笑った。
「やだなあ、そんなに怖がらないでよ。なんだかオジサン、悪いことしてる気になってくるじゃない」
「悪いことしてると、思いますが……」
「あ、そう? ごめん、ごめん」
これまでビクともしなかったのが嘘だと思えるくらい、あっさりと、彼の手が離れていく。
一風は解放された手を勢いよく胸の前に引き、反対の手で包むように握った。数歩後ろに下がって、男を睨みつける。その男は未だに席に腰を下ろしたまま、余裕の態度を崩さないでいた。言葉では謝っていても、悪びれている様子は微塵もない。
「そんなことより大事な話。一風ちゃん、運命って信じる?」
「……はあ?」
肌の接触がなくなったからか、物理的に距離を取れたからか、一風は相手の機嫌を損ねかねないほど盛大に顔を顰めた。急に手を握ってきたり、唐突に妙なことを言い出したり、危険人物だ。
見た目は素敵な人だけど、たぶん、ちょっと変わっている人――彼女はその認識を大幅に変更する。見た目は良くても、かなりの変人。怪しい。危険な人間。ロクでもない。警察へ連絡を――
「黙ってないで答えてよ。運命を信じる?」
「信じてません。そんな、目に見えないもの」
警戒しながらも、答える。
「じゃあ、神様は?」
警戒心を強めた。
「信じていません。宗教の勧誘か何かですか?」
「違うけど。だけど、へえ、そっか。信じてないのか」
「それこそ目に見えないものですし……っ!?」
不意に男が立った。身長は百八十センチを超えるくらいあるだろう。女子の平均よりは背が高い一風が、見上げなければならないほど長身だ。彼はボックス席を出てくると、後ずさる一風に迫るようにグッと顔を寄せてきた。
「おかしな話だねえ。だって、君は神の居る島で生まれ育ったんだろう?」
「……は……」
息を呑む。手を握られた時よりも、男女の力の差を思い知らされた時よりも、名前を知られていると告げられた時よりも、一風の顔から血の気が引いた。背中が冷たくなってくる。
中学校を卒業し、ひとりで島を出て以来、誰にも『神の居る島』のことを話したことはない。それは彼女にとって、大きな秘密だった。
「なんで……知ってるの?」
微かに声を震わせる一風を、にこりと笑って目を細めた男が見つめていた。
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