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四章 英雄の花嫁

38:ペルナリエスカ

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 アメリアはホワイトディア辺境伯夫妻と夕食を共にする約束をし、一度別れた。用意された日当たりのいい部屋へ戻り、暖炉の前に置かれたソファの背もたれに身体を預ける。リサがお茶を淹れてくれたが、夫人に勧められて焼菓子と紅茶をおかわりしていた彼女の胃は、もう飲み物すら受けつけない。せっかく淹れてもらった熱いお茶から湯気が消え、ぬるくなっていくのをぼんやり見つめていた。

 厚意を素直に受け入れられないのは、何故だろう。違和感があるものとして捉えてしまうのは、これまでその手のこと――他人を気にせず生きてきた自身の怠慢が原因なのかもしれない。人間関係の築き方がわからず、困惑してしまうのは、自分に大きな欠陥があるからだと思えてしかたなかった。

 ホワイトディア辺境伯夫妻は善人だ。少なくともアメリアに対しては、良くしてくれようとしているのがわかる。結婚式まで滞在する部屋は日当たりが良く、一級品の家具が揃えられていた。室内は壁で仕切られた奥の空間にベッドが備え付けられているが、それでもなお広い。バルコニーにも出れるようになっており、そこから見える庭園の景色は庭師の有能さを黙して語るほどのものだった。

 どれくらいの時間が経っただろうか。

 ソファに身体を預けたままぼんやり虚空を見つめていると、部屋の扉がノックされた。返事をすればリサが入って来て、アメリアの傍へやってくる。熱心に学んでいる彼女は、立ち居振る舞いが洗練され、どこかいいところのお譲さんと言われてもおかしくないほどだ。

「アメリア様、オリオン様がいらっしゃっております」
「オリオン様が?」
「お会いになられますか?」
「ええ、それはもちろん。お茶の支度をお願いできる? あ……オリオン様の分だけでかまわないわ」
「かしこまりました」

 そう言ってリサが頭を下げる。頭を上げた時、少女の目がちらりとテーブルの上にある冷えたお茶を見たのがわかった。

「あの……お口に、合いませんでしたか?」

 不安げに揺れる瞳を見て、アメリアは静かに首を横に振る。

「いいえ、そんなことないわ。ただお腹がいっぱいだっただけよ。お菓子も紅茶も、たくさんいただいてしまったから」
「そうですか……」
「あなたの淹れてくれるお茶は美味しいわ」
「アメリア様にそうおっしゃっていただけると嬉しいです! では、オリオン様をお呼びしてまいりますね」

 リサはアメリアを慕ってくれていた。身寄りがなかった彼女をアメリアの実父が引き取り侍女見習いにしたからか、身内も友人もいない北の地へ共に来ることになったからか。思えば最初から心を開いてくれていた。

 彼女が部屋を出てすぐ、オリオンが中に入って来る。

 懐かしい地に立っているからか、いつも以上に穏やかな表情を浮かべていた。ただでさえ大きな白熊のような身体も、普段より存在感が増して見える。もしかすると彼の身体はこの地で辺境伯だった頃を思い出し、ひと回り大きく見えるほどの雰囲気を放っているのかもしれない。

 アメリアが暖炉の前のソファにいるのを見て、オリオンはテーブルを挟んだ向かい側のソファに座った。リサがお茶を淹れて退出する。ひとり分でかまわないと言ったが、彼女はふたり分のお茶を用意してくれた。ただ紅茶ではなくハーブティーのようで、アメリアの胃のことを考えてくれたのだろう。オリオンの元には軽食が置かれていた。

「オープンサンドですか?」
「うむ。ペルナリエスカにサーモンとフレッシュチーズを乗せてもらった。この城に古くからいる料理人は、未だに私の好みを覚えてくれているらしい」
「ペルナリエスカ……」
「ジャガイモの薄焼きパンだ」

 茹でて皮を剥き、なめらかになるまで潰したジャガイモに、大麦粉、卵、塩を入れて混ぜる。溶かしバターを少し加えると風味が良くなるが、オリオンは入れないほうが好みらしい。少し緩めの生地を潰して平たい丸型に成形し、オーブンで香ばしく焼いた薄いパン。それがペルナリエスカ。シンプルな味であるため、濃い味のジャガイモを使うと美味しくできるそうだ。

 バターを塗るだけでも美味しいが、上に具材を乗せて食べる人も多い。今回オリオンはサーモンとフレッシュチーズを乗せているが、ハムや卵を乗せたり、蜂蜜をかけたりする人もいるとか――。

「昼食が道すがらになっていたからのう……先ほど焼菓子を食べたが、どうも夕食まで腹が持ちそうになくてな。厨房に頼んで用意してもらったのだ」

 今日は朝から飛竜で空を駆けてきたため、昼食は途中で摂った。道中の村や町で食べても良かったが、北の誰もが知る先代辺境伯オリオン=ホワイトディアが急に現れれば、騒ぎになるのは火を見るよりも明らかだ。身を隠すにしても、彼ほど存在感のある人物がソレを成すのは困難だろう。そのため、バラリオスで用意した食事を野営の形で食べ、メルクロニアに入ったのだ。

 オリオンがペルナリエスカを口に運ぶ。彼は平たいパンを折り曲げて、サンドイッチのようにして食べていた。大きな口に吸い込まれていく光景は圧巻で、アメリアはついじっと見つめてしまう。

 それに気づいたのかオリオンは「アメリア嬢も食べるか?」と聞いてくる。アメリアは「見ているだけで大丈夫です」と小さく笑って首を横に振った。

 彼がペルナリエスカを食べ終わり、濡れたタオルで両手を拭く。綺麗に整えられたヒゲにはくずのひと欠片もついていない。アメリアはそんなオリオンを見ながら、ぬるくなりはじめたハーブティーをひと口飲む。そして彼女がカップをテーブルに置くと、オリオンが口を開いた。

「メルクロニアはどうだ? 慣れることができそうだろうか?」
「少しずつ慣れていければと思います。でも、結婚式の準備でそれどころじゃないかもしれませんが……」
「ふむ……私で力になれれば良いのだが、結婚式の支度というのは、どうしても男が排除されるものだからのう。あまり無理をさせぬよう、それとなく周りには言っておこう」
「あっ、いえ、そんな大丈夫です。ちゃんと自分で上手に時間の調整をして、無理しないようにします。絵も、お休みしますし、結婚式に集中して――」
「ん? 待ちなさい」

 珍しく、オリオンがアメリアの言葉を遮った。彼女は驚きで見開いた緑の目をまたたかせながら、正面に座る彼を見る。彼もまた真っ赤な目を丸くし、驚いた顔をしていた。

「絵を、休むと?」
「あ……はい。そのつもり、です……」
「何故だ? 確かに忙しくはなるであろうが、絵を描くのをやめなければならないほどだと言うのならば、それはそなたにとって無理をするのと同義。やはり私もできる限り、式の支度に努めよう。張り切っている城の女性陣に追いやられぬよう策を巡らすのもやぶさかでないぞ」
「いえ、オリオン様もお忙しいでしょうし……」

 オリオンが自らのことのように心配してくれている。それこそ城の女性陣――おそらく筆頭は辺境伯夫人のテリーザだ――と一戦交えそうな意気込みだ。彼はアメリアにとって絵を描くことがどれだけ大切か知っているからこそ、親身になってそう言ってくれているのだろう。

 だが、アメリアも言葉に甘えるわけにはいかなかった。久し振りの先代辺境伯の来訪にメルクロニアの人々が浮足立っているのだと、先ほどの辺境伯夫妻との対面でわかっているからだ。

「さっそく明日から、オリオン様のところへ貴族の方が挨拶にいらっしゃると聞きました。決して少なくない数の方々、ですよね?」
「まあ……そうだのう。戻って来ている理由が結婚式ということもあって、馴染みの貴族たちは気になってしかたがないらしい。これまで独り身だったジジイが今さらどうした、となあ」

 オリオンは肩をすくめる。けれどその表情からは苦々しさよりも、どこか楽しげな雰囲気が読み取れる。古い友人たちにからかわれるのもやぶさかではないと思っているのかもしれない。

「それに……ご挨拶だけでなく、オリオン様に訓練を見てもらいたい騎士や兵たちがたくさんいるとも、アークトゥルス様は話していらっしゃいました。私に時間を割いていただくより、そちらの方々を優先してください」

 アメリアがそう言うと、オリオンはヒゲを撫でた。

「そなたはそう言うが、絵を休む理由は他にあるのではないか?」
「え……どうして……?」
「貴族たちが挨拶に来る話も、城の者が訓練を見てもらいたいと願っている話も、つい今し方聞いた話だ。見たところ、今日持ってきた荷にも、前もって送っていた荷にも、絵を描く道具が入っておらぬ。つまりバラリオスを発つ以前から、メルクロニアでは絵を描かないと考えていたのではないか?」

 彼の問いにアメリアは言葉に詰まる。例え声に出していなくとも、その反応が肯定を示していることはオリオンに伝わったのだろう。彼は「互いの荷などいちいち見ぬからのう」と小さく息を吐いた。

 怒られているわけではない。咎められてもいない。だがオリオンの紅玉の瞳を見つめ返すことができず、アメリアは視線を下げた。膝の上で組んだ両手は微かに震え、自分でも正体がわからない感情の波に襲われる。

 静かな部屋で、ぎし、とソファが軋む音がした。正面に座っていたオリオンが、アメリアの隣へ移動し、腰を下ろす。彼が動くのはわかったが、顔を向けることはできない。

「アメリア嬢」

 降ってきた声は、穏やかだ。

「そなたにとって絵を描くことは、息をするのと同じことだと、私は思うておる。つまりそれは生きるために必要な行為だ。だからこそ、アメリア嬢が絵を描くのを休むと――生きるために必要な行為を放棄すると聞いて、相わかったと受け流すことはできぬ」
「っ……」

 膝で握りしめていた両手の上に、オリオンの手が触れる。そして固く結んだ両手をそっとほどき、彼はもう一度「アメリア嬢」と、穏やかな声で彼女を呼んだ。

 アメリアは張っていた肩の力を抜くように、微かな吐息を漏らし、隣にいるオリオンをおそるおそる見上げた。

「教えておくれ。何ゆえ、絵を描くのを休もうと考えた?」
「それは――」

 言おうか、言いまいか。少しの逡巡の後、彼女は言葉を続ける。

「メルクロニアは、バラリオスと違うから――」
「ふむ? 違うとは?」
「その、上手く説明できるか、わからないのですが……」
「ああ。ゆっくりでかまわんよ」

 落ち着いた声音に導かれるように、アメリアは整理しきれていない言葉をこぼしていく。

 貴族の女性に推奨される趣味といえば、刺繍や音楽、詩を編むことだ。絵を描くことは禁止されてこそいないが、趣味としてあまりいい顔をされないのが現実だった。まだ夫人が自ら商売をしているほうが受け入れられるだろう。貴族は汚れることを嫌う。汚れたものも、嫌う。絵の具で指を汚すのを是としない。

 そして、屋内で絵を描くこと以上に、屋外で絵を描くことは忌避される。日に肌が焼けるからだ。青い血管が透けて見えるほど白い肌というのが、貴族の女性である証明であり、価値とされている。労働に従事ているかのような日に焼けた肌は、高位の貴族であればあるほど、相応しくない。場合によっては侮蔑や嘲笑の対象だ。

 アメリアは、彼も知っているであろう貴族の常識を、ポツポツと話した。上手く話せていなかったかもしれない。それでもオリオンは相槌を打ちながら、けれど決して急かすことなく聞いてくれる。

「オリオン様の、妻にしていただけて……好きなだけ、絵を描ける環境を与えていただけて、とてもありがたいと思っています」

 オリオンや彼と繋いでくれた画商のラファエルのおかげで、アメリアは不自由なく絵を描き、過ごすことができていた。自分の生まれやこれまでいた環境を思えば、いつかの将来、筆を折らなければならないという不安がない現状は、いっそ奇跡だとすら感じる。

「感謝しているのです。本当に――だからこそ、恥をかかせてしまうような、ご迷惑をおかけしたくありません……」
「アメリア嬢、恥でも迷惑でもないぞ。そなたが思うまま、自由に生きることで、そなたの危惧するようなことが我が身に降りかかったりはせぬ」
「ですが、メルクロニアはホワイトディア家の本領です。わずかでも醜聞になる可能性があるなら、絵を描くことを、我慢するのも致し方ないと……」

 アメリアは眉を寄せた。彼女にとって簡単に下した決断ではない。だが不自由な息苦しさと、オリオンの醜聞になる可能性を天秤にかけた結果、メルクロニアにいる間は絵を描くのを諦めようと決めたのだ。

「さすがに、これからずっと暮らしていくバラリオスでは、絵を我慢することなんてできません……でも、メルクロニアにいる間くらいならと、そう考えたんです」

 結婚式までの一か月と少しの間だ。アメリアはきっと大丈夫だと笑ってみせるが、オリオンは笑い返してはくれなかった。アメリアを見つめてくる彼の目には、悲しげな色が浮かんでいる。その眼差しを受け、彼女の笑みはしおしおと崩れていく。

「本当に、大丈夫なんです。どうしてもダメそうだったら、屋内で、こっそりするスケッチをしたらいいですし、そうすれば――」
「アメリア嬢、私のことを気にして、己を殺す必要はない。そなたほどの画家が、新天地を前にして描かずにいられるものか。我慢を続け、自分自身を押し殺したまま迎える結婚式が幸せな日になると、思うわけではあるまいて」
「っ、それは……そう、かもしれませんが、でも――」

 幸せな花嫁になるよりも、オリオンに恥をかかせないほうが大事だと思う。

 けれどそれを口にするのは憚られた。自分のことのように結婚式の支度をしてくれている、メルクロニア城の面々――テリーザをはじめとする女性陣に対して失礼なことだとわかるからだ。以前のローズハート男爵領にいた頃のアメリアなら、他者から向けられる見返りなしの厚意などわからなかっただろう。未だに全容は把握できておらず、不安定な場所に立っているかのごとき居心地の悪さを覚えはするが、少なくとも、そういうものが存在していることは理解していた。

 言いたいのに言えない。アメリアは唇を噛み、再び俯きそうになるが――オリオンの太い指が、俯くのを制すように彼女の小さな顎を優しくすくった。

「オリオン様……?」

 顔を上げると、指はすぐに離れていく。そのまま彼を見れば、穏やかで、柔らかい表情を向けられていた。

「どうしても気が咎めるというのであれば、こうしよう。私が絵を描く」
「……え?」
「懐かしきメルクロニアの風景を絵に残したくなったが、ひとりで描くのは寂しゅうてかなわん。アメリア嬢、私に付きおうてはくれぬか?」

 オリオンが本当に絵を描きたいわけではないだろう。少しは思っているのかもしれないが、彼の言葉がかたくなになっている自分への気遣いであることは、アメリアも気づいた。

「オリオン様……本当に、よろしいのですか?」

 今ならまだ、諦めがつく。

 アメリアの問いにオリオンは笑みを浮かべる。目尻に優しい皺が寄り、彼の真っ赤な目が緩く弧を描く。

「良いに決まっておろう。私が頼んでいる側だぞ。そうだのう……明日の朝、さっそく付き合ってもらえるだろうか?」

 何度感謝してもし足りない。アメリアは「よろしくお願いいたします」と言い、それから「ありがとうございます」とお礼の言葉を伝える。

 それからふたりは少し早めの夕食会――オリオンが軽食を腹に入れるほど空腹だと料理人が辺境伯に伝えたらしい――がはじまるまで、飛竜で移動した疲れを取るかのような、ゆったりとした時間を過ごしたのだった――。





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