猫と秘密保管庫と、

柱木埠頭

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第一章

第三話 ピアノと彼女――充

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「私のこと、お嫁さんにしなよ」
「……は?」
 僕はその時、カップを拭いていた。男だって家事をやらなきゃという発言に、大人しく従ったのだ。
「お嫁さんじゃん、いまは」
「今はね! でも、ここから出たら、違うでしょ?」
「そりゃ、そうでしょ」
 この部屋から出たら、僕は彼女の夫ではなくなる。ここでだけ、藤堂充と鈴村美子みこの仲を邪魔する者はいない。当然だろう。
 僕は十五歳で、彼女は五歳。従妹である彼女は、一人っ子であるせいかとても甘やかされ、親類の集まりでは、既に子供たちの女王様としてふるまっている。
 そして、年齢的に大人の集まりの方へ行くのも悩む僕を旦那役に仕立てて、おままごとをしていたわけである。
「私のこと、お嫁さんにするといいわ。きっといい奥さんになるから」
 ね! と大人ぶった口調で言っても、子供は子供。おかっぱ頭に真っ赤なリボンがまぶしいばかりで、女性としての魅力は一筋も感じられなかった。
「はいはい。別嬪さんになったらな」
 ぽんぽんと頭を撫でる。
 まるきり子供扱いに、彼女が怒って小さなちゃぶだいをひっくり返した。

 横浜にマリンタワーが現れた年、藤堂充はついに夢をかなえて喫茶店を開いた。そしてそのころ、従妹の苗字が変わった。
 結婚ではない。離婚である。
 十九歳にしてバツイチになったのは、一応彼女のせいではないらしい。鈴村美子は相川美子になって、また鈴村美子に戻った。ということを、僕は父親伝てに聞いた。
「こんにちは! 充従兄にいさん!」
 鈴村美子が威勢よく、威勢良すぎる程の元気で喫茶店の扉を開けはなったのは、その話を聞いた一週間後の、早朝だった。長い髪の毛を高い位置で一つ結びにしている。
「本当に、会社辞めちゃったのね」
「まあな」
 所得倍増計画が打ち出され、世間がすさまじい速度で走りだしていく中、僕は付いていけない疲れを覚えていた。営業で走り回り、意味も分からず安保がどうなどと討論するのが、性に合っていなかったのだろう。
 元来、激情というものとは程遠い性格をしていた。そんな自分を理解してくれたのは、数少ない友人と、一人の先輩で。
俺の従姉がそんな人でね。と言いながら、良い本を薦めたり、話し相手になってくれたりしてくれたのだ。
ひそかに憧れと慕っていた彼は、この喫茶店を開く時もさまざまに力を尽くしてくれた。
「――まあ、そのせいで母さんとは少し、もめているけれどな」
「ああ」
 母からすれば安定した道を外れ、一人どこかへ行こうとしているのだと思われたのだろう。この年まで結婚しないことも、大きかった。孫の顔が早く見たいとせっついていた母も、会社を辞めてからは弟に期待をかけているようだった。
「でもここ、良いわね。雰囲気とか」
「先輩のつてで、安く購入できたんだ」
「え、買ったの?!」
 ぎょっとした視線に、苦笑する。かつてのやんちゃ娘が、りっぱになったものだ。
「ああ。事故物件だからな」
 その中でも飛びきりに物騒な事情により、この屋敷はとても安く――ちまちまと貯めてきたお金で、なんとかなるほどの金額で――一括購入した。
「一家心中だとさ」
 その時の美子の顔は、なるほど見物だった。
 木造の洋風屋敷は、古いけれど造りがしっかりとして、手入れさえ怠らなければ百年でも暮らしていけそうだった。場所が少し悪いのと、何よりも前の持ち主一家、そこの母が父を殺し、自分の子供を刺し、最後に首を吊ったという話のせいで、誰も購入しなかったのである。
「……よく、住めるわね」
「今のところ、幽霊的なものは見えていないよ」
「そ、そう」
 引かせてしまったらしい。
 紅茶を綺麗なティーカップに注いで渡すと、ありがとうと言って持ち上げた。その間に、僕はお気に入りの蓄音機の傍へと歩いていく。
「これ、いい曲だと思わないか」
「……上を向いて歩こう、だっけ」
「ああ」
 針を置いたレコードは、最近購入したものだ。独特の歌い回しが面白く、じんと沁み入る気がしてすきなのだ。
「涙がこぼれないように、か」
「美子」
「私、なんで離婚したのか、詳しい話聞いた?」
 手を洗っていると、美子の声が聞こえた。
 彼女は恐らくは綿の、しっかりとした洗いざらしのワイシャツを着ていて、下は黒っぽいロングスカートだった。裾あたりには赤い糸で刺しゅうが合って、年頃らしい愛らしさがそこにだけ滲んでいる。白い靴下と、緑色の靴を履いていた。ワイシャツの半そでが膨らんでいて、そこが人妻の――もう離婚しているが――しとやかさとは無縁だった。
「いや、父さんは相手が悪かったとだけ」
「藤堂さんは人が良いのね」
 少し大人びて苦く、美子はそんな表情を浮かべながらティーカップの縁をなぞった。
この話を母から聞いたのであれば、『よそのお嬢さんのことを悪く言いたくはないけれど』から始まり『そう思わない?』という相槌を求める悪口が追加されていたのに違いないだろう。見合いで父と結婚してから早三十余年。ずっと連れ添っている母からすれば新時代が過ぎる決断だった。
恐らく『充はちゃんとしたお嬢さんのことを選んでね。もし不安なら、お母さんが……』という文章が追加されるだろうことを思えば、むしろ今いさかいがあることにほっとするくらいだ。
「……ねえ、充従兄さん、私のこと、雇ってくれない?」
「え」
 カウンターに頬杖をつき、パウダーのはたかれた顔で笑う美子は、五歳にして僕にプロポォズした時を彷彿とさせていた。
「働いたことはないけれど、家事はちゃんと仕込まれているわ。コーヒー豆を挽いたことはないけれど、紅茶を淹れたことならあるし。それに、料理だって得意よ。ピアノも弾けるわ」
「この店にはピアノはな……あ、」
 ピアノ、という単語が頭の中に引っ掛かり、ケーキを切る手を止める。
「あるの?」
 せききって尋ねてくる美子を制止して、しかし言いかけた事を引っ込めるわけにはいかない。
「たしかにある。家具とか結構そのまま譲ってもらったから。……ただ」
「ただ?」
「……さっき言った、一家心中のあった部屋なんだ」
 僕の言葉を聞いた時の美子の表情は、更に殊更に見物だった。

 それで、引き取ることにしたのかい? と愉快そうに口の端を上げたのは、僕の先輩――狭山志朗さんだった。彼は僕の一つ上だった。戦後の混乱と、アメリカの中で今日明日と塗り替えられていく世間や、喧々囂々の意見を取り交わす級友についていけずにいる僕に、彼は話しかけてきたのだ。
 戦火を免れた多くの書物がある家に招かれ、明治の文豪やハイネの詩集、戦中はご禁制だったようなものを読み漁った。彼は僕に場所を提供してくれた。そう、この喫茶店を開くためにも、手を尽くしてくれた、感謝しても、し足りない人だ。
「ええ。なんでも親御さんと喧嘩したらしくて……放り出すわけにもいかないでしょう。妙齢のお嬢さんを」
「お嬢さん、か。いちおう、一度結婚したら大人とみなされるのが、世間というやつだけれど」
 コーヒーを注いだマグカップは、先輩用にと準備されたものだ。白く分厚い、絵の描いていあるもので、充がチェストを買い求めた古道具屋で見つけたものだった。
 望まない結婚は嫌なものだね。と言い置いて、僕を見て、先輩は充に言い聞かせるような口ぶりで語りかけた。
「いいじゃないか。従姉妹っていうのは、大事な存在だ」
「……ええ、まあ、狭山さんは、そうでしょう」
 サラリーマンらしく、スゥツにネクタイ、ぴかぴかの革靴は充の喫茶店には似合わない。けれど身内の前では猫の毛をつけてしまうような愛嬌を隠し持っていて、名家の生まれ、エリート育ちの彼は親しみやすい人柄をしていた。
 そんな彼には、長年恋焦がれている一人の美しい、従姉がいた。
「君にだって、そうじゃないか。懐かしいな。君、美子さんとやらにプロポォズされた時、笑い話として僕らにそれをして、巡り巡って変な風評を受けていたね」
「あ、そんなこともありましたね」
 今となっては若い頃の、よくある失敗だ。噂話とは怖いもので、『藤堂君がちゃぶ台をひっくり返すような醜女に結婚を迫られていて、家の都合で断ることが出来ない』ということにされたのだ。
 実際にはひっくり返したちゃぶ台は、一人用のちっちゃなものである。ままごとには、相応しい。
「先輩、カステラは食べますか」
「貰うよ」
 美子は今、買いだしに出している。ゆえにこの喫茶店は先輩と僕の二人きりだ。
 ポマードで固めた粋な髪形をしていて、すっと伸びた背筋をしている。先輩志朗は学生のころから変わらない背中をしていて、いつも充は手の届かない心地がしている。
「最近の甘味は変に鮮やかだ。ここのは、安全だからいい」
「見栄えはしませんが」
「いいんだよ、きみ」
 先輩の言う、きみ、という声の響きが好ましかった。
「充君」
「はい」
「家族は大切にな」
「はい」
 そう告げる先輩は、隣の席に黒い革鞄を置いていて、釦の隙間から分厚い詩集が覗いていた。充の視線に気付いて、少し得意そうにそれを取り出した。
「ハイネですか。懐かしい」
「君はよく読んでいたけれどね。僕は今まで手をつけた事が無かったんだが。従姉妹どのに勧められてね」
「はあ、さいですか」
「とてもどうでもいいという顔をしているね」
「あなたののろけ話は、いつものことでしょう」
 人が良く、自分に厳しく、期待に応える優秀な人物。そんな完璧さを備えてしまった代償というか、彼が唯一持ち合わせている欠点のような形質が、こののろけ話だった。それを微笑ましくも情けなく見守っている人間は、そう多くない。
 心許されている証だと思えば、耐えられるだろう。酒が入らなければの話だ。
「君……」
 と先輩が何かを言いかけたところで、からんからんと派手に鐘が鳴った。
「おかえ、」
 この扉は美子のものだろうと検討をつけて反応しかけて、はたと止める。
「あの、あのね、充従兄さん、そのね」
 今日は青いスカートを穿いている彼女が、頼んだ品の、卵だとか、小麦粉だとかを何一つ持たずにそこに立っていた。すべての代わりに、生き物を抱えて。
「あのね、そこのところで、この子に出会っちゃってね」
 飼っちゃダメかしら、と三毛猫を差し出して、途方に暮れていた。

 ここは曲がりなりとも食べ物屋だ家で飼えばいいでしょうここは寝起きするところと店が繋がっているんだぞそういえばどうしてこんな造りなの居間を改装して店舗にしたからだお前が今入ってきたところは元・窓だえそうなの知らなかった言ってないていうか猫は返してこいそれは嫌よいいでしょう猫の一匹や十匹ちょっと待てまさか猫一家を飼うとか無いよなまさか親猫と離れてみゃーみゃーと鳴いていたから拾って来たのよこの子に死ねって言うのこれからどんどん寒くなるのになどと言い合っているうちに、優雅にカステラを食べていた先輩が、のんびりと言った。
「いいじゃないか、きちんと掃除さえすれば」
「先輩っ……!」
「わあ、見ず知らずの方ありがとうございますー!」
 何も知らない美子にとってはただの応援だが、充にとっては鶴の一声である。
「くそっ……面倒はお前が見るんだぞ!」
 思わず声を荒げると、美子は顔を明るくした」
「つまり、私ここ置いてもらえるのね!」
「あ」
 実のところそのつもりであったのだが、それを教えるつもりはなかった。しかしなし崩しに認めることになり、深々と溜息をつく。
 先輩は、けらけらと人の悪い笑みを浮かべていた。
「猫のいる喫茶店なんて、画期的かもしれないぜ」
 そういえばこの人は、猫好きだった。
 猫の描いてあるマグカップは、彼のために買ったものである。

 この屋敷の一家心中について、先輩からは詳しい話を聞かされていた。聞いたうえで、購入した。女遊びの激しい旦那と、不具で生まれてきた子供に精神を病んだ妻。その心中を引き起こした妻は、シベリアから引き揚げてきた弟が病気で亡くなったのを知り、心が折れてしまったのだという。久しぶりに帰って夫をにこやかに出迎え、一家団欒の食事を楽しみ、料理を作ったのに使った包丁で、後ろから旦那の心臓を一突きした……そういう生々しい話まで、細部余さず知っている。
 強行の現場になったのは、夫の書斎だ。二階にあり、ピアノと本棚があるが、本の大部分は抵抗した夫がまき散らした血飛沫で駄目になってしまっている。夫を刺した後の妻は、自分で移動できない子供を連れてきて、革張りの椅子に腰かけさせ、首を切ってから胸を刺した。そうして、シャンデリアから着物を着るときに使う紐を垂らし、首を括ったのだ、と推測されている。
「それが、この部屋ってことね」
 部屋の中は既に何もかも小奇麗にされている。
 本は処分され、床板は取り換えられ、大体の家具も片づけられた。壁紙は張り替えられているし、シャンデリアはもう無い。
 ただ、ピアノだけはそのままに残っていた。奇跡的に綺麗なまま、今もこの狂乱の残滓が窺えない部屋に残されている。
「一応、手入れはしていたらしい」
「そう」
 美子はそっと近づくと、鍵盤を空気にさらした。黒と、少し君がかった黄色がずらりと並んでいる。
 椅子に腰をかけると、ごくごく自然に音を鳴らした。
 ピアノが喜んでいる。
「いい音ね。良いピアノだわ。ここの家のひとって、相当なお金持ちだったんじゃないかしら」
 そんな美子の言葉が耳に入らないくらいだ。彼女は試し弾きでさまざまに音を出しているのだろう。一つ一つの音符が、跳ねているのを感じた。
「さて」
 それは、充も知っている有名な曲だった。音楽はレコードでしか聞かないけれど、その自分すらふるえる心地にさせられる。
 ハイネの詩を元に、シューマンが作った連作歌曲、詩人の恋。それは愛する喜びから、別れ悲しみを、最後にその苦しみを歌ったものだ。この部屋には不釣り合いな、『恨みはしない』という題名の。
 一つだけ抜き出してしまうと酷く短く感じられる。元来、続けて弾くものなのだろう。彼女はこちらに振り返り、微笑んだ。
「良い状態だわ。ねえ、これ店の方に置かない? とても良いピアノなのよ。ここで埃を被っていたら、可哀そうだわ」
「……怖くないのか?」
 若々しく、清廉な、けれど夫と離婚したばかりの彼女は、心中話をあれほど恐れたくせに、からからと笑った。
「だって、この子あんまりいい子なンだもの!」
「……僕じゃ運べないから、近々業者に頼もうか」
 先輩が名付け親になって結子と名付けられた猫が、よたよたと近づいてきた。この子猫はともかくも危なっかしく、足元をうろちょろされるのが困りものだ。彼は自分が名付け親なのにと悔しがっていた。
「ええ。私、弾くわ。これでも学校では一番だったンだから」
 許可をもらった美子は嬉しそうに、また鍵盤に向かった。今度は遊ぶつもりらしく、ここのところよく針を置いている曲を奏で始めた。
 ピアノだけだと印象ががらりと変わるため、少しの間気付かなかった。
「……上を向いて歩こう、か? 楽譜はないはずだが」
「無くったって、あんなに何度も聞いていたらそりゃ、弾けるわ」
 
 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 思いだす春の日
 一人ぼっちの夜

「……一人じゃないわよ。今は、私が居るじゃない」
 思わず口ずさむと、美子はそう呟いた。幸せだって、ここにある。と
「あなたは、夢を叶えたんだから」
「まだまだ、どうなるか分からないさ」
 ふと、営業のサラリーマン時代に覚えた煙草が吸いたくなった。店を始める際にすっぱりと縁を切ったのだが、あの味は中々舌から離れない。
「大丈夫よ。応援している」

 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 泣きながら歩く
 一人ぼっちの夜
 一人ぼっちの夜

「最新の流行りだけど、寂しくて、すごく心に響くわね」
 口笛を吹いて、彼女は手を離した。
「私、泣きながら歩いたわ。あのひとに、私と結婚する前からの女が居るって知って。泣いて帰ったわ。驚く? あなたにプロポォズした時は、ちゃぶ台ひっくり返したのに」
 結子がにゃあにゃあと鳴きながら、僕のズボンの裾を引っ掻いた。
「幸せな奥さんになりたかったのよ。私。それが、ずっと、夢で」
 肩を震わせて、かつて行き違いから残酷な末路へと至った部屋の中。鈴村美子は泣きだした。俯いて、こちらからは背中しか見えないけれど。結子が慌てて僕のズボンを放し、美子の足元に駆け寄った。
「誰もが、幸せな結婚が出来るわけじゃないさ」
「でももう誰が貰ってくれるって言うの。誰が、私のことを」
 美子の声は震えていて、とても頼りない。
「受け身になるな。らしくないぞ」
「……そうね、私らしくないかも」
 十歳年下の従妹は、真っ赤な目で不器用に笑った。
 涙に濡れた頬には、パウダーが塗りたくられていない。その分、とても幼く見えた。童顔なのだなぁと今更ながら気付く。口紅も塗られていないし、ノー・スリーブの綿の上衣は、黄色い花が刺繍されていた。大人っぽい形だけれど、デザインと、何よりもその骨の丸いのが分かる肩が、彼女を幼く見せていた。
 髪の毛は一つの三つ編みになっている。
「ねえ、にいさんは、なんで結婚していないの」
 会社勤めしていたなら、なおさらそういう話は沢山あったでしょう?
 彼女の問いかけは尤もなことで、僕はぼんやりと部屋を見回しながら、思った。いいかな。彼女になら、いいのかもしれない。
「――好きなひとが、居るんだ。いや、居たんだ」
「どっち?」
「好きだけど、絶対に振り返ってはもらえないし、社会的にも無理だし、相手には好きな人がいる」
「……」
 彼女は少し考えていらしかった。僕は、死体がかつてぶら下がっていたところに立つ。シャンデリアの代わりに、何の変哲もない電球があって、少々情けない。天井もそう高いわけではないし、無理やり設置していたのかもしれない。そう考えると、むしろこの裸電球の方がふさわしいのか。
「ねえ、充従兄さん。間違っていたら怒ってくれていいんだけど、それは、それはあのひと?」
「ああ」
 ――たったひとり、専用のマグカップを用意しているひと。
 数日過ごしただけの従妹が気付くくらいに、分かりやすく示した特別に、彼が気付く事は無いだろう。
「いいんだ。あのひとは恩人で、尊敬すべき、幸せになるひとだ。一生、告げられなくて構わない」
 あのひとはいつか、遠のくだろう。
 そんな予感があった。
「言わないの?」
「壊したくない」
 今の、関係性を。
「私は、私は、壊したわ」
 きっと今の美子に「幸せか」と尋ねても首を振るだろう。それでも彼女は、己と夫のために、別れを切り出したのだろう。
 離婚そのものは、極円満だったらしい。彼女の夫だった人は、慰謝料を出し渋りもしなかったと聞いた。
 僕はただ首を振り、近づいてきた子猫を抱き上げる。
「暫くは、ここに居ていい。結子の面倒もあるしな」
「……ありがとう、充従兄さん」
 泣き顔で彼女は、子供のころのように笑った。
「お茶にするか。ケーキと、……紅茶とコーヒー、どちらがいい」
「紅茶。でも、私に淹れさせて」

 これは、喫茶店にARCANUMと名付ける前のこと。
 日本中がぐるぐると塗り替えられていく最中、ひっそりと僕たちが、再会しただけの、お話なのだ。



 引用「上を向いて歩こう」作詞永六輔、作詞中村八大、歌坂本九
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