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第一章
第一話 猫と秘密の始まり――充
しおりを挟む「これをよろしくお願いします」
喫茶店は、裏通りを右に曲がったところにある素敵なお店です。こと、雨の日になるとよく客が訪れます。ふしぎなことだが、そうなのです。雨の冷たさだとか、空気が重たくなる感じ、洗い流される壁などが、人々を喫茶店へ誘うのかもしれません。
洋風の、端正な作りの木造屋敷。とはいえ、驚く程大きいというわけではないのです。むしろ小ぢんまりしていると思えるのに、奥に長くなっているため、後からこれはたぶん屋敷と言える大きさなのだろう、とお客様は考えるのでした。
「はい。承りました」
内部は暖かで、道具類以外はだいたい木でできています。木目の綺麗な二人用の机がいくつかと、カウンターと、足の長い椅子。そう、多くは入れない。ゆったりとした間隔をとってあるからです。蓄音機が隅の方に設置されていて、店主の気まぐれによってその日一日、コーヒーの匂いとともに香る音が決まるのです。
その店主――藤堂充は、緊張した面持ちでひとつ年上の先輩から受け取ったものを見つめました。
喫茶店を開きたい、と言った時に相談した、頼りになるひとでした。その彼が差し出してきたものは、宛先も送り主も、どちらも店主ではないのです。
「ありがとう」
店主の先輩は、たいそうな家柄の子息でした。年上の従姉妹に恋焦がれ、お互いに手紙をやり取りし合っていたのですが、彼女には婚約者がいたのだといいます。そして、結婚する前日に、手紙を送ってよこしたのだと。
いままでのすべての手紙は、燃やして、灰にして、海に流してください、と。
「でも、今までの、なのだからこれはきっととっておいてもいいだろう。でも見つかってしまったら、彼女の立場が悪くなる。だから、どうかこれを預かっておいてくれ」
「……しっかりと、うけとりました」
恩人に頭を下げられては叶わない。店主は店においてある、飾りのチェストの抽斗に手をかけました。それはとても綺麗なつくりをしていて、花がいろいろに彫り込まれていました。古いもので、まったく良い値で手に入れたのですが、ひとつ不思議なこと(そしてだいたいの人が不都合だ、と感じることに)に、すべての抽斗にばらばらの鍵がかけられていたのです。
店主は青銅の鍵がたくさん下がった輪っかを、毎日ポケットに入れて持ち歩いていました。いつか、何かをしまうために。
それが、今だとわかったのです。
店主はチェストの一番端に真っ白い封筒をおさめました。がちゃんと鍵がかかる音がしたのに、先輩はほっと胸をなでおろします。
「いつかかならず、かならず取りに来るから」
「ええ。もちろん」
鈍く青銅の鍵が輝いていました。
店主は喫茶店を切り盛りしながら、幼馴染である従妹と結婚し、二人の子供に恵まれ、それから猫を一匹飼い始めました。不思議なことに、一匹が世を去ると新しい猫がやってくるので、いつしか猫の喫茶店、などとも呼ばれていました。
あのチェストはそのあとも、何度かひとの秘密を預かり、返却しました。何故か預け主は、その花彫りのチェストに安心と信頼をよせるようだったので。しかし、一番端の抽斗が引き出されることずっとありません。
その機会が巡ってきたのは、店主が孫を持ち、何匹目かの猫に昔好いていた女優の名前を付けたころ。――やはり雨の日、ざあざあとアスファルトを叩く音とともに、現れました。
「ああ、久しぶり」
「先輩」
お互いにシワも増え、走ることもままならなくなりましたが、それでも店主ははっと気づきました。いつの頃からか会えなくなって久しく、噂によれば海外に渡ったとも。その彼と、隣には――。
「はじめまして」
店主の息子とそう変わりない年齢だろう男性と、女性でした。そのうち青年は、先輩とよく似た面差しをしています。
「あの時の手紙を、返してもらいに来たんだ」
店主はすぐさま頷き、ポケットから輪を取り出すと、似通っている鍵の束から迷うことなく青銅の、輝く小さな鍵を選び出しました。差し込むとずっと使っていないだけあって難しかったのですが、三十秒と費やさずに回りました。
出てきたのはすっかりと色の褪せた、茶色い封筒。先輩は懐かしそうに眸を細め、それをそのまま、女性へと渡しました。
「君のお母さんがぼくに残した唯一の手紙だ」
彼女はこれまで何一つ知らされていなかったのか、はっと眸を丸くすると、呆然とその手紙を見つめ、ぎゅっと抱きしめました。
後日に訪れた先輩は、事の次第を店主に語りました。
いわく、自分と従姉妹は結ばれることなく、彼女は娘を一人産んでしばらくして亡くなったと。そして自分も海外でとある女と出会い、結婚し、息子が生まれたのだと。彼女の忘れ形見については知らなかったのだが、息子が再婚すると言って連れてきたのが、彼女の娘さんだったと。ふたりとも最初の結婚で恵まれず、今度こそ、と思っているらしい。
「お嫁さんは母親に関することを何も知らなかったらしい。ほかの男に宛てたラヴレターなんて気持ち悪くないかい、と言ったのだが、なんでもいいから母について知りたかった、ありがとうと返してくれたよ」
「そうですか……」
再び先輩は通い始め、中々なつかない猫に悪戦苦闘します。
当代看板猫はどうやら、相当に気むずかしいようでした。初代を彷彿とさせるその、翠のまなざし。
「なあ、ほんとうに、ありがとうな」
俺があれを持っていたら、破いたか、飲み込むか、してしまったかもしれない。苦渋の決断だが、――捨てるような気持ちで預けたのだが――君が義理堅くて良かった。
「いえ、ぼくもおかげで、生涯の仕事をふたつも見つけてしまいましたから」
ひとつは、この喫茶店。番外で、父親であること。夫であること。飼い主であること。
それからもう一つ、『秘密保管庫』の主であること。
「ですから先輩、もしまた何かを預けたくなったら、どうぞご贔屓に」
裏通りを右に曲がった、銅の看板の猫の喫茶店。
そこには秘密を預かる、チェストがある。雨の日にはぜひ、お立ち寄りを。
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