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第8章 〝幸せ〟の選択 ─さよならの決意─

116・5時間目 再び動き出した青春

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 それは、なんの前触れもなくやってきた。喜怒哀楽きどあいらくの「喜」と「楽」だけを手放したこの器に未練の風が吹く。僕の瞳は、ずぶぬれになった彼女を捉えていた。

 傘を忘れたのか、なんでここにいるのか、そんな思考よりも、僕はこの二度目の再会に驚いていた。

 心結みゆう、彼女をまた、僕の瞳は写した。

「あっ……」

 思わず、僕は心の声を漏らした。

 白いコートの先から、ぽたぽたといくつもの水滴が店内に落ちているが、そんなの気にする余裕もなかった。

 これが、小説や映画でよくいう運命のいたずらというやつなのだろうか。

 僕には分からないが、たぶん、この状況は当てはまっているのだろう。

「えっと……」

 心結は言葉を探しているのかきょろきょろと視線を泳がせていた。いったいどんな言葉がかけられるのか、その恐怖と僕はどんな言葉をかければいいのかというとまどいが、お客さんのいない店内にあった。だから、BGMが異常に大きく聞こえる。

「と、橙太。その久しぶり、ね」

 まず、かけられたのは定型文のような挨拶だった。その声は震えていて、僕は感情を読み取ることが出来なかった。

「うん、その、久しぶり……」

 低く、BGMに書き消されそうな声が返事として口からでた。彼女には聞こえているか僕ですら分からなかった。

 ひとまず、僕は心結をずぶぬれにしておくわけにもいけないと思って、奥からタオルを持ってくることにした。風邪でもひかれたら寝覚めが悪い。

 それに、シフトを全く合わせないように睡蓮すいれんがしてくれているからいいけど、もし、万が一、バイト先で会って何か言われたら居心地が悪い。

「……とりあえず、拭きなよ。床はあとで掃除しておくから……」

 いつになく、ぶっきらぼうな言い方になってしまったけど、この極限の緊張状態で話せていることだけ、進歩を感じた。

 人前で話す、一対一で話す、日常的に必須なことですら、僕は出来なくなっていたから。

 心結はありがとうとひと言いい、コートやマフラーにタオルを当てていく。その様子をちらりと見ながら、僕はモップで掃除を始めた。

 モップが床をこする音、タオルが触れてコートがこすれる音、そして先ほどよりかは小さく聞こえるBGMの音。それら以外の音はこの店内には響かない。人の肉声などどこにもなく、ただ無機質で雑音にもなりゆる音だけが、僕らの鼓膜をゆすっていた。

 あらかた、掃除を終えたので、僕はレジに戻る。その際にタオルを返してもらった。

 自分のシフトはもうすぐで終わる。それまでには、心結は帰るだろうと思いながら、ぼーっとしながら、時おりちらりと見る。その繰り返しが続いた。心結はというと、彼女はまるで僕を避けるように対角線状にある飲み物コーナーにいる。しかも、ちょうど見えないように小物コーナーを影にしてだ。

 僕が少し、この状況に不満を覚えていたとき、ちょうど17時を知らせる音が鳴った。これで僕のシフトは終了。あとは、奥で帳簿を打っている店長に「あとはよろしく」と言うだけだ。

「まって」

 ふと、飲み物コーナーにいたはずの心結の声がすごく近くに聞こえた。それもそうだ。彼女はレジ前に立っていたのだから。

「私の家まで、ついてきてほしい。話が、あるの」

 彼女の意志の強い瞳に体どころか心すら射ぬかれて、肯定をするしか出来なくなってしまう。

「……分かった。待っててほしい」

 僕はまたもや、ぶっきらぼうに返事をするしか、出来なかった。
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