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6.ひとりになりたい
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今夜こそちゃんと話をしようと、定時で帰る。
この数日、今日こそはちゃんとと思いながら、なかなか思うようには話し合えず、不甲斐ない自分に苛立ち、何か抱えているのに何も言わない妻に苛立っていた。
ずっと甘えてきたことへの罰なのかもしれない。
あのカフェから出て来た妻を見た瞬間から、どうしようもなく落ち着かない。
それはきっと、広田も同じだったのだろう。そうでなければ、追い詰められたように妻に会いに行ったりするものか。
昨夜の、電話での彼女も様子がおかしかった。
『奥さん、きっと誤解してる。私は仕事が欲しかっただけなのに! どうしてうまくいかないの!?』
昔から感情的になりやすい性格だったが、ここまでヒステリックになることはそうなかったように思う。とはいえ、もう別れてから二十年近い。お互いに年も取ったし、変わって当然だ。
俺も変わったと思う。
付き合っていた当時はもっと、熱心に彼女に向き合えた。
それはもちろん恋人だったからだが、それ以前に同期であったことも大きい。
『ねぇ! 奥さんにちゃんと話してくれた? 私とあなたはもう何の関係もないって。本当に仕事の関係しかないって、わかってくれた!?』
俺の話も聞かずに捲し立てられて、うんざりだ。
そもそも、俺は広田とは二度と会いたくなかった。
二十年近くも前の、付き合っていた当時のことはろくに憶えていなくても、別れた時のことと二度と会いたくない気持ちだけは鮮明だ。
だが、今も一緒に働く同期はそれを知らない。知っていて、知らない振りをしているのかもしれない。
とにかく、広田に仕事を紹介してやって欲しいと頼まれた。
もちろん、断った。
が、結果的に外堀を埋められる形で、引き受けることになった。
ひと月に一、二回、取引先に出向く時に彼女を同行させ、紹介するだけ。
『それに、奥さん、時計に気づいてた。絶対、疑ってる!』
俺は肩でため息をつきながら、軽い左手首を振る。
ちゃんと話そう。
だが、家に帰った俺を出迎えたのは、妻の母だった。
「お母さん、インフルエンザになっちゃったんだって!」
そう言った娘も、無言で唐揚げを食べる息子も、祖母の言葉を信じて疑ってはいないが、おれはそれが事実ではないとすぐに分かった。
もし本当にそうならば、何かしら連絡があるはずだ。
だが、俺は何の連絡も受けていない。
食事を終え、子供たちがそれぞれ部屋に上がってようやく、義母が口を開いた。
「少し、ひとりになりたいって言ってたの」
「ひとり……って、おか――柚葉はどこにいるんですか?」
「その前に、聞いておきたいことがあります」と言いながら、義母が四つ折りになった白い紙を広げ、俺の前に置いた。
「これ……」
一番上に和葉の丸い字で『お父さんとお母さんが、私のお父さんとお母さんになるまで』と書かれた紙は、妻の字がびっしりと並んでいた。
「和輝さん、女性問題があるの?」
「え?」
義母が指さす部分を読む。
『嫌いなところは?』
美人の元カノを今も名前で呼んでいる、美人の元カノとお揃いの時計を大事にしている。
「柚葉がひとりになりたいと言ったのは、このせい?」
「そうかもしれません……」
俺は昨夜、興奮して電話をかけてきた広田を、名前で呼んだ。一度だけ。
再会してから彼女を名前で呼んだのは、それ一度だ。
そのたった一度を、妻は聞いていたのか。
それを、再会してからずっとそう呼んでいると思ったのか。
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