最後の男

深冬 芽以

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20 最後の男

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「頑張ってください」



 本気で惚れた女を諦めて、俺は何がしたかった?




「何もしなくても、それなりの退職金と失業保険が貰えるわけでしょう? なら、ダメもとで何かしてみてもいいんじゃないですか?」

 出世したかった。

 結婚願望がなくて、女との軽い付き合いすら面倒になって、俺には仕事しかないと思った。

「溝口か——部長が言ったんですよ。『逃げるのは散々立ち向かった後だ』って」

 確かに、言った。

「大人しく退職の日を待つなんて、鬼課長らしくないですよ」

 確かに、そうだ。

「そんなんじゃ、何のための『恋人ごっこ』だったかわからないですよ」

 皮肉なもんだ。

 仕事に生きるために出世したくて、出世するために持ち掛けた『恋人ごっこ』に本気になって。だけど、振られちまって、その結果、出世した。

 原点に戻るだけだ。

 経緯はどうであれ、出世した。

 なら、仕事に生きるだけだ。

「すっかり……お前に調教されちまったな」

「はい?」

「あ、なんか、エロいこと想像したろ」

 目をパチパチさせる堀藤に、言った。

「してませんよ!」

 ムキになる彼女の頬に、触れた。久し振りの感触。相変わらず、温かくて、柔らかい。

「ありがとな、彩」

 別れる時は、上司と部下ではなく、男と女でいたかった。

「ありがとう」

「私、智也に『彩』って呼ばれるの、好きだったの」

 ホームに電車が入って来る。

 またも彩の髪が風になびき、今度は俺が押さえた。

 電車の扉が開く。

 数名が大きな荷物を抱えて、電車を降りた。そして、数名が大きな荷物を抱えて、乗り込む。

 彩が、持っていた紙袋を差し出した。

「お弁当。電車の中で食べて? お茶も入ってるから」

「ありがとう」

 最後の手料理。

 俺は、紙袋に手を伸ばし、彩の手に触れた。やっぱり、柔らかい。

 行きたくない。

 ふとそう思って、慌てて手を離した。

「じゃあ、行くな」

 このままじゃ、本当に行くのをやめてしまうか、彩まで一緒に連れて行ってしまいそうだ。

 異動の話が出てから、ずっと考えてた。

 一緒に来いと言ったら、来てくれるだろうか。

『立ち向かえ』なんて格好いいことを言ったけれど、心のどこかでは期待していた。

 彩が元夫の存在に耐えられなくなって、俺に助けを求めることを。

 けれど、彩は元夫から解放された。



 もう、俺は必要ない。

 

 安心して行けるはずなのに、寂しくて堪らなかった。

 どうせ最後なら、聞いてもいいだろうか。

 俺は、電車に乗り、振り返った。

「俺が一緒に来てくれって言ったら、どうしてた?」

 彩は少し驚いた顔をして、それから微笑んだ。

「バイバイ、智也」

 彩の頬を伝う、一筋の涙。

 映画のワンシーンのような、別れ。

 それが、答えだ。
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