最後の男

深冬 芽以

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8 アプローチ

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 二人の視線が交わったことに気がついたのは、俺だけだと思う。




「馬鹿野郎! 何年営業やってるんだ!!」

 二課の平野さんが、溝口課長のデスクの前に立ち、肩を竦めていた。



 だから、どうしてすぐに怒鳴るかな……。



 二課の忙しさには同情する。

 溝口課長は、口は悪いし多少強引だが、成績はトップ。だから、慢性的に忙しく、人手不足。それなのに、女性社員はよく入れ替わり、男性社員も課長の陰に隠れて積極性がない。

 課長は常に三人分の仕事量をこなしている。

 そこに来て、平野さんのミス。

「受注数の桁を間違えるなんて、新人でもやらねーだろ!」

 部内が騒めく。

 平野さんは二課の主任で、大口の得意先を任されているはずだ。

 このミスはかなり痛い。

「すみませんでした!!」と、平野さんは直角に腰を折り、大きな声で謝った。

「お前がいくら謝っても、納品日は変えられないんだよ!」

「すみません!」

「謝るだけなら子供ガキでも出来るんだよ!!」と言って、課長が持っていたファイルをデスクに叩きつけた。

 部内が緊張と静寂に包まれた。



 そういうことをすると――。



 以前、課長が怒鳴り散らした時の堀藤さんの怯えた表情が思い出された。

 ハッとして彼女を見る。

 やはり、ディスプレイで顔を隠すようにして、やり過ごそうとしている。

 コーヒーを頼んで、この場から遠ざけようと口を開いた時、声帯が震える前に彼女がゆっくりと顔を上げた。

 視線の先には、溝口課長。

 謝るしか出来ずにいる平野さんに向かって大きく口を開いた課長が、その口を閉じた。

 堀藤さんの視線に気づいたから。

「とにかく、納品可能数を工場に問い合わせろ」

 いつもならばまだまだ続く怒鳴り声が止んだことに、平野さんが少し拍子抜けしたのがわかった。

 おそらく、ここにいる全員が拍子抜けしただろう。堀藤さんを除いては。

「はい!」

 平野さんは足早にデスクに戻り、受話器を取った。課長も受話器を上げたが、すぐに置いた。

 堀藤さんがデスクの上のカップを手に、席を立つ。

 二分ほどして、課長も。

 気にならないわけがない。

 課長が給湯室に入ったのを確認して、俺も立ち上がった。

 盗み聞きするつもりはなかったが、給湯室の入り口まで行くと聞こえてきた。

「――――飯はいいや」

 課長の足音に、思わずその場を離れ、トイレに入った。



 飯……を作ってもらうような関係なのか――?



 ショックだった。

 三週間ほど前の休日出勤で二人が一緒に帰ったことで、何かあるのだろうとは思っていた。けれど、社内で二人が話しているのも見かけなかったし、俺が気にし過ぎなのだろうと思いかけていた。



 恋人……なのか――?



 彼女に、憧れのような感情を持っていたことは自覚していた。

 落ち着いた大人の女性の、優しさ、温かさに惹かれていた。

 けれど、この瞬間、それが間違いだったとわかった。



 憧れなんかじゃない……。



 俺は、彼女が好きなんだ。

 憧れなんてフワフワしたものじゃなく、彼女に好かれたい、彼女に触れたいと思う、俗物的な感情。



 溝口課長あの人に渡したくない——!



 強く、そう思った。

 けれど、五歳年下の俺が行動を起こすには慎重にならざるを得ない。

 堀藤さんへの恋愛感情を自覚しても、すぐに出来たことと言えば、来週末の送別会に参加できるかを確認するだけ。

「出来れば全員参加してもらいたいんですけど、難しいですか?」

「いえ、大丈夫です。参加します」

 彼女の返事に、心臓がスキップを始めた。
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