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5.月夜

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 気後れして動けずにいると、皇丞の腕に添えた手を解かれた。そして、彼の手が今度は私の腰に添えられる。

 促されるままに前進し、椅子の前に立たされた。

 支配人らしい男性が私の背後に立つが、皇丞が軽く手を上げて彼を下がらせ、私の椅子を引く。

 無事に着席できた自分を褒めたい。

 たったそれだけでホッとしている私とは反対に、皇丞は姿勢よく私の正面に立つと、自然な流れでスタッフに椅子を引いてもらって着席した。

「本日は当店に足を――」

 スタッフが挨拶をし、自分を支配人だと告げた。

 メニューリストを皇丞に手渡す。

「梓、ワインは?」

「え?」

「飲めるか?」

「あ、どうかな。あまり飲んだことがなくて……」

「じゃあ、シャンパンにしようか」

 私には聞き取れない、滑らかな発音でシャンパンの名前を告げる彼に、改めて育ちの違いを思い知る。

 こんな人気の高級レストランの予約を二、三日前に取れるなんて、東雲の名はそれほどの影響力があるのだろうか。

「梓?」

 ぼんやりと眺めていた皇丞の顔に焦点が合う。

「え?」

「店、気に入らないか?」

「まさかっ!」

 支配人は既に部屋を出ていた。

「急に予約できるお店じゃないでしょう? びっくりしちゃって」

「ツテがあって良かったよ」

「ツテ?」

「俺の友達の兄貴の嫁の兄貴がここのシェフなんだよ」

「……はい?」

 予想と違う答えに、首を傾げる。

 よくわからないけれど、ツテと言えるほど近しい間柄だろうか。

「まさか、東雲の名前を出せばどんな店の予約でも取れると思ったか?」

「……まさか」

「さすがにそこまで顔も広くなければ影響力もない。……がっかりしたか?」

「まさか。そんな、それこそ映画に出てくるようなセレブ、怖くて一緒にいられない」

「怖い?」

「狙われそう」

 皇丞の瞬きが停止し、五秒くらいしてようやく瞼が下りた。

 それから、白い歯を見せて笑う。

「誰にだよ」

「よくあるじゃない。俺の工場が潰れたのはお前のせいだ、みたいな逆恨み」

「よくあるかは知らないが、俺のせいで潰れた工場はないから安心しろ」

 よほど面白かったのか、まだ肩を揺らして笑っている。

 たとえのつもりが大笑いされて、私は年甲斐もなくむうっと唇を捻らせた。

「そうね。皇丞の場合はフラれた女の逆恨みで私が刺されそう」

「あり得ないが、もしそんなことがあったら体張って守ってやるよ」

「大丈夫です! 逃げ足は速いから」

「遠慮すんな」

「してないから」

 コンコンとドアがノックされ、「失礼いたします」と声がした後で、ゆっくりとドアが開く。

 支配人はワゴンを押していた。

 のっているのはクーラーに入ったシャンパン。

 皇丞にラベルを見せてから、流れるような手つきでボトルを空け、その口を私の前に置かれたグラスに向けて傾ける。

 音もなく注がれていく金色の液体は、いくつもの透明な泡が次々と浮き上がって輝いている。

「ありがとうございます」

 素直にお礼を言うと、支配人は穏やかに微笑んだ。

 四十代前半くらいだろうか。

 整った髪と隙のない所作がそう思わせるが、もしかしたら皇丞とさほど変わらないかもしれない。

 彼は皇丞のグラスにもシャンパンを注ぐと、ボトルをクーラーに戻し、「すぐにお食事をお持ちいたします」と言って出て行った。

「じゃ、とりあえず乾杯」

 皇丞がグラスを持って差し出したから、私もそれに倣う。

「梓の逃げ足の速さに」

「はい?」

「冗談だよ。初デートに、かな」

「ふふっ」

 コツンとグラスを軽く触れ合わせ、グラスに口をつける。

 冷えたシャンパンが喉を潤し、わずかに感じるアルコールの香りが鼻を抜ける。

 さっぱりしたのどごしで、ほんのり梨の味がする気がする。
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