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番外編

レオンハルト邸にて、ゴから始まる虫事件

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 これはミモザがまだ12歳のころ、レオンハルト邸に長期休みの間に宿泊していた時の話である。

 絹を引き裂くような悲鳴が聞こえた。
「うん?」
 入浴でもしようかと道具を抱えて廊下を歩いていたミモザは振り返った。その不穏な声の原因を探そうとして、すぐにその原因がこちらに駆けてくることに気づく。
「レオ……」
 名前を呼びかける前に彼は風のような速さでミモザの脇を駆け抜けて行った。
 過ぎ去った突風にミモザはきょとんと首を傾げる。
(緊急事態だろうか)
 しかしそれにしては彼の様子はおかしかった。もしも危険な事態ならばそれをミモザに警告もせずに立ち去るような真似を彼はしないだろう。
 とりあえず理由を探ろうと彼が駆けてきた方へと進むと、書斎の扉が開きっぱなしになっている。おそらくここから出てきたのだろう。
「お邪魔しまーす……」
 そろりそろりと中に足を踏み入れる。しかし中はいつもと変わりなく、たくさんの本が整然と本棚に収まっているだけだ。
「うーん?」
 一体何があったのだろう、と首をひねりながら部屋の中を見回ると、
「お?」
 本が落ちている。投げ出された様子のその本を手に取って、ふとミモザは『それ』と目が合った。
 やや茶色がかっているが立派に黒光りするツヤツヤボディに小さな体。触角がちょこちょこと動いている。
 色味と大きさからして、おそらくこれは野生の者だろう。どうやら外から遊びに来てしまったようだ。
 ミモザはそれを持っていたタオル越しにひょいと掴むと近くにあった窓から、
「ミモザ投手、第一球、投げましたー、えいっ」
 投げ捨てた。
 それが無事に地面の草むらに不時着し、かさかさと逃げていく姿を見守ってミモザは再び周囲を見回す。
 やはり特に異変はない。
(この部屋じゃなかったのか?)
 首をひねっていると書斎の扉が大きな音を立てて開いた。
「二列目の本棚付近だ!」
「承知いたしました、旦那様」
 来たのはレオンハルトとジェイドだ。ジェイドは手に箒と殺虫剤を構え、レオンハルトは何故だか扉の入り口に立ったまま部屋には入ってこない。
 真っ直ぐにミモザのいる二列目の本棚に向かってきたジェイドは、そこに立つ彼女の姿を見つけて目を丸くした。
「なんだ? お前なんでこんなところにいる?」
「ミモザ?」
 レオンハルトも今ミモザの存在に気づいたらしい。彼はやはり扉から離れないまま「そこから今すぐ離れなさい」と険しい顔で警告を発した。
「そこは今危険地帯だ」
「何があったんです?」
 やはり現場はここで間違いなかったらしい。
 レオンハルトの真剣な様子に若干びびりながら、ミモザはそっと危険地帯と言われた場所から距離を取るように彼の側へと移動した。
 ミモザの疑問にレオンハルトは鎮痛な面持ちになると、
「奴が出た」
 簡潔に告げた。その口調は重々しい。
「奴……?」
「口にするのもはばかられる例の奴だ」
「えっと……」
 よくわからないので困ってジェイドを見ると、彼は若干呆れ気味に「虫だ」と告げた。
「ゴから始まる四文字の虫が出たんだ」
「ゴキブリですか」
「その名を口にするな!」
 ミモザの口にした名前にレオンハルトから厳しい叱責が飛ぶ。
 いまだに部屋の中に入ろうとしないその姿をしばらくぼんやりとミモザは見守って、ああ、とやっと理解が追いついて納得したように一つ頷いた。
「苦手なんですね?」
「嫌いなだけだ! 苦手じゃない! 殺そうと思えば殺せる!」
「はぁ……」
「見当たりませんなぁ、もう逃げたかも知れません」
「なに!?」
 冷静なジェイドが主人とミモザの不毛なやり取りを無視して状況を告げると、レオンハルトは不快そうに眉を上げた。
「なんとかして探しだせんか」
「いやぁ、まぁ、一応探してみますが……」
「あっ、ゴキブリならさっき窓から外に投げました」
 そういえばと思い出して挙手して告げる。それに成人男性二人の視線が集中した。
 ややしてレオンハルトが真剣な口調で口を開く。
「……君はあれが平気なのか」
「え? まぁ、別に好きじゃないですけど退治くらいは」
 田舎育ちのミモザである。正直あれやらこれやらの虫は家にも学校にもひょこひょこ遊びに来ていた。
「そうか……」
 レオンハルトは静かにそう頷くと、ミモザの肩へそっと手を置いた。
「ミモザ、君に新たな仕事を与えよう」
「はい?」
 怪訝な顔をするミモザに、やはり真剣にレオンハルトは告げた。
 金色の瞳が真っ直ぐにミモザを見つめる。
「君を、奴の退治係に任命する」
「………はぁ」
 かくしてその日から、レオンハルトの身の回りの世話に追加して、ゴキブリ退治というそれなりに重要らしい仕事がミモザの担当となった。
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