ソラの盃

三毛狐

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1話

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 「兄貴ィ!」
 「大丈夫だ」

 そこは小型飛空艇乗りの選手の為の控室。
 これからレースへ出る男へ少女が子犬のように縋りついていた。

 「でも」
 「でも、じゃない」

 男は少女を振り切り、先を見る。
 これから戦う晴れ舞台を、その場に舞う歓声を。
 憧れたその世界を。

 「でも兄貴! 腕が」

 確かに男は怪我をして両腕がなかった。
 これから参加するレースはハンドルを掴みコース取りをしなければいけない。
 腕が無ければ話にならないだろう。

 「大丈夫だ」
 「でも!」

 男が安心させるように微笑む。
 その笑顔に少女は以前、男が話していた事を思い出す。
 そう、両腕がなくとも、世の中には足を使う絵描きだっている。
 腕がなければ操縦できないわけじゃない。

 「兄貴は脚もないじゃないか!」

 そう、男は事故で両脚も失っていた。
 ハンドル操作を荷う腕も、アクセルブレーキを司る脚も、男にはないのだ。

 「大丈夫だ」
 「兄貴ィ!?」

 この過酷なレースにこんな状態の男を行かせることは出来ない。
 少女は不安で押し潰されそうだった。

 「兄貴! いくら兄貴の言葉でもやっぱりあたしは心配だよ!」
 
 少女の嘆きに、男は優しく微笑み言葉を重ねる。
       
 「大丈夫だ、俺たち・・・は決して負けない」
 「何いってるンだよォ、だって」

 男が進み、姿が光の中へ消えてく。

 「だって……兄貴は……もう居ないじゃないか」

 そこには両手と両膝をついた少女ひとりが床に向けて血を吐くように存在していた。
 部屋の中に兄貴は両腕も両足も胴体も、頭部すらもなかった。

 この場に居るべき男は!
 この局面で胸を張るべき男は!
 もう存在しないのだ。

 レースの時間が迫る。

 「大丈夫だ」

 少女の声のトーンが落ちる。
 口から兄貴の口癖が、聞くもの全てを奮い立たせる為に溢れ出た。
         
 「兄貴の魂はが継ぐ」

 顔を上げた少女の瞳は獰猛な獣の輝きを湛えていた。
                   
 「このレースに出たかったのは兄貴で、あたし・・・は止めたかった」

 思考をまとめるように言葉を並べながら、幼い体躯で立ち上がる。
 本当にキツいコースを練習しこの場に立てなかった兄貴の顛末と覚悟を全て分っていた。

 「始まりも終わりも兄貴が持っていった」

 その顔も心も、もはやレースへと向いている。
     
 「だからには、始める憧憬も終わる絶望も関係ない」

 足が進む。
 その手が部屋の扉のノブに掛かる。
 
 「飛び続けるだけだ」

 少女ひとりで完結していた部屋が、外界と繋がった。

 挑戦者の背中が灼熱の渦へと曲がらず進んで行く。

 歪まずただ、前へ。
 その腕を真っすぐ上へ掲げる為に。

 end
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