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第一章:春
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しおりを挟む四月のとある月の綺麗な夜、七村秀悟(ななむら しゅうご)は銀座の街中にいた。
「花なんていらない!顔が良いしαだからって思ったけど、つまんない男!もう連絡してこないで!」
女性の甲高い声が辺りに反響し、花束が地面に叩きつけられた。その花束は先ほど秀悟が買ってきたものだった。柔らかな花は、形を変え、周囲に花びらが舞い散る。綺麗に着飾った女性は、ヒールをカツカツと鳴らして、秀悟の元から去っていった。
秀悟は去っていく女性には目もくれず、慌てて花束を拾った。せっかく綺麗に咲き誇っていたのにかわいそうだと、花束を整え、汚れを払う。咲いていた百合の花は落ちてしまったが、まだ蕾は残っている。カスミソウが健気に可愛らしく咲き誇っていた。スッと匂いを嗅ぐと、花束の香りが心を落ち着かせる。
「ごめんね」
秀悟は花束に謝って、大事そうに抱え直した。顔を上げた秀悟は、ようやく女性がいなくなったことに気づく。銀座のビル群の真っただ中で、花束を持って一人立ち尽くす秀悟を通行人は訝しげな視線を投げかけた。
「あ、僕、振られたのか……」
ワンテンポもツーテンポも遅れて、秀悟は状況を把握した。
今夜は父親が決めた見合い相手と三回目の食事だった。銀座のフレンチレストランに行く予定だったが、秀悟が仕事のクレーム対応で遅れてしまったのだ。お詫びにと花束を買ってきたが、結局今に至る。
残念と思う気持ちはあったが、あの女性と番になる未来は想像できなかった。遅かれ早かれ、こうなる運命だったのだと秀悟は淡々としていた。
ふと、甘い匂いが秀悟の鼻をくすぐった。花の匂いではなく、もっと甘くて、ぞくぞくする匂いだ。周囲を見回すが、銀座の洒落たビル群に、匂いの原因になるようなものは見当たらなかった。
秀悟は匂いを嗅ぎながら、急に喉の渇きを覚えた。さらに胸騒ぎすら感じ始め、落ち着かせるために深呼吸を繰り返す。ここまで急いで来たし、仕事の疲れが溜まっているのかもしれない。明日も仕事があるため、早く帰って休もうと、秀悟は地下鉄の駅へと足を向けた。
英椿(はなぶさ つばき)は自動車の後部座席で横たわり、苦しんでいた。
「椿くん、ごめんなさい、もう少し我慢して」
世話係の木元静夏(きもと しずか)に運転席から声をかけられたが、ほとんど耳に届いていなかった。
椿はΩであり、三ヶ月に一回の発情期が近づいていた。そのせいで、身体の熱っぽさとだるさ、そして本能が性行為を欲していた。性器も、腹の中もじくじくと熱い。もがいてもどうにもならない身体の状況に、椿は自然とため息が漏れた。
βである静夏は、椿のフェロモンを微かに感じながら、アクセルをぐっと踏み込み、帰路を急いだ。静夏の雇主である吉野原(よしのはら)家の命令により、椿への抑制剤の投与はコントロールされている。勝手に抑制剤を与えることは許されていなかった。
椿は横たわりながら車窓の向こう側に、綺麗な月が浮かんでいるのを見つけた。その輝きに吸いこまれるように上体を起こし、窓を開ける。春の夜の冷たい風が車内に入りこみ、椿の身体の火照りを冷ます。空に浮かぶ月を眺めながら、椿は発情する身体から意識を反らせた。
交差点の信号が赤になったため、車はゆっくりと停止する。椿は鼻腔をくすぐる匂いに気が付いた。
「静夏さん、花の香り、いい匂いがする」
椿は窓から顔をだし、その匂いの元を探るように、くんくんと嗅いだ。
「椿くん、顔だしたら危ないから」
赤信号を横目に、静夏は後部座席を振り返る。椿の発情が、花の香りで落ち着くことを静夏は知っていた。椿にとって一種の抑制剤代わりだ。
「何の花だろ。嗅いだことない匂い」
椿は首を傾げた。落ち着くはずの花の匂いなのに、今嗅いでいる匂いは、むしろ逆効果だった。椿の身体はかぁっと熱くなり、腹の奥がじわりと分泌液で濡れるのを感じた。頭では嫌だと思っているのに、身体はもっとと欲している。
「甘くて、優しい匂い……」
匂いを求めて、椿は這う這うの体で車のドアを開けた。幸いなことに、道路のすぐ横は歩道であったため、椿は歩道へと降りた。静夏の制止の声は聞こえていない。
ふらつく身体で、足を進める。匂いの元を探すために椿は周囲を見渡した。どうしてこんなにもこの匂いに執着するのかはわからず、椿は混乱していた。
春の夜風が、椿の足元にひらりと花弁を運んできた。数歩先を見ると、百合の花が落ちている。吸い寄せられるように、歩を進めた椿だったが、静夏に後ろから捕らえられてしまった。
「椿くん、何してるんですか」
「いい匂いがする」
静夏は辺りを嗅いでみるが、椿の言う匂いはわからなかった。それよりも、静夏はふわりと香る椿のフェロモンに、顔を顰めた。発情期前にしてはフェロモンの量が多い。もしかして発情期に入ってしまったのかもしれないと、静夏は焦っていた。抑制剤でコントロールされているため、今までに発情周期が乱れることがほとんどなかった。
「身体が冷えちゃいます。四季展が近いんですから。無理しないでください」
椿は力なく頷く。静夏は落ちている百合の花を気にしながら、椿を車へと連れ戻した。
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