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第3章 玲は冷に非ず

第9話 目が合うことが

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 台風が過ぎた翌朝、オフィスには無事全員が通常通りに出勤していた。健斗と玲の二人も概ね普段と変わらずに出社したため、二人の仲を怪しむような空気は起こらなかった。

「泉君……昨日の台風、大丈夫だったかな?」
「……在宅でしたので問題はありませんでした」
「そ、そっか……」
「話は以上ですか? なら仕事に戻ってください」
「はい……」

 ふらっと話しかけてきた山岸だったが、玲にこれまでと同じように素っ気ない態度で返されていた。全く見向きもされなかったことにショックを受けて、トボトボと自分の課に戻っていく。

「山岸さんも懲りないですねー」
「今のやりとりで一度も顔を向けなかったしなー」
「……お前らは顔を向けるなよ、仕事中なんだから」
「へいへーい」
「ほいほーい」
「社会人と思えない返事をするんじゃない」

 二人を注意しつつも、健斗もちらりと玲の方を見てしまう。すると偶然か目が合った。仕事中なためか彼女はすぐに作業に意識を戻す。健斗は目線を手元に置きつつ、昨日の玲の言葉を思い出す。

『君とだけはちゃんと目が合うの。それが嬉しくて』

 さっきの山岸もその最たる例である。話しかけには行ったものの、玲に目線を合わせようとはしていなかった。体だったり、やや顔の上や左右だったりを行き来していたのである。そんな様子では、仮に玲が顔を向けていたとしても目線が合うことは無かっただろう。

(俺だけが、泉さんと目を合わせられる相手……駄目だ、考えるだけで浮ついてしまう)

 顔に出すぎて肝心の約束が誰かにバレてしまわない様、これ以上考える事は止めておいた。そんな中、三人の話題は台風の事になった。
 
「そういえば、音無先輩の家は大丈夫だったんですか?」
「ああ、特に問題無かったぞ」
「まじかー……。はぁー、俺も音無の家に転がり込めば良かったぜー……」
「なっ、それは――」

 ピコン。

 それは絶対駄目だと大声で言いかけた刹那、チャットの通知音が鳴った。パソコンの画面には玲からのメッセージが映し出されていた。健斗は喉から出かかっていた声を止めて画面を見る。

『落ち着いて』
『彼らは私が君の家に居たことは知らないはずよ』
「あ……」

 玲のお陰で一度冷静になる事が出来た。あのまま駄目だと言ってしまっていたら、またボロを出してしまう所だった。玲に軽く頭を下げた後、聡一との会話に戻る。

「音無?」
「コホン……。お前、昨日は知り合いの家に避難していたんじゃ無かったのか?」
「そうなんだよ! それがさー? 泊まった家の中、ずっと雨漏りしてたから一晩中バケツリレーさせられてたんだよー……。お陰で寝不足になっちまってさー」
「そ、そうか……そりゃ災難だったな」

 よく見ると聡一の目元にはうっすらとクマが出来ていた。非常時に頼れる人脈があるのは美徳だが、必ずしも良いことばかりとは言えないものである。昨晩はホテルでの寝泊まりを満喫していた小里はやや嘲笑しながら口を開いた。

「なんか佐々木先輩の人生を表してるみたいですよねー」
「誰の人生がずっとバケツリレーだってぇ!?」
「ギャー! 私の軽い冗談にめっちゃキレてきたー!?」
「お前の泊ってたホテルに殴り込みかけても良かったんだぞこらぁー!?」
「ひぇー! 佐々木先輩が壊れたー!」

 普段ならここまでキレる事は無いのだが、寝不足で不機嫌だった聡一は小里の軽口をスルー出来なかった。休憩中とはいえ大声で行われた今の会話はかなり響いていたようで、他の社員たちにも聞こえていたようだった。

「……貴方達、喧嘩ならオフィスの外でやってもらえるかしら?」
「ひいぃ!! すいませんでした!!」
「二人とも綺麗な最敬礼だな……」

 他の社員に迷惑がかかると思った玲が二人を窘めた。健斗は内心でそこまでビビらなくてもと思っていたのだが、確かにオフィスで人に注意している玲は少しだけ怖いなと密かに感じた。ビビった二人はすぐさま休憩室に逃げ込んでいった。

 やれやれ、と健斗がパソコンに目を戻すとチャットに新たなメッセージがあった。

『音無君、ちょっと先走りすぎ』
『すみません、お陰で助かりました』
『約束を守ろうとしてくれてありがとう。けれどもうちょっとだけ冷静にね』
『わかりました、気を付けます』

 健斗と玲は真面目な表情で個人的なチャットをしているのだが、その事に気づく者は誰もいない。
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