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貴族の子息子女が十四才になる年より三年間通うことを義務づけられているイステル国立学院。
そこは社交界に出る前に習得しておくべき必要知識や礼儀作法を身に付ける場として設立された、由緒正しき歴史ある教育機関である。
卒業式を一ヵ月後に控えたある晴れた日の昼休み、学院の最終学年生であるユルゲン侯爵令嬢エデルガルトは、いささか不快な気分で裏庭へと向かっていた。
婚約者から急に呼び出しを受けたせいである。
話があるのなら教室ですればいいのに。
わざわざ人気のない場所へと呼び出すなど、一体何事だろう。
エデルガルトが待ち合わせ場所に到着すると、そこには既に婚約者である伯爵家長男のヴィルマーの姿があった。蜂蜜色の髪に鳶色の瞳をした彼の側には、亜麻色の髪を持つ華奢で可憐な令嬢が、なぜか寄り添うように立っている。
未婚の、しかも婚約者でもない男女の距離としては、下品と言えるほど二人の距離は近い。
それを見たエデルガルトは、学院内で囁かれている二人についての噂を思い出した。おかげで今から起こるであろうことが察せられて、悪かった機嫌が更に悪くなってしまう。
苛立たしく大きなため息をついた後、エデルガルトはヴィルマーに声をかけた。
「ヴィルマー様、呼び出されたからと来てみれば、これは一体どういうことですの? そちらのご令嬢はどなたかしら?」
銀色の髪に紫色の瞳をしたエデルガルトは、少しつり目で冷たい印象を人に与えるものの、かなりの美人である。そんなエデルガルトから凍るような視線を向けられたヴィルマーは、一瞬たじろぐような様子を見せた。
しかし、すぐに表情を引き締めると、エデルガルトを強く睨み返した。そして、言う。
「エデルガルト、君との婚約は破棄させてもらう!」
「…………」
見えない火花を散らしながら、二人は無言で睨み合った。
険悪な雰囲気の中、先に口を開いたのはエデルガルトである。
「理由をお聞かせいただいてもよろしくて?」
「俺が真実の愛を知ったからだ。ここにいるマルネス男爵令嬢ミリア、彼女と出会ったことで俺は人を愛することの本当の意味を知った。ミリアを誰よりも愛している。もう他の女性との婚姻など考えられない」
「ヴィルマー様……」
ミリアが大きな瞳をキラキラと輝かせ、嬉しそうに頬を染めた。ヴィルマーの腕に自分の腕を絡めて身を寄せる。
そんなミリアをヴィルマーも優しく見つめていたが、すぐに顔を上げて蔑むような表情をエデルガルトに向けた。
「身分が高いだけが取り柄の可愛げのない女との婚姻など御免だ! 愛らしく、いつも俺に笑顔と癒しをくれるミリアこそが我が伴侶に相応しい。ミリア、どうか俺と婚約して欲しい。そして、いずれは妻となってくれないか?」
「う……嬉しいです。わたしもヴィルマー様を心よりお慕いしています」
瞳を潤ませるミリアをヴィルマーが抱きしめる。
「愛している、ミリア。俺には君だけだ」
「わたしも愛しています。ヴィルマー様こそがわたしの運命の人……」
芝居がかった二人の白々しい様子を、エデルガルトは呆れたように見ていた。が、やがて無感動に言った。
「承知いたしました。ヴィルマー様との婚約破棄、今、この場にて承ります」
え、とヴィルマーが驚いた顔をする。
婚約破棄など認めない、絶対に受け入れられない、と、そうエデルガルトが言うと思っていたのに、あっさりと承諾されて拍子抜けしたらしい。
「ほ、本当にいいのか? 婚約破棄だぞ?! 俺と結婚できなくなるんだぞ! 嫌じゃないのか?!」
喚くヴィルマーとは対照的に、エデルガルトは澄まし顔で淡々と答える。
「別に嫌じゃありません。むしろ喜ばしく思います。あなた様との婚姻に執着する気持ちなど、一欠片もありませんから」
「なっ!!」
矜持を傷つけられたのだろう、ヴィルマーの顔が怒りで真っ赤に染まった。
「そんなワケがあるか! 君は俺のことが好きなはずだ。だからこそ、俺から愛されるこのミリアに嫉妬して、聞くに堪えない酷い虐めの数々を――――」
「虐めなどしておりませんけど?」
「嘘を吐くな! 話はすべてミリアから聞いている!」
「嘘ではございません。わたくしはそちらのご令嬢のお名前すら存じあげませんでしたもの。とはいえ噂くらいは耳にしておりますわ。婚約者のいる男性を体を使って誘惑する破廉恥な男爵令嬢がいるという噂を。その令嬢にヴィルマー様がまんまと誑かされて不貞をはたらいているという噂も、毎日のように耳に入っておりましてよ?」
「はっ?!」
「お二人の淫らで不適切な関係については、この学院では既に知らぬ者がないほど有名な話ですわ」
学院の裏庭の木陰や人気のない空き教室でなど、ヴィルマーとミリアがキスしたり抱きしめ合うなどして睦み合う姿は、これまで多くの生徒たちから目撃されている。今や学院に知らぬ者がいないほど、二人の破廉恥な関係は知れ渡っていた。
しかし、どうやらヴィルマー自身はそのことを知らなかったらしい。自分たちの醜聞を知り、顔色をさっと悪くした。
「そ、そんな……俺とミリアのことが学院中に知られて……?」
「当然でございましょう? あなた方、学院の至るところで体を寄せあっては、品なく不貞を働いていたではありませんか。そちらのご令嬢にいたっては、自分こそがヴィルマー様の真の恋人なのだと、声高々に吹聴していらっしゃったようですし」
驚いたヴィルマーが勢いよくミリアに顔を向けた。
ミリアは顔を赤らめ、恥ずかしそうにモジモジと体をよじる。
「だ、だってぇ、みんなに知って欲しかったんですもの。ヴィルマー様に本当に愛されているのはわたしなんだって。い、いけませんでしたか?」
かわいい恋人から涙目で見つめられると、ヴィルマーとしても怒るに怒れなくなってしまう。
「い、いや、いけなくはない。いけなくはないが……しかし、その、やはり醜聞はマズいというか……」
「もう醜聞じゃないから大丈夫ですよ! だって、エデルガルト様との婚約破棄が決まったんだし、次はわたしが婚約者になるんだから問題ないはずです!」
「その通りですわ」
ミリアの言葉にエデルガルトが同意する。
「わたくしたちはもう他人同士。ヴィルマー様はお好きな方と思う存分ベタベタして下さって構いませんのよ。なにも問題はありませんわ」
「そ、そうは言っても、俺たちの婚約は政略的なものだろう? 両家の当主に了承をもらわない限り、完全に破棄したことにはならないじゃないか」
「あら、なにか勘違いしていらっしゃるようですわね。わたくしたちの婚約は政略的なものではありませんわよ? ですから当主の意見は――まったくないとは言いませんが、あまり重要ではありませんわ」
「……は?」
「ええっ、政略じゃなかったんですか?!」
驚くヴィルマーとミリアの二人に、エデルガルトは大きく頷いてみせた。
そこは社交界に出る前に習得しておくべき必要知識や礼儀作法を身に付ける場として設立された、由緒正しき歴史ある教育機関である。
卒業式を一ヵ月後に控えたある晴れた日の昼休み、学院の最終学年生であるユルゲン侯爵令嬢エデルガルトは、いささか不快な気分で裏庭へと向かっていた。
婚約者から急に呼び出しを受けたせいである。
話があるのなら教室ですればいいのに。
わざわざ人気のない場所へと呼び出すなど、一体何事だろう。
エデルガルトが待ち合わせ場所に到着すると、そこには既に婚約者である伯爵家長男のヴィルマーの姿があった。蜂蜜色の髪に鳶色の瞳をした彼の側には、亜麻色の髪を持つ華奢で可憐な令嬢が、なぜか寄り添うように立っている。
未婚の、しかも婚約者でもない男女の距離としては、下品と言えるほど二人の距離は近い。
それを見たエデルガルトは、学院内で囁かれている二人についての噂を思い出した。おかげで今から起こるであろうことが察せられて、悪かった機嫌が更に悪くなってしまう。
苛立たしく大きなため息をついた後、エデルガルトはヴィルマーに声をかけた。
「ヴィルマー様、呼び出されたからと来てみれば、これは一体どういうことですの? そちらのご令嬢はどなたかしら?」
銀色の髪に紫色の瞳をしたエデルガルトは、少しつり目で冷たい印象を人に与えるものの、かなりの美人である。そんなエデルガルトから凍るような視線を向けられたヴィルマーは、一瞬たじろぐような様子を見せた。
しかし、すぐに表情を引き締めると、エデルガルトを強く睨み返した。そして、言う。
「エデルガルト、君との婚約は破棄させてもらう!」
「…………」
見えない火花を散らしながら、二人は無言で睨み合った。
険悪な雰囲気の中、先に口を開いたのはエデルガルトである。
「理由をお聞かせいただいてもよろしくて?」
「俺が真実の愛を知ったからだ。ここにいるマルネス男爵令嬢ミリア、彼女と出会ったことで俺は人を愛することの本当の意味を知った。ミリアを誰よりも愛している。もう他の女性との婚姻など考えられない」
「ヴィルマー様……」
ミリアが大きな瞳をキラキラと輝かせ、嬉しそうに頬を染めた。ヴィルマーの腕に自分の腕を絡めて身を寄せる。
そんなミリアをヴィルマーも優しく見つめていたが、すぐに顔を上げて蔑むような表情をエデルガルトに向けた。
「身分が高いだけが取り柄の可愛げのない女との婚姻など御免だ! 愛らしく、いつも俺に笑顔と癒しをくれるミリアこそが我が伴侶に相応しい。ミリア、どうか俺と婚約して欲しい。そして、いずれは妻となってくれないか?」
「う……嬉しいです。わたしもヴィルマー様を心よりお慕いしています」
瞳を潤ませるミリアをヴィルマーが抱きしめる。
「愛している、ミリア。俺には君だけだ」
「わたしも愛しています。ヴィルマー様こそがわたしの運命の人……」
芝居がかった二人の白々しい様子を、エデルガルトは呆れたように見ていた。が、やがて無感動に言った。
「承知いたしました。ヴィルマー様との婚約破棄、今、この場にて承ります」
え、とヴィルマーが驚いた顔をする。
婚約破棄など認めない、絶対に受け入れられない、と、そうエデルガルトが言うと思っていたのに、あっさりと承諾されて拍子抜けしたらしい。
「ほ、本当にいいのか? 婚約破棄だぞ?! 俺と結婚できなくなるんだぞ! 嫌じゃないのか?!」
喚くヴィルマーとは対照的に、エデルガルトは澄まし顔で淡々と答える。
「別に嫌じゃありません。むしろ喜ばしく思います。あなた様との婚姻に執着する気持ちなど、一欠片もありませんから」
「なっ!!」
矜持を傷つけられたのだろう、ヴィルマーの顔が怒りで真っ赤に染まった。
「そんなワケがあるか! 君は俺のことが好きなはずだ。だからこそ、俺から愛されるこのミリアに嫉妬して、聞くに堪えない酷い虐めの数々を――――」
「虐めなどしておりませんけど?」
「嘘を吐くな! 話はすべてミリアから聞いている!」
「嘘ではございません。わたくしはそちらのご令嬢のお名前すら存じあげませんでしたもの。とはいえ噂くらいは耳にしておりますわ。婚約者のいる男性を体を使って誘惑する破廉恥な男爵令嬢がいるという噂を。その令嬢にヴィルマー様がまんまと誑かされて不貞をはたらいているという噂も、毎日のように耳に入っておりましてよ?」
「はっ?!」
「お二人の淫らで不適切な関係については、この学院では既に知らぬ者がないほど有名な話ですわ」
学院の裏庭の木陰や人気のない空き教室でなど、ヴィルマーとミリアがキスしたり抱きしめ合うなどして睦み合う姿は、これまで多くの生徒たちから目撃されている。今や学院に知らぬ者がいないほど、二人の破廉恥な関係は知れ渡っていた。
しかし、どうやらヴィルマー自身はそのことを知らなかったらしい。自分たちの醜聞を知り、顔色をさっと悪くした。
「そ、そんな……俺とミリアのことが学院中に知られて……?」
「当然でございましょう? あなた方、学院の至るところで体を寄せあっては、品なく不貞を働いていたではありませんか。そちらのご令嬢にいたっては、自分こそがヴィルマー様の真の恋人なのだと、声高々に吹聴していらっしゃったようですし」
驚いたヴィルマーが勢いよくミリアに顔を向けた。
ミリアは顔を赤らめ、恥ずかしそうにモジモジと体をよじる。
「だ、だってぇ、みんなに知って欲しかったんですもの。ヴィルマー様に本当に愛されているのはわたしなんだって。い、いけませんでしたか?」
かわいい恋人から涙目で見つめられると、ヴィルマーとしても怒るに怒れなくなってしまう。
「い、いや、いけなくはない。いけなくはないが……しかし、その、やはり醜聞はマズいというか……」
「もう醜聞じゃないから大丈夫ですよ! だって、エデルガルト様との婚約破棄が決まったんだし、次はわたしが婚約者になるんだから問題ないはずです!」
「その通りですわ」
ミリアの言葉にエデルガルトが同意する。
「わたくしたちはもう他人同士。ヴィルマー様はお好きな方と思う存分ベタベタして下さって構いませんのよ。なにも問題はありませんわ」
「そ、そうは言っても、俺たちの婚約は政略的なものだろう? 両家の当主に了承をもらわない限り、完全に破棄したことにはならないじゃないか」
「あら、なにか勘違いしていらっしゃるようですわね。わたくしたちの婚約は政略的なものではありませんわよ? ですから当主の意見は――まったくないとは言いませんが、あまり重要ではありませんわ」
「……は?」
「ええっ、政略じゃなかったんですか?!」
驚くヴィルマーとミリアの二人に、エデルガルトは大きく頷いてみせた。
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