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1.美しい兄妹
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1.美しい兄妹
命懸けで戦う高校生。
そう言われるとどんなものを想像するだろう? だいたいこんな感じじゃやないか?
学園に現れる妖怪を次々倒す高校生。いや、それは妖怪ではなく幽霊かもしれないし、悪魔かもしれないし宇宙人かもしれない。いやいや、そもそもそんなSF的なものではなくても、頭のおかしい殺人鬼との戦い、不良高校生同士のケンカ、あるいは悪の組織との死闘もかもしれない。
だがしかし、俺の置かれた命懸けで戦うっていう状況は、そんなモノではなかった。
もっとこう単純明快だった。だって、俺が命をかけて戦うのは、本当に普通の一般生徒だったのだから。
「久世守君」
呼ばれて俺は振り向いた。
それは放課後の昇降口前の廊下での事だった。目の前に立つ男。それはこの学校で知らない人間は居ないんじゃないかって言う有名人だった。
「はじめまして、自己紹介が必要かな?」
「い、いや」
いいですと言う前に男は言った。
「俺は2年の菱形リキ。君に話があってきたんだ」
俺はその人を知っていた。だってその男は有名人だった。いや、正確に言えば彼ではなくその妹の方かもしれないが。
彼、菱形リキは整った顔の男だ。けれどその美貌というのは、爽やかな笑顔が似合うはにかみやの近所の少年とか、憂いを帯びた少女漫画的な繊細な少年とか、そういう美形ではない。彼の美貌はどこか陰のあるモノだ。もっと言ってしまうと胡散臭い。その言葉が一番しっくりくるような人物だ。よく笑うようだが、その笑みは裏がありそうな、なんか企んでいそうな、いかにも参謀タイプって感じの笑みだ。正義の味方というより悪の幹部。
そんな風貌の男が俺に話があると言う。正直帰りたいと思った。だってなんか嫌な予感がするじゃないか?
「あ、あの俺ちょっと急ぐんですけど……」
言い訳を考えながら口を開くと、菱形リキは腕を組んで首を傾げる。
「バイトでもあるのか? でも、たまにはバイトをサボる位良いと思うよ。そんな真面目に毎日バイトに出るなんて、イマドキちょっと気持ち悪いよ。たまにはサボって無断欠勤でもしないと、最近のまともな高校生じゃないよね。あんまり真面目すぎるとロクな大人になれないよ」
「えっと、バイトサボる高校生こそまともなじゃないし、ロクな人間にならないと思うんですけど?」
俺の言葉にリキは笑う。
「あはは、言ってみただけだよ。本当に真面目だな君は。それで話を戻すけど時間ないの?」
「えっと、これから家に帰って再放送のアニメでも見ようかなって……」
言っている最中に制服の腕を捕まれた。
「暇なんじゃないか」
俺の事を引きずる。
「あ、あの、ちょ……」
抗議しようとする俺に、菱形リキはサラリと言う。
「逆らう事は許さないよ。この俺が世界のルールだ」
廊下の奥に連れ込まれた。この先は行き止まりの壁で逃げ道はない。その壁を背にして、俺は菱形リキと対峙している。
リキは黒い髪をサラリとかき上げて言う。
「君は俺の妹の事を知っているかな?」
聞かれた言葉に頷く。知らないワケがない。どんなグラビアアイドルも女優もビックリって感じの美少女だ。正直彼女を見て綺麗だと思わない人間はいないんじゃないかって位の。いや、実際人の好みはそれぞれだから100パーなんてないんだけど、そう思わせる位の美人なんだこれが。
名前は菱形七瀬。髪は肩より少し長い位の茶色でふわふわ。色白で大きな目。美しい二重。見る時によってかわいくも綺麗にも見える。性格は大人しく寡黙。それがまた男子生徒だけではなく、女子生徒の庇護欲まで誘うわけだ。彼女の美しさを語ったら、作文が不得意な俺でも原稿用紙20枚は軽く超えるね。その肌の美しさ、その睫の長さといったらメーテルも真っ青な感じだ。俺が鉄郎なら出会った時点で旅は終ってるね。初回で結婚式で最終回だ。
「マモル君、キミ俺の質問聞いてる?」
「あ」
うっかり妄想の世界に入っていた。
「すみません、聞いてます聞いてますよ。菱形七瀬さんですよね?はい、もちろん」
俺もファンの一人です、なんて気軽に言いかけて慌てて口を閉じた。
この菱形リキはものすごいシスコンで知られているからだ。七瀬嬢程の美女が普通に学校生活を送っているのは、この悪の幹部、もとい、怖そうな兄貴がいるからだろう。この人、この外見に似合わずケンカはめっぽう強いって噂だ。いや、その噂より何よりもっと怖い話が伝わっている。
この美形シスコン兄貴だが、見た目通り腹黒く、妹に近付く人間は表に出ない方法で日々抹殺しているというのだ。あらゆる格闘技に精通して運動神経抜群な一方、頭もめちゃくちゃ切れるらしい。法律的な事にも詳しいので正当な方法でやられてしまう事もあるし、道端の名も知らぬ花から毒草を探し出してくる才能にも長けているらしく、誰か毒を食わされて再起不能になったとかならなかったとかいう話も聞く。本当にもう、彼のシスコンぶりは都市伝説のような勢いだった。
そんな彼に俺もファンです、なんてサラって言ったりたら、軽く指三本位詰められてしまいそうだ。とにかく俺は笑って、当たり障りない言葉で誤魔化す。
「いや、もう七瀬さんの美しさと言ったら、天使か天女かミロのビーナスかロダンって感じですよね」
「最後のロダンは何だ? 明らかに男だよな? 彫刻家だよな?」
「お、おや?」
しまった。
「えっとそれで俺にどんな御用でしょうか?」
ものすごく下手に聞いてみた。
俺は彼が何で七瀬嬢の話題を持ち出したのか、想像もできないままじっと見つめた。
リキは俺の視線を余裕で受け止め、片手で黒い髪をかきあげる。
「君を七瀬の騎士に指名しようと思うんだ」
「キシ? キシって……」
「ああ、そう、ナイトだよナイト」
「その騎士ですか?」
「他に何がある?」
「い、いや、そうですが、でも騎士に指名しようって、あの、それって?」
困惑する俺を見ながら、リキは腕を組む。
「七瀬は美人だからな。それはもう、とんでもなくモテる。そんな七瀬にちょっかいを出す人間は日々尽きる事はない。俺は七瀬に煩わしい思いをさせたくないんだよ。一方的に好かれて言い寄られるのも不憫だ。モテすぎる辛さはこの俺がよく分かっている」
今、さりげなく自慢した?
「告白されて、それを断る。実はこれはパワーやエネルギーが必要な事だ」
それは確かにそうだろう。相手だって必死に自分の思いを伝えようと頑張るのだから、軽く振っておしまい、なんて普通は出来ないだろう。しかも心根がやさしければやさしいほど自分がダメージを食らう。
「だから七瀬には、そんな面倒はなるべく負わせたくない。そこでだ」
リキは俺を見てニヤリと笑った。
「君に七瀬を守る騎士になってもらおうと思う」
「そこに戻りますか……。でも何だって俺に頼むんですか?」
「いや、頼んでなんかいないよ。これは命令だよ」
「は!?」
流石に驚いた。そりゃあもう、全力で驚いた。
「ちょっと待って下さい! なんで俺にそんな命令するんですか? あなたは何者だって言うんですか!?」
リキは腕を組んだまま悠然と言う。
「俺は俺だ。菱形リキ様だ。まあ君には俺の事を特別に神様って呼ぶ許可を与えても良いけど?」
「言いませんし!」
つーかこの人何? 超自己中で自信家なんですけど!?
「だいたい、俺はなんでいきなりそんな事言われなきゃいけないんです? 俺は今まで貴方達と何の接点もなかったと思うんですけど!?」
「ああ、何で自分が騎士に選ばれたか知りたいのか、じゃあ教えてあげよう」
ドキリと緊張した。
理不尽な事をいろいろ言われたが、もしかして俺が彼の信頼に足る何かをしていて、それで是非にと思われているのなら、それは嬉しいというか、納得もできるなって思ったからだ。
リキは言う。
「君、先月の持久走で運動部でもないのにトップを走ってただろう?」
「は?」
言われた事が分からない。いや、分かるけどそれがこの展開にどう繋がる?
「俺はキミのその根性を買う気になったんだよ。騎士に必要なモノは何か? それは持久力。ネバーギブアップだ」
「よく意味が分かりません」
だいたいネバーギブアップって久々に聞いたよ。そこはかとなく80年代の香りがするんだけど?
「とにかく俺は君を騎士に決めた。だからマモル君、君が今日から七瀬の騎士だ」
言い切ったリキに俺は言葉が出なかった。でもそれは肯定ではない。あきれ返って言葉が出なかっただけだ。だから俺は菱形リキを無視して立ち去る事にする。
「どこに行く?」
横を通り抜けようとしたら、リキに腕を捕まれた。
「そのお話、お断りします」
「話を断るなんて出来ないよ。命令だって言っただろ」
至近距離で俺達は見つめあう。ふざけた事ばかり言っているのに、リキの顔は真剣だ。
でも俺だって、そんなよく知らない人の命令なんか聞けない。だいたい騎士って何するのかも分からないし、関わらないにこした事はない。
俺の考えを見透かしたように、リキはニヤリと笑った。俺はその笑みに眉を顰める。
「じゃあ、こうしよう。君と俺で今からバトルをする。そのバトルに君が勝ったら君は自由だ。だけど君が負けたら、君は七瀬の騎士になる。これでどうだい?」
俺は笑みを浮かべたままのリキの顔を見ながら考える。
「……それって、別に俺にとって何の得もないんだけど。そもそもバトルしないで帰れば良いだけの事だもん」
リキは掴んでいた腕を離して、フっと笑いながら髪をかきあげた。
「そうか、勝ったら褒美が欲しいか、なら与えてやろう」
えっと、どうしてこうさっきから上から目線の発言なんだ? 確かにこの人は上級生ではあるが、でも俺の事を完全下僕扱いな感じだし、まるで自分は王子様だとでも思ってるみたいな発言じゃないか? 俺はそんな上から目線の人間の取引になんか応じないからな。
「君が勝ったら、七瀬のセクシーショットの画像を与えよう」
気がついたら俺は勝負を受けていた。
いや、だってあの七瀬嬢のセクシーショットだよ?そ れはもうゴッホの絵とか、円山応挙の雪松図屏風位の価値はある。もう国宝級だ。そんな物を拝められると分かっていて勝負をしないなんて、もう男じゃないね本当。
「あの、所でバトルって何やるんでしょう?」
俺はバトルを受けたは良いが、内容をまったく聞いていない事に気付いた。いや、まさかケンカとか殴り合いとかは流石に今の時代にないだろう。そんなのは昭和の戦いだ。でもだからと言って勉強で勝負だとか、そんなのも困っちゃうんだけどさ。
「えっとどっちがペンキを早く塗れるかとか、みかん狩りに行って多くみかんをとれた方が勝ちとか、そんな勝負が良いんですけど」
「あはは、面白い事を言うね。バトルって行ったら戦闘に決まっているじゃないか」
「え?」
リキの視線が鋭いものに変わる。まさか、本当に戦闘? ケンカ?
動揺する俺にリキはニヤリと笑った。
「ああ、怯えちゃったかな?冗談だよ。君と俺が戦闘バトルしたら俺が勝つのは当たり前だからね。だからこんなバトルはどうだろう?」
言うとリキはいきなり空中から赤い薔薇を一輪取り出した。
「どっから出てきたその薔薇? 何も持ってなかったよな?」
「ああ、これは学校の温室の薔薇をとってきたんだ」
「俺が聞いたのはそれじゃない! つーか薔薇泥棒じゃないか! 園芸部が知ったら怒るぞ!」
「まあまあ、細かい事は気にしない。この薔薇もこの俺様に手折られたのであれば本望だろう」
この人かなりヤバイ感じだ。関わってしまって大丈夫だろうか?
真剣にそう思っていると、リキはいきなり俺にむかってその薔薇を投げた。
「おわ!?」
反射的にそれを受け取った。リキは不適に笑う。
そしてまたも空中から薔薇を取り出した。今度は紫だ。
「つーか、またいきなり現れたんだけど、どこの手品師なんだ?!」
「細かい事は気にするな。さてバトルの説明をしよう」
リキは優雅に薔薇を持ちながら説明を始める。なんだかえらい美形が黒い制服に身を包み、薔薇なんか持っていると、ここが校舎ではなく中世ヨーロッパの宮殿とかに見えてしまう。いや、ゴシックバリバリのドラキュラ城か?
「実は今、この学校の校舎のどこかに七瀬が居るんだ」
「え?」
名前を聞いただけで七瀬嬢の美しい姿が脳裏に浮んだ。
「その七瀬を見つけ出し、先に七瀬の髪にこの薔薇を挿した方が勝者となる」
「薔薇を挿す? 本当にそれだけで良いのか?」
リキは悠然と構えて微笑む。
「ああ、そうだよ。じゃあ、きっかり4時にスタートしようか?」
俺は校舎の壁にかかった時計を見た。4時ちょい前だ。
俺達はそれから暫く時計とニラメッコをしていた。バトル自体は簡単で、危険な事も何もなくて良かった。こんな勝負ならなんとかなる気がする。でもなんだか心臓はドキドキしてきた。いや、だって日常生活においてバトルって普通ないじゃん? だからその緊張感で心臓がドキドキする。
ハっとした。時計が4時になっている。気付くとすでにリキは走り出している。なんとなく俺も走り出す。
ってどこに向かって走ったら良いんだ? どこかに七瀬嬢が居るって、一体どこだ?
普通に考えて、彼女のクラスがある1年7組に向かう事にした。
階段を駆け上がりながら思う。やっぱ走らないとダメだろうか? 息が切れて苦しいから歩きたい。でもやっぱダメだよな、これは競争なんだから。のろのろ歩いて負けたんじゃ嫌だから、ここは必死に走るしかないだろう。俺は2階の端にある教室を目指した。
ガラリと教室のドアを開けた。けれどそこに七瀬嬢の姿はなかった。教室はガランとして誰もいない。俺は息をつきながら考えた。
そんな上手くはいかないか。でもじゃあ彼女はどこに居る? 当てずっぽうで回るか?
目的もないまま廊下にでた。
「さて……」
いきなり廊下左右のどちらに向かったら良いか悩んだ。
「どっちでも同じか?」
呟いて左に進んだ。するとすぐに階段に出てしまう。
「階段か……上るか下がるか……」
俺は上に上がる事にした。実はうちの学校は新設高校なので二学年しか生徒がいない。そんなワケで使用されている教室も一階と二階のみで三階には生徒がいないのである。
だからこんなバトルっていうか、ゲームをするには、確実に誰もいない三階が良いんじゃないかと思ったわけだ。
俺は階段を上がって三階に辿り着く。
そこは今まで立ち入ったことのない、人外魔境だった。それはそうアマゾンの秘境。生い茂る熱帯植物に、濁って茶色いアマゾン川。いつ上から巨大ヘビが襲ってくるか分からない、人類未踏の地。
「なんて妄想してる場合じゃないよな」
呟きながら一つ目の教室を覗いた。中には机の山があった。整然と並んでいるのではない。隅っこに寄せて置いてある。
ま、そうだろうな。来年新入生が入るまでこれらの教室は使われないんだ。だったら掃除も簡単になるように、机は隅に置いておくに限る。俺はその教室を後にし、次の教室に向かった。
廊下に出て正面を向いた時、俺の動きは止まった。
「え?」
目の前の廊下に一人の人間が立っている。ドクドクと心臓が鳴り出す。
肩下までの茶色の髪。標準丈のスカートから覗く細い足。特に魅力的なキュっとしまった足首。黒いハイソックス。変形デザインの黒い制服。そして恐ろしい程の美貌の顔。その少女、菱形七瀬嬢はじっと俺を見ている。
ヘビに睨まれたカエルじゃないが、一歩も動けないし声もでなかった。
人間、あまりに美しい人を目の前にすると、言葉も出ないモノだと初めて知った。美しさというのは恐怖なんだと、それこそ初めて実感した。あまりの美しさに圧倒され、そして何一つ言われてもないのに、勝手に自分を卑下したくなる。
ああ、こんな普通の顔でごめんなさい。貴方のような高貴な方に見られるだけで恐れ多い事でございます。どうかそんな綺麗な目で俺なんかを見ないで下さい。友達になりたいとか、そんな大それた事は思っていません。
なんと言うか、口をきくだけでも恐れ多い。お金払わせて頂きますって感じだ。
俺の動揺と緊張を彼女はどう思っているんだろう? 目の前に現れて身動き一つしない、何もしゃべらない男。もしかしてストーカーと思われていないだろうか?
「あ、あの……」
うわ、俺、何しゃべろうと頑張っちゃってるんだ? いや、確かに何か言わないと、いきなりストーカーとか痴漢として突き出されてしまいそうだけど。
「あ、あのですね、えっと菱形七瀬さん……ですよね?」
彼女は静かな瞳でじっと俺を見ている。その目はまるでガラスのようだ。カケラも動かないしズレない。まるで人形みたいに。
「……?」
彼女の目がピクリと反応した。いや、なんでかって俺が薔薇の花を翳して見せたからだ。だってそうでもしないと、彼女が自動人形とかフィギュアとかと区別がつかなくなってしまう。
「あのですね、お兄さんからお聞きかもしれませんが……」
七瀬嬢は首を傾げてきょとんと俺を見つめる。
(なんだよ、リキさん説明してないのかよ!? それでどうやって俺がこの薔薇持って彼女に近付いたら良いんだよ!?)
頭を抱えたくなった。でも七瀬嬢は逃げ出すような様子はない。これはなんとかなるか?
虎とかライオンを前にした人間のように、及び腰で彼女に近付く。別に襲われそうってわけじゃないんだ。彼女を怖がらせないようにと、そういう気遣い的な動きであって……。
彼女が怪訝そうに眉を顰めた。なんか変質者を見るような目でみられてしまった。仕方ない、一回姿勢を正そう。
「あのですね、俺、いや僕は今、貴方のお兄さんの菱形リキさんとバト……じゃなくてゲームをしてるんですよ。それでですね」
赤い薔薇を振って見せる。
「この薔薇を貴方の髪に挿させて頂きたいんですよ」
俺の説明を彼女は黙って聞いていてくれた。これはもしやいけるのでは?
俺は危険人物じゃありませんよ、というアピールの為に、両手を広げて彼女に近付く。
七瀬嬢は近寄っても逃げない。ただ人形のように動かないで俺を見ている。
ドキドキしていた。彼女に近付けば近付くほど緊張する。この綺麗な瞳に俺が映っている。そう思うと良くない想像ばかりしてしまう。近付くと俺のニキビ痕とか毛穴とか見えちゃうんじゃないか?
(つーか女子の発想だ、これ!)
余計な心配に勝手に心を痛めてしまった。なんかこれじゃ俺と七瀬嬢でバトルしてるみたいじゃないか?
もしそうだとしたら俺は彼女の無言の威圧攻撃でボロボロだ。すでに満身創痍。戦う気力が湧かない。俺はブサイクなブタ野郎ですと土下座でもしたい気分だ。
七瀬嬢はただじっと俺の事を見ている。俺は彼女に少しづつ近寄る。でも彼女は逃げる気配がない。これはこのままイケるんじゃないか?
手にした薔薇に力を込める。
俺と七瀬嬢は触れそうな程の距離にまで近付いた。その段階になっても七瀬嬢はピクリとも動かない。さっきから何かがうるさい、真横でドラムを叩いているのは誰だ? と思っていたら俺の心臓の音だった。
誰も居ない放課後の廊下。そこに立つ美貌の少女。清楚な顔なのにどこか妖しげな色香が漂う人。
七瀬嬢の黒目に引き込まれるような錯覚に陥る。なんだか呑み込まれてしまいそうだ。だって俺は彼女の髪に薔薇を挿すために近付いているのに、伸ばしたこの手は何だろう? 俺の左手が勝手に彼女の頬に触れようとしている。そして必要以上に近付く俺の顔。いやいやおかしいだろ? 薔薇の花を挿すのにこんなに顔を寄せる必要はないハズだ。なのに俺の動きは止まらない。なんだかこのまま唇がついてしまいそうだ。いや、彼女のこの無抵抗な様子からして、もしかして七瀬嬢もそれを期待してるんじゃないか?
いやいや、いやいやいや、俺は何を考えているんだ。そんなハズあるわけないじゃないか?
七瀬嬢がキスを待っているなんて……。
彼女の唇に吸い寄せられる。そう思った時だった。
「はい、俺の勝ちね」
聞こえた声に、俺を包んでいた異次元空間が消失した。
「え、え?」
俺は目が覚めたように辺りを見回した。すると七瀬嬢のふわふわの髪に紫の薔薇が挿さっている。そしてその横には黒い制服を悪魔的に美しく着こなした男が立っていた。
「リキさん、いつからそこに!?」
「いや、結構前から」
「そ、それってつまり……」
「君が七瀬に不埒な事をしようかしまいか、軽々3時間くらい考えているのをずっと眺めさせてもらったよ」
「さ、3時間はないだろう!」
俺はそんなに異次元を彷徨っていたのか!?
「ま、どちらにしろ君は俺に負けたんだよ」
返す言葉がなかった。確かにそうだ。俺は完全に負けてしまったんだ。先に彼女を見つけたにも関わらず、見惚れて危ない事を考えている間に先を越された。
「七瀬、紹介しよう」
リキは七瀬嬢に向かって微笑んで言う。
「彼がこれからお前の事を守る下僕だ」
「下僕扱いですか!?」
つい突っ込んでしまった。するとリキは黒い髪をサラリとかきあげる。
「ああ、ごめんごめん、つい下僕顔だったから」
「俺はどんな顔ですか!?」
「まぁ、気にするな。それより七瀬、彼が今日からお前の騎士になる久世マモル君だよ」
「彼が……」
七瀬嬢が呟いた。そして兄のリキから俺へと視線を移す。
黒い瞳に見つめられ、またもドキリとしてしまった。
「あの、貴方が私の騎士になってくれるの?」
俺は緊張しながら答える。
「ああ、そうだよ。俺が君を守る」
「守る……?」
「あ、ダジャレじゃなくて……」
俺の名前がマモルで、だから君を守るってコトじゃなく、そう説明しようとしたら、彼女が笑った。それはそう、ふわりと。
この瞬間の俺の気持ちをどう表現したら良いだろう? とても言葉でなんか言い表せない。
これが恋に落ちる瞬間というヤツだろうか?
だってこの不思議な気持ちを、俺は今、初めて味わっているんだ。
七瀬嬢は祈るように胸の前で手を組むとペコリと頭を下げて言った。
「はじめまして久世君。菱形七瀬です。よろしくお願いします」
それは俺の運命が劇的に変わった瞬間だった。
俺は彼女のためなら、命懸けのバトルをしても良いと、本気で思ってしまったのだった。
命懸けで戦う高校生。
そう言われるとどんなものを想像するだろう? だいたいこんな感じじゃやないか?
学園に現れる妖怪を次々倒す高校生。いや、それは妖怪ではなく幽霊かもしれないし、悪魔かもしれないし宇宙人かもしれない。いやいや、そもそもそんなSF的なものではなくても、頭のおかしい殺人鬼との戦い、不良高校生同士のケンカ、あるいは悪の組織との死闘もかもしれない。
だがしかし、俺の置かれた命懸けで戦うっていう状況は、そんなモノではなかった。
もっとこう単純明快だった。だって、俺が命をかけて戦うのは、本当に普通の一般生徒だったのだから。
「久世守君」
呼ばれて俺は振り向いた。
それは放課後の昇降口前の廊下での事だった。目の前に立つ男。それはこの学校で知らない人間は居ないんじゃないかって言う有名人だった。
「はじめまして、自己紹介が必要かな?」
「い、いや」
いいですと言う前に男は言った。
「俺は2年の菱形リキ。君に話があってきたんだ」
俺はその人を知っていた。だってその男は有名人だった。いや、正確に言えば彼ではなくその妹の方かもしれないが。
彼、菱形リキは整った顔の男だ。けれどその美貌というのは、爽やかな笑顔が似合うはにかみやの近所の少年とか、憂いを帯びた少女漫画的な繊細な少年とか、そういう美形ではない。彼の美貌はどこか陰のあるモノだ。もっと言ってしまうと胡散臭い。その言葉が一番しっくりくるような人物だ。よく笑うようだが、その笑みは裏がありそうな、なんか企んでいそうな、いかにも参謀タイプって感じの笑みだ。正義の味方というより悪の幹部。
そんな風貌の男が俺に話があると言う。正直帰りたいと思った。だってなんか嫌な予感がするじゃないか?
「あ、あの俺ちょっと急ぐんですけど……」
言い訳を考えながら口を開くと、菱形リキは腕を組んで首を傾げる。
「バイトでもあるのか? でも、たまにはバイトをサボる位良いと思うよ。そんな真面目に毎日バイトに出るなんて、イマドキちょっと気持ち悪いよ。たまにはサボって無断欠勤でもしないと、最近のまともな高校生じゃないよね。あんまり真面目すぎるとロクな大人になれないよ」
「えっと、バイトサボる高校生こそまともなじゃないし、ロクな人間にならないと思うんですけど?」
俺の言葉にリキは笑う。
「あはは、言ってみただけだよ。本当に真面目だな君は。それで話を戻すけど時間ないの?」
「えっと、これから家に帰って再放送のアニメでも見ようかなって……」
言っている最中に制服の腕を捕まれた。
「暇なんじゃないか」
俺の事を引きずる。
「あ、あの、ちょ……」
抗議しようとする俺に、菱形リキはサラリと言う。
「逆らう事は許さないよ。この俺が世界のルールだ」
廊下の奥に連れ込まれた。この先は行き止まりの壁で逃げ道はない。その壁を背にして、俺は菱形リキと対峙している。
リキは黒い髪をサラリとかき上げて言う。
「君は俺の妹の事を知っているかな?」
聞かれた言葉に頷く。知らないワケがない。どんなグラビアアイドルも女優もビックリって感じの美少女だ。正直彼女を見て綺麗だと思わない人間はいないんじゃないかって位の。いや、実際人の好みはそれぞれだから100パーなんてないんだけど、そう思わせる位の美人なんだこれが。
名前は菱形七瀬。髪は肩より少し長い位の茶色でふわふわ。色白で大きな目。美しい二重。見る時によってかわいくも綺麗にも見える。性格は大人しく寡黙。それがまた男子生徒だけではなく、女子生徒の庇護欲まで誘うわけだ。彼女の美しさを語ったら、作文が不得意な俺でも原稿用紙20枚は軽く超えるね。その肌の美しさ、その睫の長さといったらメーテルも真っ青な感じだ。俺が鉄郎なら出会った時点で旅は終ってるね。初回で結婚式で最終回だ。
「マモル君、キミ俺の質問聞いてる?」
「あ」
うっかり妄想の世界に入っていた。
「すみません、聞いてます聞いてますよ。菱形七瀬さんですよね?はい、もちろん」
俺もファンの一人です、なんて気軽に言いかけて慌てて口を閉じた。
この菱形リキはものすごいシスコンで知られているからだ。七瀬嬢程の美女が普通に学校生活を送っているのは、この悪の幹部、もとい、怖そうな兄貴がいるからだろう。この人、この外見に似合わずケンカはめっぽう強いって噂だ。いや、その噂より何よりもっと怖い話が伝わっている。
この美形シスコン兄貴だが、見た目通り腹黒く、妹に近付く人間は表に出ない方法で日々抹殺しているというのだ。あらゆる格闘技に精通して運動神経抜群な一方、頭もめちゃくちゃ切れるらしい。法律的な事にも詳しいので正当な方法でやられてしまう事もあるし、道端の名も知らぬ花から毒草を探し出してくる才能にも長けているらしく、誰か毒を食わされて再起不能になったとかならなかったとかいう話も聞く。本当にもう、彼のシスコンぶりは都市伝説のような勢いだった。
そんな彼に俺もファンです、なんてサラって言ったりたら、軽く指三本位詰められてしまいそうだ。とにかく俺は笑って、当たり障りない言葉で誤魔化す。
「いや、もう七瀬さんの美しさと言ったら、天使か天女かミロのビーナスかロダンって感じですよね」
「最後のロダンは何だ? 明らかに男だよな? 彫刻家だよな?」
「お、おや?」
しまった。
「えっとそれで俺にどんな御用でしょうか?」
ものすごく下手に聞いてみた。
俺は彼が何で七瀬嬢の話題を持ち出したのか、想像もできないままじっと見つめた。
リキは俺の視線を余裕で受け止め、片手で黒い髪をかきあげる。
「君を七瀬の騎士に指名しようと思うんだ」
「キシ? キシって……」
「ああ、そう、ナイトだよナイト」
「その騎士ですか?」
「他に何がある?」
「い、いや、そうですが、でも騎士に指名しようって、あの、それって?」
困惑する俺を見ながら、リキは腕を組む。
「七瀬は美人だからな。それはもう、とんでもなくモテる。そんな七瀬にちょっかいを出す人間は日々尽きる事はない。俺は七瀬に煩わしい思いをさせたくないんだよ。一方的に好かれて言い寄られるのも不憫だ。モテすぎる辛さはこの俺がよく分かっている」
今、さりげなく自慢した?
「告白されて、それを断る。実はこれはパワーやエネルギーが必要な事だ」
それは確かにそうだろう。相手だって必死に自分の思いを伝えようと頑張るのだから、軽く振っておしまい、なんて普通は出来ないだろう。しかも心根がやさしければやさしいほど自分がダメージを食らう。
「だから七瀬には、そんな面倒はなるべく負わせたくない。そこでだ」
リキは俺を見てニヤリと笑った。
「君に七瀬を守る騎士になってもらおうと思う」
「そこに戻りますか……。でも何だって俺に頼むんですか?」
「いや、頼んでなんかいないよ。これは命令だよ」
「は!?」
流石に驚いた。そりゃあもう、全力で驚いた。
「ちょっと待って下さい! なんで俺にそんな命令するんですか? あなたは何者だって言うんですか!?」
リキは腕を組んだまま悠然と言う。
「俺は俺だ。菱形リキ様だ。まあ君には俺の事を特別に神様って呼ぶ許可を与えても良いけど?」
「言いませんし!」
つーかこの人何? 超自己中で自信家なんですけど!?
「だいたい、俺はなんでいきなりそんな事言われなきゃいけないんです? 俺は今まで貴方達と何の接点もなかったと思うんですけど!?」
「ああ、何で自分が騎士に選ばれたか知りたいのか、じゃあ教えてあげよう」
ドキリと緊張した。
理不尽な事をいろいろ言われたが、もしかして俺が彼の信頼に足る何かをしていて、それで是非にと思われているのなら、それは嬉しいというか、納得もできるなって思ったからだ。
リキは言う。
「君、先月の持久走で運動部でもないのにトップを走ってただろう?」
「は?」
言われた事が分からない。いや、分かるけどそれがこの展開にどう繋がる?
「俺はキミのその根性を買う気になったんだよ。騎士に必要なモノは何か? それは持久力。ネバーギブアップだ」
「よく意味が分かりません」
だいたいネバーギブアップって久々に聞いたよ。そこはかとなく80年代の香りがするんだけど?
「とにかく俺は君を騎士に決めた。だからマモル君、君が今日から七瀬の騎士だ」
言い切ったリキに俺は言葉が出なかった。でもそれは肯定ではない。あきれ返って言葉が出なかっただけだ。だから俺は菱形リキを無視して立ち去る事にする。
「どこに行く?」
横を通り抜けようとしたら、リキに腕を捕まれた。
「そのお話、お断りします」
「話を断るなんて出来ないよ。命令だって言っただろ」
至近距離で俺達は見つめあう。ふざけた事ばかり言っているのに、リキの顔は真剣だ。
でも俺だって、そんなよく知らない人の命令なんか聞けない。だいたい騎士って何するのかも分からないし、関わらないにこした事はない。
俺の考えを見透かしたように、リキはニヤリと笑った。俺はその笑みに眉を顰める。
「じゃあ、こうしよう。君と俺で今からバトルをする。そのバトルに君が勝ったら君は自由だ。だけど君が負けたら、君は七瀬の騎士になる。これでどうだい?」
俺は笑みを浮かべたままのリキの顔を見ながら考える。
「……それって、別に俺にとって何の得もないんだけど。そもそもバトルしないで帰れば良いだけの事だもん」
リキは掴んでいた腕を離して、フっと笑いながら髪をかきあげた。
「そうか、勝ったら褒美が欲しいか、なら与えてやろう」
えっと、どうしてこうさっきから上から目線の発言なんだ? 確かにこの人は上級生ではあるが、でも俺の事を完全下僕扱いな感じだし、まるで自分は王子様だとでも思ってるみたいな発言じゃないか? 俺はそんな上から目線の人間の取引になんか応じないからな。
「君が勝ったら、七瀬のセクシーショットの画像を与えよう」
気がついたら俺は勝負を受けていた。
いや、だってあの七瀬嬢のセクシーショットだよ?そ れはもうゴッホの絵とか、円山応挙の雪松図屏風位の価値はある。もう国宝級だ。そんな物を拝められると分かっていて勝負をしないなんて、もう男じゃないね本当。
「あの、所でバトルって何やるんでしょう?」
俺はバトルを受けたは良いが、内容をまったく聞いていない事に気付いた。いや、まさかケンカとか殴り合いとかは流石に今の時代にないだろう。そんなのは昭和の戦いだ。でもだからと言って勉強で勝負だとか、そんなのも困っちゃうんだけどさ。
「えっとどっちがペンキを早く塗れるかとか、みかん狩りに行って多くみかんをとれた方が勝ちとか、そんな勝負が良いんですけど」
「あはは、面白い事を言うね。バトルって行ったら戦闘に決まっているじゃないか」
「え?」
リキの視線が鋭いものに変わる。まさか、本当に戦闘? ケンカ?
動揺する俺にリキはニヤリと笑った。
「ああ、怯えちゃったかな?冗談だよ。君と俺が戦闘バトルしたら俺が勝つのは当たり前だからね。だからこんなバトルはどうだろう?」
言うとリキはいきなり空中から赤い薔薇を一輪取り出した。
「どっから出てきたその薔薇? 何も持ってなかったよな?」
「ああ、これは学校の温室の薔薇をとってきたんだ」
「俺が聞いたのはそれじゃない! つーか薔薇泥棒じゃないか! 園芸部が知ったら怒るぞ!」
「まあまあ、細かい事は気にしない。この薔薇もこの俺様に手折られたのであれば本望だろう」
この人かなりヤバイ感じだ。関わってしまって大丈夫だろうか?
真剣にそう思っていると、リキはいきなり俺にむかってその薔薇を投げた。
「おわ!?」
反射的にそれを受け取った。リキは不適に笑う。
そしてまたも空中から薔薇を取り出した。今度は紫だ。
「つーか、またいきなり現れたんだけど、どこの手品師なんだ?!」
「細かい事は気にするな。さてバトルの説明をしよう」
リキは優雅に薔薇を持ちながら説明を始める。なんだかえらい美形が黒い制服に身を包み、薔薇なんか持っていると、ここが校舎ではなく中世ヨーロッパの宮殿とかに見えてしまう。いや、ゴシックバリバリのドラキュラ城か?
「実は今、この学校の校舎のどこかに七瀬が居るんだ」
「え?」
名前を聞いただけで七瀬嬢の美しい姿が脳裏に浮んだ。
「その七瀬を見つけ出し、先に七瀬の髪にこの薔薇を挿した方が勝者となる」
「薔薇を挿す? 本当にそれだけで良いのか?」
リキは悠然と構えて微笑む。
「ああ、そうだよ。じゃあ、きっかり4時にスタートしようか?」
俺は校舎の壁にかかった時計を見た。4時ちょい前だ。
俺達はそれから暫く時計とニラメッコをしていた。バトル自体は簡単で、危険な事も何もなくて良かった。こんな勝負ならなんとかなる気がする。でもなんだか心臓はドキドキしてきた。いや、だって日常生活においてバトルって普通ないじゃん? だからその緊張感で心臓がドキドキする。
ハっとした。時計が4時になっている。気付くとすでにリキは走り出している。なんとなく俺も走り出す。
ってどこに向かって走ったら良いんだ? どこかに七瀬嬢が居るって、一体どこだ?
普通に考えて、彼女のクラスがある1年7組に向かう事にした。
階段を駆け上がりながら思う。やっぱ走らないとダメだろうか? 息が切れて苦しいから歩きたい。でもやっぱダメだよな、これは競争なんだから。のろのろ歩いて負けたんじゃ嫌だから、ここは必死に走るしかないだろう。俺は2階の端にある教室を目指した。
ガラリと教室のドアを開けた。けれどそこに七瀬嬢の姿はなかった。教室はガランとして誰もいない。俺は息をつきながら考えた。
そんな上手くはいかないか。でもじゃあ彼女はどこに居る? 当てずっぽうで回るか?
目的もないまま廊下にでた。
「さて……」
いきなり廊下左右のどちらに向かったら良いか悩んだ。
「どっちでも同じか?」
呟いて左に進んだ。するとすぐに階段に出てしまう。
「階段か……上るか下がるか……」
俺は上に上がる事にした。実はうちの学校は新設高校なので二学年しか生徒がいない。そんなワケで使用されている教室も一階と二階のみで三階には生徒がいないのである。
だからこんなバトルっていうか、ゲームをするには、確実に誰もいない三階が良いんじゃないかと思ったわけだ。
俺は階段を上がって三階に辿り着く。
そこは今まで立ち入ったことのない、人外魔境だった。それはそうアマゾンの秘境。生い茂る熱帯植物に、濁って茶色いアマゾン川。いつ上から巨大ヘビが襲ってくるか分からない、人類未踏の地。
「なんて妄想してる場合じゃないよな」
呟きながら一つ目の教室を覗いた。中には机の山があった。整然と並んでいるのではない。隅っこに寄せて置いてある。
ま、そうだろうな。来年新入生が入るまでこれらの教室は使われないんだ。だったら掃除も簡単になるように、机は隅に置いておくに限る。俺はその教室を後にし、次の教室に向かった。
廊下に出て正面を向いた時、俺の動きは止まった。
「え?」
目の前の廊下に一人の人間が立っている。ドクドクと心臓が鳴り出す。
肩下までの茶色の髪。標準丈のスカートから覗く細い足。特に魅力的なキュっとしまった足首。黒いハイソックス。変形デザインの黒い制服。そして恐ろしい程の美貌の顔。その少女、菱形七瀬嬢はじっと俺を見ている。
ヘビに睨まれたカエルじゃないが、一歩も動けないし声もでなかった。
人間、あまりに美しい人を目の前にすると、言葉も出ないモノだと初めて知った。美しさというのは恐怖なんだと、それこそ初めて実感した。あまりの美しさに圧倒され、そして何一つ言われてもないのに、勝手に自分を卑下したくなる。
ああ、こんな普通の顔でごめんなさい。貴方のような高貴な方に見られるだけで恐れ多い事でございます。どうかそんな綺麗な目で俺なんかを見ないで下さい。友達になりたいとか、そんな大それた事は思っていません。
なんと言うか、口をきくだけでも恐れ多い。お金払わせて頂きますって感じだ。
俺の動揺と緊張を彼女はどう思っているんだろう? 目の前に現れて身動き一つしない、何もしゃべらない男。もしかしてストーカーと思われていないだろうか?
「あ、あの……」
うわ、俺、何しゃべろうと頑張っちゃってるんだ? いや、確かに何か言わないと、いきなりストーカーとか痴漢として突き出されてしまいそうだけど。
「あ、あのですね、えっと菱形七瀬さん……ですよね?」
彼女は静かな瞳でじっと俺を見ている。その目はまるでガラスのようだ。カケラも動かないしズレない。まるで人形みたいに。
「……?」
彼女の目がピクリと反応した。いや、なんでかって俺が薔薇の花を翳して見せたからだ。だってそうでもしないと、彼女が自動人形とかフィギュアとかと区別がつかなくなってしまう。
「あのですね、お兄さんからお聞きかもしれませんが……」
七瀬嬢は首を傾げてきょとんと俺を見つめる。
(なんだよ、リキさん説明してないのかよ!? それでどうやって俺がこの薔薇持って彼女に近付いたら良いんだよ!?)
頭を抱えたくなった。でも七瀬嬢は逃げ出すような様子はない。これはなんとかなるか?
虎とかライオンを前にした人間のように、及び腰で彼女に近付く。別に襲われそうってわけじゃないんだ。彼女を怖がらせないようにと、そういう気遣い的な動きであって……。
彼女が怪訝そうに眉を顰めた。なんか変質者を見るような目でみられてしまった。仕方ない、一回姿勢を正そう。
「あのですね、俺、いや僕は今、貴方のお兄さんの菱形リキさんとバト……じゃなくてゲームをしてるんですよ。それでですね」
赤い薔薇を振って見せる。
「この薔薇を貴方の髪に挿させて頂きたいんですよ」
俺の説明を彼女は黙って聞いていてくれた。これはもしやいけるのでは?
俺は危険人物じゃありませんよ、というアピールの為に、両手を広げて彼女に近付く。
七瀬嬢は近寄っても逃げない。ただ人形のように動かないで俺を見ている。
ドキドキしていた。彼女に近付けば近付くほど緊張する。この綺麗な瞳に俺が映っている。そう思うと良くない想像ばかりしてしまう。近付くと俺のニキビ痕とか毛穴とか見えちゃうんじゃないか?
(つーか女子の発想だ、これ!)
余計な心配に勝手に心を痛めてしまった。なんかこれじゃ俺と七瀬嬢でバトルしてるみたいじゃないか?
もしそうだとしたら俺は彼女の無言の威圧攻撃でボロボロだ。すでに満身創痍。戦う気力が湧かない。俺はブサイクなブタ野郎ですと土下座でもしたい気分だ。
七瀬嬢はただじっと俺の事を見ている。俺は彼女に少しづつ近寄る。でも彼女は逃げる気配がない。これはこのままイケるんじゃないか?
手にした薔薇に力を込める。
俺と七瀬嬢は触れそうな程の距離にまで近付いた。その段階になっても七瀬嬢はピクリとも動かない。さっきから何かがうるさい、真横でドラムを叩いているのは誰だ? と思っていたら俺の心臓の音だった。
誰も居ない放課後の廊下。そこに立つ美貌の少女。清楚な顔なのにどこか妖しげな色香が漂う人。
七瀬嬢の黒目に引き込まれるような錯覚に陥る。なんだか呑み込まれてしまいそうだ。だって俺は彼女の髪に薔薇を挿すために近付いているのに、伸ばしたこの手は何だろう? 俺の左手が勝手に彼女の頬に触れようとしている。そして必要以上に近付く俺の顔。いやいやおかしいだろ? 薔薇の花を挿すのにこんなに顔を寄せる必要はないハズだ。なのに俺の動きは止まらない。なんだかこのまま唇がついてしまいそうだ。いや、彼女のこの無抵抗な様子からして、もしかして七瀬嬢もそれを期待してるんじゃないか?
いやいや、いやいやいや、俺は何を考えているんだ。そんなハズあるわけないじゃないか?
七瀬嬢がキスを待っているなんて……。
彼女の唇に吸い寄せられる。そう思った時だった。
「はい、俺の勝ちね」
聞こえた声に、俺を包んでいた異次元空間が消失した。
「え、え?」
俺は目が覚めたように辺りを見回した。すると七瀬嬢のふわふわの髪に紫の薔薇が挿さっている。そしてその横には黒い制服を悪魔的に美しく着こなした男が立っていた。
「リキさん、いつからそこに!?」
「いや、結構前から」
「そ、それってつまり……」
「君が七瀬に不埒な事をしようかしまいか、軽々3時間くらい考えているのをずっと眺めさせてもらったよ」
「さ、3時間はないだろう!」
俺はそんなに異次元を彷徨っていたのか!?
「ま、どちらにしろ君は俺に負けたんだよ」
返す言葉がなかった。確かにそうだ。俺は完全に負けてしまったんだ。先に彼女を見つけたにも関わらず、見惚れて危ない事を考えている間に先を越された。
「七瀬、紹介しよう」
リキは七瀬嬢に向かって微笑んで言う。
「彼がこれからお前の事を守る下僕だ」
「下僕扱いですか!?」
つい突っ込んでしまった。するとリキは黒い髪をサラリとかきあげる。
「ああ、ごめんごめん、つい下僕顔だったから」
「俺はどんな顔ですか!?」
「まぁ、気にするな。それより七瀬、彼が今日からお前の騎士になる久世マモル君だよ」
「彼が……」
七瀬嬢が呟いた。そして兄のリキから俺へと視線を移す。
黒い瞳に見つめられ、またもドキリとしてしまった。
「あの、貴方が私の騎士になってくれるの?」
俺は緊張しながら答える。
「ああ、そうだよ。俺が君を守る」
「守る……?」
「あ、ダジャレじゃなくて……」
俺の名前がマモルで、だから君を守るってコトじゃなく、そう説明しようとしたら、彼女が笑った。それはそう、ふわりと。
この瞬間の俺の気持ちをどう表現したら良いだろう? とても言葉でなんか言い表せない。
これが恋に落ちる瞬間というヤツだろうか?
だってこの不思議な気持ちを、俺は今、初めて味わっているんだ。
七瀬嬢は祈るように胸の前で手を組むとペコリと頭を下げて言った。
「はじめまして久世君。菱形七瀬です。よろしくお願いします」
それは俺の運命が劇的に変わった瞬間だった。
俺は彼女のためなら、命懸けのバトルをしても良いと、本気で思ってしまったのだった。
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