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◆第41話 決着

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『試合終了ぉぉぉっ! 第108回闘技会グラディアサンティカ杯を制したのはッ……な、なんと、『不屈の白兎』ピノラ選手だああああああああああああああああああッッ!!!!』


 場内に響き渡る試合終了の鐘。
 直後、闘技場内は割れんばかりの大歓声に包まれた。
 その巨大な声援は遥か闘技場を超え、サンティカ全域にまで響き渡ったのではないかと思える程だ。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!」
「や、やったああああああああ! ピノラちゃんがやったぞおおおおおおお!!」
「凄いッ! 凄すぎる、大逆転だああああああああああああああああッ!!」
「きゃあああああああっ! ピノラちゃん! おめでとおおおおおおっ!!」


 大喝采の拍手とともに送られる、祝福の声。
 大音量で鳴っているはずの鐘の音がまるで聞こえない。
 俺はその音に負けないほどの大声で、ピノラを呼んだ。


「ピノラあああああああああああああああああああっ!!!!」


 その声に、闘技場の中央に立つピノラも全力で呼び返してきた。


「ト……トレーナああああああああああああああああっ……!!」


 ピノラは左腕を押さえ、ふらつきながらも俺の方へと歩き出そうとする。
 その姿を見た俺は、すぐさま手すりを乗り越えて闘技場内に飛び降りた。
 地面に降りると同時に、広い闘技場を全力で走る。
 涙が溢れ、周囲の景色が歪んでも、俺は一直線にピノラの元へ駆けて行った。

 ピノラは、こんな距離を一瞬で飛び跳ねていたのか。
 ピノラは、こんな暑い場所で戦っていたのか。
 一歩足を前に出すたびに、彼女がいかに過酷な戦いをしていたのかが伝わってくる。


「ピノラっ………………!」


 そしてようやく辿り着いた闘技場の中央で、手を差し出すと同時にまるで崩れ落ちるかのように倒れ込んできたピノラを、俺は抱き止めた。
 力なく寄り掛かってくる彼女を、俺は優しく包み込むようにして抱き寄せる。
 すぐ目の前に、ピノラの顔が来る。
 頬は土に汚れ、真っ白い髪も乱れており、至る所に擦り傷もある。
 口元には自身の上腕を噛み切った際の血痕が散っている。
 見るからに満身創痍だ。
 それでも、ピノラの表情はどこか穏やかだ。
 しばらくの間、ぼんやりと俺の顔を見ていたピノラだったが…………
 突然、その瞳から一筋の涙が落ちていった。


「あっ…………」


 それはピノラの頬についた土の汚れを流し去って行く。
 そして次々と溢れるように、涙の筋が増えていった。
 俺の肩に乗せられたピノラの手が、ぎゅっと握り締められる。


「と、トレーナーっ……ど、どうしようっ……!」

「ど、どうしたんだ!? ピノラ!?」


 小さく震えながら涙を流し続けるピノラが、俺の身体を抱きしめ返す。


「ピ、ピノラね……今、すっごく嬉しいのにっ……トレーナーと一緒に、笑って、喜びたいのに……っ! な、なみだが……う、うえっ……涙が、出ちゃってっ……! ぐすっ、じょうずに、笑えないよぉ…………!!」


 彼女の大きな赤い瞳に写った俺の姿が、絶え間なく溢れ出る涙で歪んでいる。
 ピノラが身体を震わせるたびに、瞳から溢れた涙が俺の胸を濡らしていく。


「いいんだ……いいんだよ、ピノラっ!」


 涙声も絶え絶えになるピノラがあまりに愛おしく、俺は彼女の後頭部を抱え、胸元に抱き寄せた。


「今はたくさん泣いていいんだ! その涙は、ピノラが最高の獣闘士グラディオビスタになった証なんだ……!」


 抱きしめたまま、ピノラの髪を荒々しく撫でる。
 赤く輝く瞳から流れ出る涙は、決して悲しいから流れているのではない。
 ピノラ自身が勝ち取った、喜びの涙なのだ。


「う、うぇぇっ…………! ひ、っく……! う、うぁぁぁぁっ……!」

「おめでとう! よく頑張ったな、ピノラぁぁっ!!」


 次第に大きな声で泣き始めたピノラを、俺は再び力一杯抱きしめる。
 まるで幼い少女のように泣きじゃくる彼女を見て、俺も一緒になって涙を流した。
 灼熱の闘技場を照らす陽光の下。
 第1回戦で初めて勝利を収めた時と同じように、俺たちを見ている観客は全員総立ちになって拍手と歓声を送ってくれている。

 すると突如、控え室から続いている扉が開かれ、数名の人影が闘技場内に駆け込んできた。
 闘技会グラディア専属の救護班だろうか。
 先頭に見えるアンセーラ先生は、応急処置のための治療具の入った箱を手に持ち、助手を数人引き連れている。
 何人かに地面に倒れたままのマナロの救護にあたるよう指示を出した様子で、残りの人数を率いてこちらに向かってきた。


「…………まったく、とんでもなく無茶な戦い方をしたものね……」


 目の前に来るなり、アンセーラ先生は怒ったような顔で立ったまま見下ろしてきた。
 鋭い眼光が、こちらを見ている。
 その目は、先ほどまでピノラと死闘を繰り広げていた狼獣人ワーウルフ族のマナロよりもずっと鋭く、冷たく、怖い。
 勝利の喜びを分かち合っていた俺とピノラだったが、鬼気迫る顔をした先生に気付くと涙目のまま小さくなってしまった。


「ふぇ!? え、あ、あぅ…………!?」

「ア、アンセーラ先生……その、すみません、これは…………」

「言い訳と謝罪と反省はあとにしてっ!! 早くピノラちゃんの左腕を見せなさい!! 大出血じゃないの!!」


 抱き合っていた俺とピノラを引っぺがすように、俺はアンセーラ先生に頭を掴まれて倒されてしまった。
 応急処置の邪魔だと言わんばかりに投げ捨てられ、背中から闘技場の地面に放り出される。


「あだッ!?」

「あ、あぁぁっ! トレーナああぁぁっ!!」


 引き剥がされた勢いそのままに背中を強打した俺は、痛みに悶えながらも起き上がり、アンセーラ先生に抗議した。


「い、いてて……ちょっと、痛いじゃないですか先生っ! 感動の場面なんですよ!? なにも、そんな思い切り引き剥がさなくても……!」

「うるさぁいっ! いつまでも抱き合っていられると、止血のジャマなのよ! ピノラちゃんはそこに寝なさい! アレン君はそのコートを脱いで、ピノラちゃんの枕にして! それから足の武具を外してあげなさいっ、さぁ早く!!!!」

「あ、あぅぅ……先生っ、ピノラ、トレーナーにやって貰いたいなー、って」

「ああ、そうだな。止血なら俺が────────」

「いいから! 黙って! 言う事を聞きなさいッ!!」

「ひえぇぇっ!?」

「は、はい…………わかりました……」


 ポケットから取り出した止血帯をピノラの上腕に巻きつけつつ一息で的確に指示を出され、俺は文句を返す隙もなく返事をした。
 助手たちに指示を出しながら止血帯を巻きつけているアンセーラ先生の邪魔にならないよう移動する。
 アンセーラ先生のあまりの迫力に、ぷるぷると震えながらも地面に寝かされたピノラの横に膝立ちになると、外套コートを脱いでピノラの頭の下に差し込んでやった。
 そしてすぐさま足元へ移動すると、アダマント製の武具のバックルを外していく。
 彼女の足にぴったり合うように設計された武具を外すと、その中から現れたのは……ところどころで内出血を起こしていた、ピノラの足だった。


「……こ、これは…………」


 思わず零した俺の声を聞いたアンセーラ先生は、ピノラの左上腕を圧迫止血しながら彼女の足を見て呟いた。


「そりゃあ、兎獣人ラビリアンと言えどもあんな速さで飛び跳ね続けてたら、こうなるわよ……ピノラちゃん、足の指は動かせる?」

「う、うん……でも何だか、ふくらはぎがピリピリしてちょっと……あうっ!? い、いたぁぁぁ……!」


 足を軽く持ち上げているピノラは、あまりの痛みのためか顔を歪めた。
 思わず声が出てしまうほどのようで、ぷるぷると震えてしまっている。
 痛みに悶えるその顔すらも可愛いと感じてしまったことは黙っておこう。
 一見して内出血だらけの脚はかなり重症に見えるが、それでも足先の指はくにくにと動いているようだ。


「ピノラちゃん、ありがとう、もういいわよ。見た目はかなりひどいけど指の先までしっかり動いてるから、骨や神経は大丈夫そうね。アレン君、これでピノラちゃんの足を包んであげて」


 そう言って器用に片手で止血作業をしながら渡されたのは、木箱の中から取り出した濡れ布巾だった。
 直前まで汲み上げた地下水に浸されていたのだろう、驚くほどひんやりとしている。
 内出血の症状を緩和するため、俺は青く腫れたピノラのすね脹脛ふくらはぎを包み込むようにして巻きつけた。
 あまりに冷たい布巾なので少しばかり躊躇してしまったが、足を冷やされたピノラは心地良さそうだ。


「ふやぁぁぁ~……トレーナー、これ気持ち良いよっ! 先生、ありがとう~~っ!」


 段々と表情の解れたピノラは、すぐ目の前で傷口の処置をしているアンセーラ先生ににっこりと笑いかけた。
 その笑顔は、つい先ほどまで歯を食いしばって戦っていたとは思えない程に可愛らしい。
 嬉しそうに長い耳を動かすピノラの表情を見て、俺はようやく口元に笑みを浮かべることが出来た。
 ほっと胸を撫でおろし、俺も改めてアンセーラ先生にお礼の言葉を伝える。


「アンセーラ先生、ありがとうございます」

「いいのよ、これが私の仕事なんだから。それにしても……あなたたち本当に凄い事をやってみせたわね。私はてっきり、アレン君の言う『変わる』って言うのは『初勝利をあげる』くらいの事だと思ってたのに、まさかピノラちゃんが優勝までしちゃうなんて。あの時、アレン君を獣人医の仕事に引き込まないで本当に良かったわ」


 んぐっ、と言葉に詰まった俺は、周囲にいる他の救護班の人々に聞かれていなかったかと、慌てて周囲を見渡した。


「あ、あの、先生……この前までのの件は、くれぐれも闘技会グラディアの関係者には内密に……」


 まさか闘技場のど真ん中でそんな話題を出されるとは思ってもみなかった俺は、やや小声になって呟いた。
 急にどぎまぎし始めた俺の様子を見たアンセーラ先生は、止血帯を固定しながらにやりと笑みを浮かべる。


「ふふふ、大丈夫よ。私はひとの弱みを握ったら、無駄にするような事はしないから」

「い、いや、そういう事じゃ無くてですね……!」

「うふふ、冗談よ」

「ふぇ? トレーナー、なぁに?」

「な、何でもないよ、ピノラっ!」


 目の前でこそこそと話していた俺たちを見て、ピノラはきょとんとした顔で首をかしげている。
 別に秘密にしなければいけない訳ではないのだが、なにも今ここで大っぴらに話す内容でもない。
 それにピノラのことだ、内容を伝えた途端に『えーっ!? トレーナーってお医者さんもやってたのっ!?』などと叫ばれた日には、目も当てられない事態になりかねない。
 ピノラには、あとでじっくりと時間をかけて説明するとしよう。


「念のため、足には痛み止めの貼付薬を使っておくわ。あとは私がやるから、アレン君は上腕の圧迫止血を代わりなさい。このあと表彰式にも出なきゃならないんでしょう?」

「わ、わかりました。ピノラ、腕をぎゅっとするから、痛かったら言うんだぞ」

「ふあぁぁ……えへへへ☆」


 アンセーラ先生と位置を変え、ピノラの上半身を抱き寄せるように抱え込むと……途端にピノラは満足げな表情を浮かべて甘え始めた。
 空いている右手で俺のシャツを掴むと、身を寄せて鼻を摺り付けるようにして匂いを嗅ぎ始める。
 と、そこへ観客席から聞き覚えのある大きな声が響いた。


「アレン! アレンよぉ! ついにやったなぁ!」

「シュトルさん!!」


 騒めく客席の最前列、一際大きな声で喜んでくれているのはシュトルさんだ。
 特別招待席から身を乗り出し、手にして杖を天高く掲げながら満面の笑みを浮かべている。
 そのすぐ後ろにいる白いスーツ姿のキャドリーさんも、紫色に輝く瞳を細めながら拍手を送ってくれているのが見えた。


「本当に……本当によくやった!! 聞こえるか、この拍手が! 歓声が!! お前たち2人が、このサンティカのチャンピオンになったんだぁぁっ!」


 歓喜の叫びを上げるシュトルさんは、両手を掲げて喜びを爆発させている。
 まるで自分の事のように喜んでくれているシュトルさんを見て、俺は胸が熱くなるのを感じた。
 闘技会グラディアのチャンピオン』……俺とピノラが、そんなふうに呼ばれる日が来るなんて。


「あ、ありがとうございます、シュトルさんっ」

「おいおい、何だよアレン! お前、妙に落ち着いてるなぁ!? 訓練士トレーナー専用席から一目散に飛び出して行ったくせに、何でそんなに平然としてるんだ! もっと大喜びしてもいいんだぞぉ!?」

「ははは……す、すみません! でも……何だかまだ実感が湧かなくて……」


 幸せ過ぎて、まるで夢の中にいるかのような感覚。
 それは俺の腕の中で甘えているピノラも同じ様子だった。


「ねぇ、トレーナー? ピノラって、闘技会グラディアで一番の獣闘士ビスタになったんだよね?」


 ふと視線を落とすと、止血のために抱かれているピノラが俺の顔を見上げていた。
 唇を尖らせ、キョトンとした目で見つめてくる表情がとても可愛らしい。
 俺は顔を覗き込むようにして、ピノラに微笑みかけた。


「そうだよピノラ。ピノラが頑張ってくれたおかげだ」

「えへへへっ……! じゃあ、これでずっと一緒にいられるね、トレーナーっ!」


 腕の中で甘えるように頬を摺り寄せてくるピノラの顔を見て、俺は力強く頷いた。
 
 ピノラと俺は、名誉や貨幣ガルドのためだけに戦ってきたのではない。
 獣闘士ビスタ訓練士トレーナーとして、そして家族として、更に愛し合うパートナーとして共に歩む未来を掴むためだ。
 『俺と一緒に居たい』という願いを叶えるために、ピノラは決意と覚悟を胸に闘技場に立った。
 そして今日まで、こんなボロボロになるまで戦ってくれた。
 こんなに幸せなことが、ほかにあるだろうか。
 目の前で照れくさそうに笑うピノラが、愛おしくてたまらない。
 もっともっと、この笑顔を見ていたい。
 止血のために肩を抱きながら、腕の中のピノラに語り掛けた。
 

「そうだ、ピノラっ! ついに闘技会グラディアで一番になったんだ! ご褒美をやろう!」

「ふぇっ!?」


 腕の中で驚いたような声を上げながら、ピノラは長い耳をぴんと伸ばす。
 
 
「ご、ごほうびをくれるの!?」

「ああ! ピノラはチャンピオンになったんだ。優勝賞金がいくらになるのかは知らないけど、きっと沢山貰えるよ。何か食べたいものでも良いし、したい事だって良い。何がいいかな?」

「え、えぇぇぇっ!? えっと……な、何でもいいの、トレーナーっ!?」

「もちろん! 何でもいいぞ!」

「ふわぁぁっ……! じゃ、じゃあっ…………」


 少しの間、下を向いて考え込んでいたピノラだが、勢いよく顔を上げる。
 キラキラと光る赤い瞳を大きく開きながら、意を決したように口を開いた。


「ピノラ、桃が食べたいっ! トレーナーに会った日に貰ったような……う~んと甘くて、美味しい桃が食べたぁーいっ!!」

「も、桃!? 桃かぁ~……」

「うんっ! ダメかなぁっ!?」

「駄目では無いけど……うーん、今の時期、まだサンティカにあるかな……?」


 何でもいいとは言ったが、旬の季節が終わりかけた果物とは。
 まだ市場に流通しているなら買えない事も無いだろうが、もはやこのサンティカ周辺にあるのかは怪しい。
 そんなピノラの叫び声が聞こえたのか、客席でシュトルさんの横にいたキャドリーさんが動いた。


「モルダン様っ! 我々にお任せを!」

「えっ!? キャ、キャドリーさん!?」


 紫色に輝く瞳を一際大きく見開いたかと思うと、背後にいる黒いスーツの付き人8人全員に向けて指示を飛ばす。


「あなたたち、聞きましたね!? 業務命令よ! 今すぐ全員で組合に戻り、北方の陸路商圏に残っている桃をこのサンティカにかき集めなさい!! ディンバルトンとリンベルタの営業所にも連絡! 北方大陸の保管庫にある氷をすべて使ってでも集めるのよ、さあっ!」


 後ろを振り向いたキャドリーさんの顔が見えないが……指示を受けた彼女の部下たちが全身の毛を逆立てているところを見ると、彼女がいまどんな顔をしているのか想像に難く無い。
 確かに北方大陸の通商路であればまだ何とか桃が手に入る時期かもしれないが、手に入れるのは至難の業だろう。
 キャドリーさんの事だから、ピノラが購入したあとに余った在庫を提供源スポンサーの特権を行使して売り捌くつもりに違いない。
 ピノラの何気ない一言によって、とんでもない激務が約束されてしまった付き人さんたちに心の中で謝っておく。
 そんな俺の心情などおかまいなしに、ピノラは笑顔のまま続けた。


「それとねっ、トレーナーっ!!」

「んっ? 何だ? もうひとつあるのか?」

「うんっ!! あ、あのねっ…………!」


 言いかけて、ピノラはふと視線を外す。
 鉄手甲ガントレットをはめたままの指をくにくにと合わせながら、もじもじと身を捩っている。
 どこか照れくさそうにするピノラに問いかけようとした矢先に、ピノラは瞳を輝かせながら顔を上げた。


「と、トレーナーに……いっぱい、いっぱい抱っこして欲しい! それで、あの、その……い、いっぱい、キスして欲しいなーっ!!」

「ぶッッ!?」


 照れ臭そうに話すピノラ。
 それを聞いた俺は、思わず噴き出してしまった。
 もちろん拒否するつもりなど無い。
 だがピノラが言葉を発した場所が、大いに問題だ。

 ここは800年前に作られた、古代サンティカの闘技場。
 この建物は、闘技場内の音をよく響かせる造りになっている。
 闘技場の中央でピノラが無邪気に言い放った可愛らしい要望は、石造りの階段を駆け上り闘技場内にいるほぼ全員の観客へと響き渡った。
 直後、観客席の各所から様々な声が漏れ聞こえてくる。


「なっ……!?」
「えええっ!?」
「だ、抱っこ……? キ…………ス……!?」
「あ、あの2人……やっぱりそういう……!」
「きゃーっ!☆」
「ピノラちゃんったら、大胆っ!!」
訓練士トレーナーさん……す、するのか……!? 今、ここでっ……!?」
「当たり前じゃない! ここでしなきゃ、男じゃないわよ!!」
「やれぇぇぇっ! いますぐやれぇぇぇぇっ!!」
「ピ、ピノラたん!? ピノラたぁん!? あ、あ“ あ“ あ“ あ“ あ“ あ“!?」


 優勝を祝ってくれていた観客席の空気が、一瞬にしてがらりと変わるのを肌で感じる。
 ピノラは、その戦績に関わらず多くのファンがいる獣闘士ビスタだ。
 たった今ピノラが放った言葉を聞いた男性たちは、嫉妬と羨望の声を……女性たちは含羞がんしゅうと期待を込めた悲鳴を上げていた。


「あー、ピ、ピノラ。それはもちろん、い、良いんだけど、その……うちに帰ってからにしような!?」

「えーっ!? 今がいいっ! トレーナー、今すぐしたいーっ!!」

「うぇっ!? いや、こ、ここでそういう事を言うと、ほら……! 皆に見られてるし、聞かれてるから、その」


 俺も解っている。
 もはや時、既に遅し。

 目の前で、ピノラの足に湿布薬を貼ってくれているアンセーラ先生の視線も、観客席から降り注ぐ視線も痛い。
 全方位から突き刺さる観衆からの眼差しには、期待やら嫉妬やら憤怒やら、様々な感情が込められているのが感じ取れる。
 『やめてくれ』と『さっさとやれ』の入り混じったような、混沌とした空気が重くのしかかる。
 吹き出る汗。
 止まる思考。
 腕の中で唇を尖らせながら待っているピノラに、俺は再び説得を試みようと口を開きかけたのだが…………
 

「うぅ~~…………はむっ!」

「んむっっ!?」


 突然のキス。
 俺に体重を預けて甘えていたピノラは、急に俺を抱き寄せると躊躇することなく唇を重ねてきた。
 あたりに目配せをしていた俺は、完全に不意をつかれてしまった。
 狼狽える俺の唇を、ピノラはちゅうちゅうと嬉しそうに吸う。
 包帯を巻かれていない右腕を俺の背中に回し、密着するような格好になっている。


「あ、あーあー……お、お嬢ちゃん、やりやがった……こりゃ収拾がつかねえぞ、ははは」

「おやおや、モルダン様ったら。お若いって良いですわねえ、ほほほほ」


 客席からシュトルさんとキャドリーさんの声が聞こえたような気がしたが、俺の耳にはほとんど届かなかった。
 応急処置をしてくれていたアンセーラ先生はこの後に起こる何かを察知したのか、手を止め、両手で耳を塞ぐ。

 その直後、3万人を超える観衆の中央で行われた激しいキスにより
 ピノラを応援してくれている男性のファンのものと思しき絶叫と
 同じく応援してくれている女性ファンのものと思しき黄色い叫び声が混じり合い
 サンティカの闘技場はその歴史上、かつてない程の巨大な歓声に包まれたのだった。
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